休暇を、取ろう!
拠点の昼下がりは、いつもなら少し間延びした空気が流れる。
今日はそうではなかった。
午後の光が中庭から差し込んで、共用スペースの床に長い四角を作っていた。
共用スペースの端に、金魚の水槽があった。不釣り合いなほど大き目なサイズに、小さな赤い金魚が二匹泳いでいた。
ユキナガはソファに横になってヘッドホンをつけたまま水槽を見ていた。
カラムは壁際の椅子に浅く座って、火をつけていないRothmansを指に挟んでいた。
カイはキッチンカウンターに背をもたれて、何も飲んでいないグラスを手の中で回していた。
リヴァはカウンターチェアに座ってコーヒーを飲んでいた。淡いグレーのワンピースに、ヒールの低いベージュのパンプス。膝にミントを抱いて、撫でていた。撫でているというより、掌を乗せているだけだった。あくびが出た。
アルノが共用スペースの窓際でパソコンの画面の汚れを拭いていた。
ヴィクトルがソファの背もたれに腕を預けて座っていた。たまたま朝から拠点にいた。理由はアルノに用事があっただけだった。要件が済んだ後、ジムで汗を流しシャワーを浴びた後だった。
廊下から、誰かの足音が聞こえた。
全員の視線が、一瞬廊下に向いた。
カラムの指がRothmansから止まった。ユキナガがヘッドホンを片耳だけ外した。カイの肩が少しだけ落ちる位置に変わった。リヴァのコップを持つ手は動かなかった。
フィンが共用スペースに入ってきた。半袖シャツの袖を綺麗に揃えて折っていた。
「ちょっといい?」
誰に言ったわけでもなかった。でも全員の視線が向いた。
リヴァがコップを置いた。コップがカウンターに当たって小さく音を立てた。
カイの視線とアルノの視線が、その音に動いた。リヴァに動いた。リヴァが何ともない顔をしているのを確認して、戻った。
フィンはそれを見ていた。
「…言うね」フィンは言った。「みんな、寝れてないでしょ」
間があった。
「沖縄から戻ってから。平均睡眠時間、たぶん全員五時間切ってる。リヴァは」
「…今日は、切ってるだけ」リヴァは答えた。
「カイは」
「問題ない」
「それ答えになってないよね」フィンは言った。穏やかだったが退かなかった。「アルノは昨日の夜中の三時にまだ電気ついてた。ユキナガは俺が朝五時に水飲みに行ったとき起きてた」
ユキナガがヘッドホンを首に下ろした。「俺は仕事だから」
「今徹夜までの案件はないはず」
「なんで知ってんだよ」
「たまたま。カラムは」
「寝てる」カラムが短く言った。
「…まあ、君はもともとあんま寝ないんだろうけど」フィンは言った。「さっきも、俺の足音で全員一瞬止まったでしょ」
誰も答えなかった。
「俺も、そういうの抜けてないんだ」フィンは付け足した。「同じ。ただ、全員同じってことは、これは全員の問題だと思う」
フィンがアルノを見た。
まっすぐに見た。
アルノがフィンを見た。
何かを察知して、首を傾げた。
「休暇取って旅行行こ!」
みんな黙っていた。
時が止まっていた。
「……お前が言うのか」カイが腕を組んだ。
「フィン、外部協力者でしょ」ユキナガが天井に向かって言った。「三ヶ月の契約じゃなかった?」
「そうだね」フィンは認めた。
「じゃあ、入る」
沈黙。
今度は少し、質の違う沈黙だった。
全員の視線がアルノに向いた。
アルノはフィンを一秒見た。
それから視線を室内全体に流して、また手元に戻した。
「いいですよ」
ユキナガが飛び起きた。「え」
「問題はありません。あなたが望むならいいですよ」アルノは言った。「正式な所属はコアの判断ですが、実務上は私が処理します。問題は出ません」
「……あっさり」
「カイがスポッターな今、前衛もいないですし。合理的な判断です」
リヴァがフィンを見た。「…おめでとう」
「ありがとう。これで恩返しできる」フィンが少し笑った。
「恩返し?」
「助けてくれた時の」
カイは何も言わなかった。窓の方を見ていた。
ヴィクトルがソファから「めでたいな」と言った。
「で、休暇は?」フィンが聞いた。
「それは別の話です」
「俺アルカに入ったでしょ。俺の意見はアルカの意見」
「在籍と意思決定権は別です」
「在籍してる人間の声を無視する組織なの?」
「結論は同じです」
「じゃあ三日後にもう一回言う。それまでに全員に根回しする」
「根回しする時間があるなら任務に——」
「その任務のために休暇が必要なんだって今言ってる」
アルノが口を開いた。
フィンが先に続けた。
「アルノ、帰ってきてから煙草、一日二本増えてるよね」
アルノが何か言おうとした。またフィンが遮った。
「堅物ドイツ人」
「……」
「イギリス人に口で勝てると思った?」
アルノが端末を閉じた。
「……検討します」
「取る、で」
「検討します」アルノが語気を強めた。
ヴィクトルが奥の席から笑った。
「眼鏡汚れてる。拭きなよ」フィンが眼鏡拭きをポケットから差し出した。用意周到だった。
アルノが目を逸らした。何も言わなかった。
眼鏡をはずした。汚れてるはずがなかった。
右側の端に指紋がついていた。拭いた。
ユキナガが小さく拍手した。「アルノが押し負けた」
「やるな。新人」ヴィクトルが言った。
「お前は外部だろ」カイが言った。
ヴィクトルが肩を上げ、椅子に背を付けた。
アルノがヴィクトルを見ていた。ヴィクトルは無視した。
「決まりだな」ヴィクトルが言った。「俺も行く」
「カラムも行くよね」フィンが言った。
カラムは断るのが面倒そうだった。何も言わずにRothmansに火をつけた。
「どこに行くの」リヴァが言った。
「皆で決めよ」フィンはユキナガのノートパソコンを指した。「借りていい?」
「自分の使えば」
「充電切れてる」
フィンがソファのローテーブルにパソコンを置いて開いた。しばらくキーを叩いて、画面をみんなの方に向けた。
「候補。デンマーク、モナコ、南アフリカ、プリンスエドワード島とか」
「プリンスエドワード島って何」ユキナガが言った。
「カナダ。赤毛のアンのとこ」
「なんで」
「俺が行きたいから候補に入れた」
「外せ」カイが言った。
「なんで」
「遠い。デンマークも」
「モナコはどうだ」ヴィクトルが言った。「カジノもF1もある。地中海だ」
「カジノはアメリカで行った」カイが言った。リヴァを一瞬見た。
「じゃあ南アフリカは?」フィンが言った。「ペンギンいるよ」
一同が止まった。
「……ペンギン?アフリカに?」ユキナガが言った。
「ボルダーズビーチ。普通に歩いてるらしい」
「お前今自分がイギリスにいると思ってない?」ユキナガが言った。
「あ」
リヴァの声だった。
全員が振り向くと、リヴァはパソコンを引き寄せていた。画面には関係ない検索結果が開いていた。モルディブの水上コテージの写真だった。ターコイズブルーの海に、白い桟橋が伸びていた。
「きれいそう」
リヴァは言った。特に主張している感じではなかった。ただ、見ていた。
「モルディブか」ヴィクトルが言った。
カイがカウンターから少し体を起こした。画面を見るためだった。
「ダイビングができる」
「素潜りしたい」リヴァは言った。
「できる」カイは言った。
フィンはそれを見ていた。
「…また海」アルノが言った。ユキナガと互いに見合った。
「沖縄も十分海だったでしょ」ユキナガが言った。
「あれは任務」リヴァが言った。「遊んでない」
「遊んでたよだいぶ。ヴィクトルの船で」ユキナガは言った。
「日本から真裏の南アフリカよりは、よっぽど現実的だな」ヴィクトルが言った。
「移動時間も短い」カイがすでに自分の端末でフライトを調べ始めていた。
「ちょっと待って、俺のペンギンは?」フィンが両手を広げた。
リヴァはコーヒーを一口飲んだ。
「ロブスター食べたい」
ヴィクトルがソファから体を起こした。
「呼べばいい」ヴィクトルは言った。「ロブスター、オイスター、蟹。現地に手配する。船で運ばせる」
「ヴィクトルが疲れてる顔で言うと信憑性ある」ユキナガが言った。
「疲れてる」ヴィクトルは言った。「だから旨いものが食いたい」
「賛成」リヴァは言った。
「…決まりだね」フィンは言った。
アルノがメガネのブリッジを押し上げた。
「決定が早すぎませんか」
「アルノ、お前はどこでも仕事をするだろう」
「……否定はしません」
「で」ユキナガが言った。パソコンを覗き込んだ。「モルディブってさ」
ユキナガは画面をスクロールしていた。
「危なくないとこなの」
部屋の温度が、一段落ちた。
「島が点在してて、いい的じゃん」
カイの視線が動いた。ユキナガに。それからリヴァに。
リヴァは少し悲しそうな顔をしている。そんな風にカイには見えた。
カラムが、煙草の煙を吐いて、言った。
「…モルディブ…一回、やった」声が小さかった。
「やったって何が」ユキナガが言った。声が少し静かになった。「…まさか」
間があった。
誰も動かなかった。リヴァの掌がミントの背で止まっていた。
「いつ」ユキナガが言った。
「…五年くらい前。三月だった気がする」
「誰の依頼」
「…覚えてない」
カラムはそれきり何も足さなかった。
「ひえっ」フィンが言った。
ユキナガが少し遅れて両手で顔を覆った。
アルノが眼鏡を押し上げた。何も言わなかった。
ヴィクトルがソファに沈み直した。Sobranieに火をつけた。煙を一度吐いた。一度目を閉じて、開けた。
「俺が組む。前に手配したことがある」
全員がヴィクトルを見た。
「ヴィクトル」アルノが言った。
「リヴァが行くなら、完全に休めるようにしてやる」ヴィクトルはアルノを見なかった。煙の先を見ていた。「撃てない島を貸し切ろう」
沈黙が、質を変えた。
「知り合いに所有者がいる。周囲二キロ、全部サンゴ礁。接岸ポイントは桟橋一箇所」
カラムが顔を上げた。
「…サンゴ」
「ああ」
ヴィクトルがカラムを見た。それだけで通じる相手を見る目だった。
「船で来るなら桟橋。丸見えだ。サンゴを越えるなら水中から。それなら検知できる」
「最短は」カラムが言った。
「一番近い島まで四キロ」
カラムが少し間を置いた。指の中で新しいRothmansが回っていた。
「お前の見立てで、いける島か」
「…四キロは無理」
カラムはもう一度間を置いた。海の図面を頭の中で引いている顔だった。
「…その島はやらない」
「決まりだ」ヴィクトルは言った。「こいつが味方でよかった」
「すごい」フィンが言った。「プロの会話だ」
「フィン、お前は近接の配置に入れ。後で詰める」
「了解」
カイはずっと黙っていた。
リヴァが画面を見ていた。
「ヴィクトル」リヴァは言った。
「ん」
「ありがとう」
ヴィクトルが少し笑った。今度は軽さが戻っていた。
「俺は楽しいことが好きなだけだ」
カイの視線が、リヴァに止まっていた。
「イーサンとレッドも誘ってみれば」ユキナガが言った。
「いらない」カイが即答した。
「リヴァが会いたがってない?」
「うん」リヴァが言った。
「呼ぶ」カイが即答した。
カイが携帯を出した。立ち上がって廊下の方に歩いていった。早かった。
「飛行機は」アルノが言った。
「俺ので直行で行ける。確か十一時間位だ」
「最高。ありがとう」フィンが言った。「お菓子いっぱい持っていこ」
「お前らは気をつかわないな」
「ヴィクトルにはつかわなくていいって、リヴァが」フィンが言った。
「リヴァ」ヴィクトルが言った。
「言った、かも」リヴァが言った。
ヴィクトルが笑った。
カイが廊下から戻ってきた。
「二人とも来る」
「現地集合?」フィンが言った。
「ああ。ドバイ経由でマレに来る」
「了解です」
「テキサスの真裏だとレッドがぼやいてた」
リヴァは頭の中で地球儀をイメージしたが、よくわからなかった。
「オラヴルも呼ぼう」リヴァが言った。
アルノの手が止まった。ヴィクトルがSobranieを口から離した。
「あいつは飛行機に乗らない」ヴィクトルは言った。
「じゃあどうやってアイスランドから来たの」
「気にすんな」ヴィクトルが煙を吐いた。「怖がりなだけだ」
アルノが端末に視線を戻した。
リヴァはコーヒーカップに手を戻した。一口飲んだ。
ユキナガがヘッドホンを首にかけ直した。
コップがカウンターに触れる前に、フィンの手が伸びてコースターを敷いた。リヴァは気づかずコップを置いた。
カイの視線が、その動作に止まった。
フィンとカイの目が、一瞬合った。
先に逸らしたのはカイだった。フィンはもう一度パソコンの画面に目を戻した。コースターの位置を、指先で一ミリだけ直した。
"MARILYN MONROE" / SEVDALIZA




