残り五分
リヴァの部屋。
シャワーを浴びたばかりだった。髪がまだ湿っていた。グレーのリネンのキャミソールワンピース。タオルを首にかけていた。
時計は二十一時を少し過ぎていた。
ノックが二回。
「リヴァ」
低かった。アルノの声だった。
リヴァがドアを開けた。
アルノが立っていた。白いシャツの袖を肘まで折っていた。黒のスラックス。眼鏡。端末を片手に持っていた。
「うん」
「失礼します」
リヴァがドアを閉めた。
部屋のソファに、二人で座った。
アルノがリヴァの隣に座った。距離は少しあった。
端末をテーブルに置いた。
「グレイの話を共有しに来ました」
リヴァが止まった。
「まだあなたを狙っています」
「⋯⋯」
「沖縄のあと、グレイのチームを追っています。完全には追えていません。ただ、明確に、諦めていない」
リヴァが息を吸った。
「船上での接触」
「うん」
「まだ、全容は把握できていません」
「⋯⋯わかってる」
「私が沖縄で受けた尋問から、逆算できる範囲で推測しています」
リヴァがアルノを見た。
「アルノ」
「はい」
「無理に話さなくていいよ」
「いえ」
アルノが端末から目を上げた。
「共有させてください」
リヴァが息を吐いた。
「⋯⋯うん」
アルノが沖縄での尋問の話を始めた。
時間軸通りに。最初の数時間、薬物、拘束、温度の操作。グレイが提示した条件。
「数えていました」
「数?」
「自我を保つための、古典的な手法です」
「⋯⋯」
「途中で、Vier、で止まりました」
アルノが言った。
ドイツ語の音だけが、普段の日本語の中に、混ざった。
「思考の経路が塞がれていきました」
「⋯⋯」
「最後にグレイが聞いたのは、誰を、最後に思い出すか、でした」
リヴァが目を伏せた。
アルノが続けた。
「グレイは、答えを知っていました」
リヴァが、目を上げた。
「彼は尋問の訓練を受けている人間です。私も対尋問の訓練を受けてきました。それでも、崩された」
「⋯⋯うん」
「あなたは、訓練を受けていません」
「⋯⋯」
「だから、私の経験を共有しておきたい」
リヴァがアルノを見た。
「次に捕まらないように」
「⋯⋯」
「生きて戻れるように」
リヴァが息を吐いた。
「うん」
短かった。
アルノが視線を外した。外して、また戻した。
途中で、リヴァが口を開いた。
「体は、覚えてる気がする」
「⋯⋯」
「アルノの話を聞いてると、どこかで似たことをされた気がする」
アルノが止まった。
「⋯⋯」
「思い出さなくて、いいです」
「⋯⋯」
「また思い出した時に、共有してください」
リヴァがわずかに頷いた。
「…それと」
アルノが端末を閉じた。
「昨夜のアルバンの件で、ユキナガがセキュリティを再構築中です」
「……」
二人ともしばらく何も言わなかった。
時計の音が聞こえていた。観葉植物の葉が、エアコンの風で揺れていた。
アルノがソファに座ったままだった。
リヴァがそれに気づいた。気づいて、何も言わなかった。
アルノが視線をリヴァに移した。
「…あの夜の件ですが」
低かった。
リヴァが息を止めた。
「忘れていただいて構いません」
リヴァが何か言おうとした。言葉を探した。
アルノが、わずかに止まった。
「……」
リヴァが止まった。
アルノがリヴァを見ていた。
「すみません」
謝っているのに引かなかった。
リヴァがアルノを見た。アルノが視線を外さなかった。
リヴァが自分の手を伸ばした。アルノの手を取った。
ゆっくりと自分の頬に当てた。
アルノの手のひらが、リヴァの頬に触れた。
リヴァが頬をその手にわずかに預けた。
アルノが止まった。
リヴァが目を閉じた。
アルノの呼吸が深くなった。戻った。また深くなった。
「リヴァ」
低かった。
「…帰った方がいいですか」
リヴァが目を開けた。アルノを見た。
返事をしなかった。
代わりに、自分の指をアルノの首元に伸ばした。
シャツの第一ボタンのすぐ上だった。
軽く触れた。
アルノが息を止めた。しばらく止めていた。
吐いた。長かった。
アルノが先に立った。
リヴァの返事を待たなかった。
リヴァの手を取って、ベッドの方に連れていった。
座らせた。
アルノがリヴァの肩紐を指で外した。肩が見えた。
肩には傷があった。
アルノが傷の上に唇を落とした。
軽くだった。
リヴァが息を吐いた。声がわずかに混ざった。
アルノが唇を肩から鎖骨に移した。途中で首筋を通った。
アルノの手が、リヴァのキャミソールの裾を持ち上げた。
途中で、止まった。
リヴァを見た。
リヴァが目を合わせた。
何も言わなかった。
代わりにリヴァの指が、アルノの眼鏡に触れた。
細いフレームを外す。
アルノが抵抗しなかった。
外された眼鏡が、ベッド脇に静かに置かれた。
「……覚えてないふり、出来ますか」
アルノが言った。
リヴァが困ったように笑った。
アルノが目を閉じた。
それから、リヴァを引き寄せた。
二十三時三十分過ぎ。
アルノがリヴァの腕の中で目を閉じていた。
リヴァがアルノの寝顔を見た。
眠るアルノを見たのは、初めてだった。
しかも、こんな時間に。
眼鏡を外したアルノの顔を、長く見た。
睫毛が長かった。
頬骨が、わずかに影を作っていた。
リヴァがアルノの髪に指を入れた。
軽く撫でた。
アルノが寝息の中で動いた。
リヴァが息を吐いた。
笑いに近かった。
リヴァも目を閉じた。
朝。
カーテンの隙間から、東京の朝の光が入っていた。
時計の針が六時四十五分を指していた。
リヴァが目を開けた。
天井が見えた。
身体が重かった。
リヴァが息を吐いた。
七時に共用スペースのキッチンに、カイがコーヒーを淹れて置いてくれている。毎朝、リヴァが飲みに行く。
あと十五分だった。
身体が動かなかった。
「⋯⋯ん」
声が掠れていた。
隣でアルノが目を開けた。
「⋯⋯おはよう」アルノに敬語がなかった。寝起きの低い声。
「おはよう」
アルノが目をこすった。
「何時ですか」
「六時四十五分」
「⋯⋯」
「七時に、カイが」
「ええ」
リヴァが止まった。
「知ってるの」
「毎朝の動線くらいは」
「⋯⋯」
リヴァが息を吐いた。笑いに近かった。
リヴァがもう一度、上半身を起こそうとした。シーツの上で、肩のあたりまで起こした。
途中で、髪が肩に流れた。
アルノがリヴァの首筋を見た。
止まった。
しばらく見ていた。
リヴァがそれに気づいた。
「何見てるの」
アルノが視線を外した。外し方がわずかに遅かった。
「⋯⋯首」
「首?」
リヴァが自分の首に指を当てた。
確認できなかった。
「どこ」
「右、と左に」
リヴァがベッドサイドの小さな鏡を取った。
覗き込んだ。
薄い赤が、首筋に残っていた。
「……」
「すみません」
「絶対思ってないでしょ」
アルノがわずかに口角を上げた。
リヴァがそれを見て、息を吐いた。
「カイに勘違いされる」
リヴァが言った。
アルノが止まった。
止まったまま、リヴァを見た。
それから、リヴァの首筋に手を伸ばした。
指の腹で、痕の上をひと撫でした。
確認するように。ゆっくりと。
「勘違い、ですか?」
低かった。
リヴァが止まった。
完全に止まった。
リヴァが目を伏せた。
頬が熱を持った。
伏せた目を上げられなかった。
アルノがわずかに息を吐いた。
笑いに近かった。
アルノの指が、リヴァの首筋から離れた。
代わりに頬に移った。頬を軽く撫でた。
「……行かないと」
リヴァが言った。ベッドから手を伸ばしてカーディガンを取った。
アルノが、わずかに口角を上げた。
「歩けますか」
「……」
「立ってみてください」
リヴァはシーツを引き寄せ、身体を起こした。
ベッドの端に座って、足を床に着ける。
そのまま立ち上がろうとした。
膝に、力が入らなかった。
腰から崩れて、床の上に座り込んだ。
「……」
アルノがシーツの上で動き、ベッドから足を下ろし、腰掛けた。
シャツを羽織って、JPSに手を伸ばした。
一本取って、火をつけた。
まだへたり込んでいるリヴァの顎に、指を当てた。
軽く、上を向かせた。
「ほら」
低かった。
「ちゃんと、歩いてください」
「……」
「カイが、待ってるんでしょう」
「……ひどい」
「ええ」
否定しなかった。
アルノがリヴァの手を取り、ゆっくりと引き上げた。
リヴァが、立った。
一歩、踏み出す。
膝が、わずかに抜けた。
すかさずアルノが片手で、リヴァの腰を支えた。
「……」
「バレますよ。カイに」
「……離して」
「離したら、転びます」
リヴァが、目を伏せた。
アルノは腰を支えたまま、リヴァの耳元に顔を寄せた。
「次は」
低く、言った。
一拍置いた。
「…次は、限界を把握しておきます」
リヴァは、顔を上げられなかった。
アルノは腰を支えたまま、リヴァの歩調を測るように、ゆっくりとドアの方へ歩かせた。
リヴァの足が、一歩ずつ、進む。
ドアの前で、アルノが手を離した。
「ここからは、一人で」
「……」
「見ています」
リヴァはドアノブを掴んだ。
振り返れなかった。
ドアを開けて、廊下に出た。
廊下の窓から、白い朝の光がまっすぐ入っていた。
静かな朝だった。
壁の時計の針が、小さく進んだ。
七時まで、あと、五分だった。
"Vast ft. Ólafur Arnalds" / Sandrayati




