スバル・インプレッサ
午前十一時、共用スペース。
アルノがリビングに入ってきた。端末を手に持っていた。フィンはソファで本を読んでいた。
「フィン」
「うん」
「インプレッサが届きました」
フィンが顔を上げた。
「マジ?」
「はい」
「早くない?」
アルノが端末を閉じた。答えないかわりに、眼鏡を押し上げた。
「なんかこの間フィンがスバルのカタログ見てたな」ユキナガがソファから声を出した。
「買ったのか」カイが言った。
「フィンが煩いので買いました。公用車にSUVが一台あってもいいので」
「煩いって」
「事実です」
フィンが立ち上がって、止まった。姿勢がよかった。
「ありがとう」
「業務上の判断です」
「うん、ありがとう」
アルノが眼鏡を押し上げた。それ以上何も言わなかった。
「公用車はもうアウディなかった?」ユキナガが言った。
「二台あってもいい」フィンが言った。
「なんかお前…意外と普通の選択だな」
「そう?スバルは一番いい」
カイが横目で見た。そのあと、ユキナガと顔を合わせた。
「元SASがスバリストに」ユキナガが言った。
フィンはリヴァを探した。キッチンでコーヒーを淹れていた。
「リヴァ」
「ん」
リヴァがマグカップから顔を上げた。
「車来た」
フィンがリヴァに駆け寄る。
「乗らない?」
「どこ行くの」
「うーん。じゃあ紅茶買いに。自由が丘の輸入店行きたい」
リヴァが少し止まった。
アルノの声がした。
「リヴァ、チョコレートを買ってきてください。あなたが食べるのでもうないです」
アルノが一枚のメモを渡した。『La Maison du Chocolat 』と書いてあった。
ギリギリ、リヴァが読める筆記体だった。
受け取るとき、アルノの指先がリヴァの親指の付け根に微かに触れた。
アルノの目線はリヴァの首元にあった。
リヴァは今日、シアーの黒のハイネックを着ていた。
「溶かさないでくださいね」
「…わかった」
「よしきた」
その時、ミントがキッチンに入ってきた。リヴァの足元に来た。リヴァがしゃがんで頭を撫でた。ミントが少し目を細めた。
「ミント、お留守番ね」
ミントが返事をしなかった。歩いていって、さっきまでフィンの座っていたソファに座って丸まった。
駐車場のインプレッサは、パールホワイトだった。
まだ納車のプラスチックが少し残っていた。フィンが運転席に乗った。リヴァが助手席に乗った。
「リヴァ、体調は万全?痛いとこない?」
「平気。行こう」
エンジンがかかった。低い振動がシートから上がってきた。
全力のエアコンの音がした。
フィンが少し笑った。
昼の中央道に乗った。
フィンの運転は丁寧だった。アクセルもブレーキも滑らかだった。車線変更の時の首の動きが小さかった。
リヴァは助手席の窓の外を見ていた。
「日本の運転、怖くない?」
「怖くないよ」フィンが続けた。「うちも左側だし」
自由が丘に着いた。
コインパーキングにインプレッサを停めた。フィンが車を降りて、一度後ろに回って眺めた。
「もう降りていい?」
「いいよ」
フィンがリヴァの方に回ってドアを開けた。
輸入食品店は駅の南口の方にあった。古い洋館を改装した店だった。木の床が歩くたびに少し鳴った。
フィンが紅茶コーナーで止まった。
棚に三段、紅茶の缶が並んでいた。Fortnum & Mason、Harrods、Whittard、聞いたことのないブランドも何種類か。
フィンが一缶手に取った。裏のラベルを読んだ。棚に戻した。別の缶を取った。
「そんなに違うの」
「全然違う」
フィンが真剣に答えた。
リヴァはアルノに言われたチョコを見つけて、フィンの持つかごに滑り込ませた。
フィンが最終的に三缶選んだ。レジに持って行った。保冷材も入っていて、袋がずっしりした。
店を出た。昼下がりの自由が丘は人が多かった。
「カフェ寄っていい?」とフィンが言った。
「うん」
駅から少し離れた裏通りに、小さなカフェがあった。窓が大きくて、外の並木が見えた。
席に着いた。リヴァがアイスコーヒーを頼んだ。フィンは紅茶だった。
窓から午後の光が入ってきた。
フィンの手元に、買ったばかりのチョコの箱が置かれていた。紅茶は溶けないので、車に置いてきた。
「フィン」
「うん」
「演劇って、何学ぶの」
フィンが少し止まった。
「発声、身体表現、人物分析、即興とか。いろいろやるよ」
紅茶が来た。フィンがカップを両手で持った。一口飲んだ。
「色んな流派を学んだよ」
「どんなの」
「感情をトリガーにして……思い出して乗せるやつ。スタニスラフスキー系」
「…トリガー」
リヴァは無意識に両手を握った。指先が白くなった。汗ばんでいた。
「例えば悲しいシーンを演じる時、自分が本当に悲しかった記憶を引っ張り出して、乗せる感じ」
「へえ」
「メソッド演劇。役が本物になるって言われてる」
フィンが紅茶をもう一口飲んだ。
記憶を思い出すように目を閉じた。
「…リーストラスバーグ寄りだけど」独り言だった。
窓の外を見た。強い日差しに炙られた青い葉が一枚、舗道に落ちた。
「…それ使ってたら、止まれなくなったことがあって」
「止まれなくなる?」
「演技の中で泣き始めて、シーンが終わっても止まれない。家に帰っても……戻らない」
「いつ」
「…ずっと前」
フィンがカップを置いた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
リヴァはコーヒーを一口飲んだ。フィンは窓の外を見ていた。
「フィン」
「うん」
「任務の時のフィンと、今のフィンと、拠点でいつも笑ってる時のフィン、全部声が違うよね」
フィンが止まった。
「そう?」
「うん」
フィンが少し笑った。すぐ消えた。
「演劇やってると、そういうものなの?色んな自分が出てくる、みたいな」
フィンがカップを両手で持ち直した。
「どうかな」
「どれがほんとのフィン?」
「全部じゃない?」
軽く言った。
でも目が笑っていなかった。
リヴァは少し間を置いた。
「…全部が本物なら、フィンはどこにいるの」
フィンが止まった。
窓の外で、青い葉が一枚、また舗道に落ちた。
フィンがそれを見ていた。
「...リヴァはさ」とフィンが言った。
フィンの指が、カップの縁をなぞった。
「記憶、なかったんだよね」
リヴァが頷いた。
「今は、ここが居場所で満足?」
「うん」
フィンが小さく頷いた。
「そっか」
一拍。
「いいな、居場所」
リヴァはグラスを両手で包んだ。冷たくて気持ちいい。
「フィンは、今はフリーランスなんだよね」
「うん」
「なんでフリーになったの」
フィンが少し間を置いた。
「……ちょっと、悲しいことがあって」
「実家に帰ったりするの」
「しないよ」フィンが小さく笑った。「もう何年も帰ってない」
「演劇は続けなかったの」
「迷ったけど」フィンがカップを置いた。「自分のもっと得意なことしようと思って」
「それがSAS?」
フィンが止まった。
言葉が出てこなかった。
クーラーの風で、紅茶が少しずつ冷めていた。
「いや……」
言い淀んだ。
その先を言わなかった。
リヴァはフィンを見ていた。
フィンはリヴァから目を逸らして、窓の外を見た。
「帰る場所、今はここがあるね」
リヴァが言った。
フィンの時が、止まった。
「……俺、外部だけど」
「でも、車来たし」
フィンは紅茶のカップを見ていた。
紅茶はもう湯気を立てていなかった。
「……うん」
リヴァはそれ以上、何も言わなかった。
フィンも何も言わなかった。
「……そろそろ拠点帰ろう、リヴァ」フィンが言った。「あんまり遅くなるとカイあたりが騒ぐし」
「うん」リヴァは笑った。
会計を済ませて、店を出た。
自由が丘の午後の光が、まだ少し残っていた。
パーキングまで歩いた。
フィンが助手席のドアを開けた。リヴァが乗った。フィンが運転席に回った。
エンジンがかかった。
フィンが、リヴァの首元を見ていた。すぐに目を逸らした。
「…」
二人とも、しばらく何も言わなかった。
"As If We Never Said Goodbye" / Nicole Scherzinger




