第22話 最高到達点の裏 ~静かなる終端~ [1/5]
36対0。
スコアボードに刻まれた数字は、もはや現実感を失っていた。
だが、球場にいる誰もが、その数字を疑わなかった。
むしろ、誰もがその数字を“受け入れてしまっている”ようだった。
9回裏。
ここまで来るのに、どれほどの世界線が積み重ねられたのか。
それを知る者は、マウンドに立つひとりの投手だけだった。
きおは、深く息を吸った。
夜風が喉を通り、肺の奥に冷たさを残す。
その冷たさが、むしろ心地よかった。
球場は満員のままだった。
誰も帰らない。
誰も席を立たない。
アウェイのはずのスタジアムが、
まるで巨大な劇場のように、
ひとりの投手のために呼吸していた。
「キーオー! キーオー! キーオー!」
その声は、応援ではなく、祈りだった。
観客は、きおの投球を“見届けるため”にここにいる。
勝敗はとうに終わっている。
だが、物語はまだ終わっていない。
相手監督は、腕を組んだまま動かなかった。
諦めはある。
だが、それだけではない。
(……最後まで……見たい……)
そんな感情が、静かに胸の奥に芽生えていた。
敗北を受け入れた者だけが持つ、奇妙な期待。
“この子はどこまで行くのか”という、純粋な興味。
きおは、そんな視線を背中に感じながら、
キャッチャーのラクランへと視線を向けた。
ラクランは、ミットを構えながら、
きおの呼吸がわずかに深いことに気づいていた。
(……苛立ちは……消えてる……)
そう思った。
2回裏から続いていた、あの微かな苛立ち。
審判の揺れに対する静かな怒り。
世界線を戻すたびに生まれる、あの小さな軋み。
それが、今はない。
(……覚悟……か)
ラクランは、きおの背中から“終端の気配”を感じていた。
*
第一の打者がバッターボックスに入る。
球場のざわめきが、波のように揺れた。
きおは、サインを一度だけ見て頷いた。
初球。
外角低め。
ストライクゾーンの端に“置く”ような球。
打者は見送る。
審判は迷わずストライク。
ラクランは、きおの球が“完璧に置かれている”ことを理解した。
(……補正は……使ってない……)
二球目。
インロー。
また置く球。
打者は手が出ない。
ストライク。
観客席から、息を呑む音が聞こえた。
三球目。
外角高め。
きおは、ほんのわずかに指先の角度を変えた。
打者は振り遅れ、空振り三振。
相手監督が、思わず立ち上がった。
(……これが……完成形……)
敗北ではなく、畏怖。
その目には、そんな光が宿っていた。
*
第二の打者が歩み出る。
球場の空気が、さらに張り詰める。
きおは、サインを見て頷いた。
初球。
外角ギリギリ。
審判の手が、一瞬止まった。
ボール。
ラクランはすぐにチャレンジを要求した。
映像ではストライクに見える。
判定は覆る。
観客がどよめく。
(……よし……)
ラクランは安堵した。
だが、きおの呼吸が一瞬だけ乱れた。
ほんの一瞬。
だが、確かに。
ラクランはその変化を見逃さなかった。
(……今の……戻した……)
きおは、静かに息を整えた。
(……これが……最後の……)
二球目。
真ん中低め。
ストライク。
三球目。
外角高め。
空振り三振。
第二の打者がベンチへ戻ると、
球場全体が静まり返った。
(……あと一人……)
きおは、静かにマウンドを踏みしめた。
その背中は、
静かに、確実に、
終端へ向かっていた。




