第21話 静かな告白
8回裏。
球場はすでに異様な静けさに包まれていた。
スコアは32対0。
だが、点差以上に、
“何かが壊れている”空気が漂っていた。
きおは淡々とマウンドに立つ。
初球、外角低め。
ストライクゾーンの端に置くような球。
打者は見送る。
ストライク。
二球目、インロー。
また置く球。
ストライク。
三球目、外角高め。
空振り三振。
(……いつも通り……のはずなのに……)
ラクランはミットを構えながら、
きおの呼吸がわずかに荒いことに気づいた。
(……苛立ってる……?)
理由は分からない。
投球は完璧。
チャレンジも全部成功している。
なのに、
きおの内側で何かが軋んでいるように見えた。
*
二人目の打者。
初球、外角ギリギリ。
審判の手が一瞬止まる。
ボール。
ラクランはすぐにチャレンジを要求した。
映像ではストライクに見える。
判定は覆る。
(……よし……)
だが、きおはわずかに眉を寄せていた。
(……また……)
ラクランは気づかない。
だが、きおは知っている。
――本当は、ストライクではなかった。
――チャレンジは成功していない。
――世界線を“戻した”だけ。
きおの苛立ちは、
審判の揺れではなく、
“戻さなければならない現実”そのものに向いていた。
二球目、三球目は完璧に決まり、
空振り三振。
*
三人目の打者。
初球、外角低め。
ボール。
ラクランはまたチャレンジを要求した。
映像ではストライクに見える。
判定は覆る。
(……今日のチャレンジ、全部成功してる……)
ラクランは安心した。
だが、きおは静かに息を吐いた。
(……八回だけで……三回……)
戻した世界線の数を、
きおは正確に数えていた。
そして、
そのたびに寿命の砂がわずかに落ちていくのを感じていた。
(……苛立つ……)
きおは自分の感情を押し殺した。
最後の球は、
真ん中に置いたストレート。
空振り三振。
8回裏、三者三振。
だが、きおの呼吸は、
いつもよりわずかに深かった。
*
ベンチに戻ると、
ラクランが声をかけた。
「きお……大丈夫か?」
きおは少しだけ間を置いてから、
静かに答えた。
「……大丈夫です。
あと……一回ですから」
その声は、
どこか乾いていた。
ラクランは胸の奥がざわついた。
(……何か……隠してる……)
だが、聞けなかった。
*
9回表。
1番がヒット。
2番が四球。
3番が送り、
4番が敬遠気味の四球。
満塁。
ラクランの打席。
(……ここで……最後の……)
ラクランは初球を見逃し、
二球目も見逃し、
三球目はわざと泳いでファウル。
四球目、外角低め。
見逃し。
ストライク三振。
ツーアウト満塁。
(……これで……きおに……)
六番・きお。
相手監督は、もう何も言わなかった。
諦めだけではない。
観客の期待もある。
そして──
監督自身の胸の奥にも、
奇妙な“期待”が芽生えていた。
(……どうせ負けるなら……
最後まで見届けたい……)
そんな感情が、
静かに、しかし確かに彼の中にあった。
きおが打席へ歩くと、
アウェイ球場なのに、
歓声とも溜息ともつかないざわめきが広がった。
(……勝負だ……
ここまで来たら……
この子の“全部”を見たい……)
その表情は、
敗者のものではなかった。
きおは静かにバットを構え、
静かに振り、
静かに打球を飛ばした。
左中間スタンドへ吸い込まれる。
満塁ホームラン。
36対0。
球場は完全に沈黙した。
相手監督は、
ただその軌道を見つめていた。
(……これが……
本物の“怪物”か……)
その目には、
敗北ではなく、
敬意に近い光が宿っていた。
きおは淡々とベースを踏み、
淡々とダグアウトへ戻った。
そして、
ラクランの前で立ち止まった。
「……ラクランさん」
ラクランは息を呑む。
きおは、
ほんの少しだけ視線を落とした。
「……八回までのチャレンジ……
全部成功しているように見えたと思います」
ラクランは頷いた。
「当たり前だろ。
全部成功してたじゃないか」
きおは静かに首を振った。
「……成功していたのは……
二割だけです」
ラクランの心臓が止まった。
「……は?」
きおは淡々と続けた。
「ABS……八割は……ボールでした。
戻しました。
ストライクになる世界線に……合わせました」
ラクランは言葉を失った。
「……じゃあ……成功してたんじゃなくて……」
「はい。
ラクランさんには……成功しているように見えるはずです」
きおは静かにグラブをはめた。
「……あと三人です」
その背中は、
静かに、確実に、
終端へ向かっていた。




