第七十九話 おかしな世界
「ねえ、結芽ちゃん」
「なあに?」
「……何でもない」
結芽は今、舞と一緒に風呂に入っていた。湯船は二人で浸かるには狭いように結芽は思っていたが、案外二人でも入れてしまった。
後ろから抱き着くような姿勢で座る舞に耳元で囁かれるのは、結芽としては悪い気分ではなかった。不安を押し殺すように、聞きたかったことを誤魔化すように抱きしめてくる舞には、複雑な感情を抱いていたが。
「……私がお姉ちゃんをどう思ってるか、知りたい?」
「……知りたくない」
舞が何を聞きたいかなんて、結芽にはお見通しだ。
結芽はまだ、昔のことを完全に思い出せたわけではない。特に、いつどういう経緯で姉への憎悪が反転したのかを思い出せていない。百合は、あえてそういった部分をぼかしていたような気がする。
攫われていた間に何があったか分からないから、舞は不安なのだろう。結芽は自分を抱きしめる舞の腕を上から抱き、後ろに体重を預けた。
「いざとなったら、私のこと、ちゃんと使ってね」
「……何言ってるの」
「あれ、違った? だってお姉ちゃん、私に色々させたかったみたいだし」
伊呂波を用意しておきながら、舞は結芽が助けを必要とするような場面で伊呂波を動かすことはなかった。
呼べば助けてくれることはあった。千風のときはそうだった。しかし体育祭のときや新都心の事件のとき、港町での一件や地下研究所の際には、最後の最後まで手を出さなかった。
お姉ちゃんの妹ならこのくらいできなきゃいけないものだと思ったこともあったが、今の結芽はそれ以外の考えも浮かんでいた。
全て舞の計画の上なのではないか、という考えだ。
「大丈夫だよ、私は今も昔も、お姉ちゃんの妹だから」
結芽は後ろに手を伸ばし、そっと舞の髪を撫でる。
「……昔は、違ったでしょ」
「血縁は、死んでも切れない縁だよ」
昔は確かに、結芽は舞の妹として扱われることを嫌っていた。事あるごとに舞の妹だからと引き合いに出されてうんざりしていたのだ。それこそ、他所の小学校に行きたいと真剣に親に言うほどには。
しかし、血の繋がりは切れない。同じ親から生まれ、同じ家で育った。過去はどうやっても変えられない。やがて結芽は、舞をお姉ちゃんと呼んで慕うようになった。
「結芽ちゃんは……この世界がおかしいって思ったことはある?」
「……おかしいって?」
「何でもいい。理不尽だとか、不合理だとか、そういう風に思ったことはない?」
「まあ、あるにはあるかな。お姉ちゃん絡みで、昔は悩みが尽きなかったから」
思い出せるようになった過去は、いい思い出ばかりではなかった。
結芽は舞と違って聞き分けが悪くて、舞と違って要領が悪くて、舞と違って人付き合いも下手だった。これで何の悩みもなくお気楽に過ごせたらどれだけ楽だったかと思わなかった日はない。
「でも、良いこともあったよ。それが魔法のせいだったとしても、この感情に嘘はないって言える」
抱きしめるような姿勢で座っていてよかったと、舞は思った。
「……そっか」
今の自分に結芽の笑顔を正面から見ることはできないだろうと、理解していたから。
「じゃあ何よ……黒奴を皆殺しにしたかったら、日本が滅びるのが一番手っ取り早いっての?」
魔法少女協会新都心支部の地下訓練場。結芽が無事に帰ってきたという知らせを受け、家に突撃しようとしていた矢先にそこに集められた黒奴殲滅委員会は、全員が床に転がっていた。
呼びつけた張本人であるダイヤモンドにまとめてなぎ倒されてしまったのだ。特に、この前の恨みがあるジェードは重点的に狙われていた。
そうして体力を消費しきった後に、ダイヤモンドは黒奴の発生理由をコンピュータが話さなかった部分まで説明したわけだ。
説明を受けた後で、ファンは先に体力を使い果たさせた理由に納得した。確かに動ける状態だったら、ドールが何をしていたか分からない。
「そう。アメリカはある程度人口を減らされてからは、あからさまに黒奴の発生頻度が減った。金冠なんて、私が行って数週間で出なくなった」
「この国はリリィのおかげで余裕がある……それゆえに毎日のようにどこかで黒奴が現れると?」
「リリィだけじゃない。私も、ローズも……みんなが抗い続ける限り、この戦いは終わらない」
黒奴は魔法少女の敵で、人類を殺すための存在であることには変わりない。しかし、彼らはこの世界のバランスを保つために人類を減らしているに過ぎないのだ。
魔法少女がモチーフに選ばれるというのも、モチーフに変化した魂が相性のいい魂に引き寄せられるからである。その話を聞いたドールとファンは、無意識に自分のモチーフを握りしめていた。
「……五年前には、このことは既に一部の魔法少女が気づいていた」
そう言って、ダイヤモンドは五年前の出来事について話した。表向きは黒奴の大量発生ということにされている、「黒百合」の魔法少女の起こした反乱について。
魔法少女と黒奴の真実について隠し、リリィやダイヤモンドがいる限り終わらない戦いに明け暮れなければならないことに気づいたブラックリリィの企てた、集団無理心中事件について。
「専用魔法の反転はあらゆる事象をひっくり返す。手始めに強弱をひっくり返して、一人の魔法少女を見せしめに殺したところから事件は始まった」
「多分ドールの人形操糸も、逆に支配され返されちゃうかもだから、遭遇したら下手に戦おうとしないようにね?」
「……ブラックリリィなんて名前、聞いたことないわよ? それに、リリィを敵に回したのよね?」
リリィに喧嘩を売るという行為は、もはや慣用句として通じるほどの自殺行為とされている。事実、過去に自分なら勝てると調子に乗った魔法少女が、数えきれないほど叩き潰されてきた。
「……まさか生死すら反転させられるとは、誰も思わなかった」
「――っ」
だがブラックリリィだけは違う。元は彼女も百合園の前身である花園なうえ、まだ魔法少女の数が少なかったころから戦い続けていた。当然、実力は本物だ。
「そして、これが本題。『黒百合』のブラックリリィからの伝言。『来るものは拒まない』……だってさ。……私もリリィも、誰も止めはしない。好きに選んで」
現実を知ってしまったドールたちに伝えられたのは、そんな魔法少女からの悪魔の誘いだった。




