第七十六話 ストックホルム症候群ではない
「おはよう、気分はどう? どこか痛む?」
結芽が目を覚ますと、至近距離に見知らぬ女性がいた。意識が急速に覚醒し、即座に状況を把握する。目線だけでざっと見回した限り、ここは車の中。呼吸音や気配から、誘拐犯の人数は二人と分かる。
判断は早かった。腹筋の力だけで体を起こしながら、結芽は女性に頭突きを食らわせる。
そして女性がのけぞった隙に運転席に向けて、座席から引きはがしたヘッドレストを投げつけた。二人の動きが鈍ったタイミングで、すぐさま車の窓を――割ることができない。
「魔法少女ッ……!」
「あ、頭がぁ……! 相変わらずだね、結芽ちゃん。でも、短絡的な行動はダメって教えなかった?」
「おやおやおや、流石に想像以上ですね。流石はリリィの妹といったところか……」
防弾ガラスでも突き破る勢いで殴ったはずにもかかわらず、衝撃は全く感じられなかった。結芽はすぐにこれが、魔法によるものだと理解した。
冷静になって誘拐犯二人を観察してみると、確かにおかしな格好をしていることが分かる。一人は真っ赤な着物を盛大に着崩し、もう一人は全身真っ黒なのだ。おそらく魔法少女のコスチュームだろう。
そのとき結芽は、以前翡翠に見せられた警戒すべき魔法少女の姿が、運転席に座っている女性と一致することに気づいた。
「『彼岸花』のリコリス……?」
「おっ、大正解!」
「へえ? 流石にご存じでしたか。ああ、ジェードが教えたのか」
よく見れば、もう一人の黒ずくめの女性にも、結芽は見覚えがあった。この女性は確か、体育祭の日の放課後、公園で見かけた人だ。
真っ黒なローブと黒い手袋、そして黒タイツに黒靴。フードを被っているのに、その下にはさらに黒いベールのようなものを付けて顔を隠している。
よほど素肌を晒したくないのか、あるいは他に理由があるのか。そんなことは結芽は知らないし、興味もなかった。
車を運転しているのは、翡翠がクズだなんだと言っていた、あのリコリス。黒ずくめの女性の正体も目的も分からない以上、警戒するしかない。
「怯えではなく、警戒ですか……魔法少女を前に、大したものですね」
「……私をどうするつもり?」
「説明して差し上げたい所ですが、生憎と私はこの通り運転で手一杯でしてね」
「そういうわけだから、私から説明をしてあげるから無言で鳩尾を殴るのはやめてね! ちょっと近かったのは謝るから! 魔法のおかげで痛みは無いけど衝撃は来るせいでちょっと吐きそうだからやめて!」
「窓開けて吐けば?」
「そうきたか」
流石に話が進まないと判断されたのか、結芽は何かで手足を拘束される。全力でもがいてみても、車が悲鳴を上げるだけで抜け出せそうにない。
いっそ車を丸ごと破壊してしまえばと結芽は思ったが、さらに拘束を強められてしまい、身じろぎ一つできなくされてしまった。
「全く、油断も隙もないね……誰に似たんだか」
パチリと、黒ずくめの女性が指を鳴らす。直後、結芽は思い出した。顔も体形も分からない黒ずくめの女性だが、その声には覚えがあることを。
体育祭よりも前、高校に上がるよりも、中学生時代よりも、さらに昔。あれは結芽が小学四年生のころのこと。
ちょうど、火事で結芽たちの両親が亡くなった後くらい。
『……泣いてる女の子の隣に座る人がいますか、普通』
『ここにいるよ。ああ、安心して。いるだけで何もしないから』
黒野 百合との出会いは、結芽と夢唯の出会いと同じように、彼女が公園で泣いていた結芽の隣に座ってきたことから始まった。
結芽は百合のことを、公園で出会う前から多少は知っていた。といっても百合が姉の知り合いで、時々家に遊びに来ていることだけだが。
同じように百合も結芽のことを知っていた。あのリリィの妹という立場は相当息苦しいだろうし、舞の妹だとしても優秀な姉と比較されてばかりの毎日だろうと、百合は思っていた。
そしてある日立ち寄った公園で、その予想が事実であると知ってしまったわけだ。
『全く同じ人しかいなかったら、世界は今頃滅びてる。違うことは劣ってるってことじゃないよ』
『違いがあるなら差もあります。差があるなら比較されます』
『うーん、難しい話だなぁ。私もモチーフがほぼ同じだからって、色々言われるから気持ちは分かるよ? でも、後ろ向きに考えたって仕方ないじゃん?』
『前向きに生きられるならそうしてますが』
『うぅん……』
当時の結芽は二、三日に一度は公園のベンチで俯いていたので、百合は暇さえあれば公園に立ち寄り、相談に乗るようになった。
『いっそ、殴り合いで決着を着けてしまえば……』
『やめた方がいいよ? 絶対にやめた方がいいと思うよ? えっと……ほら! 短絡的な行動は身を滅ぼすことになっちゃうから! ね?』
時折怒りに任せて過激な行動に出そうになる結芽を、百合はどうにか真人間らしく振る舞えるように教え込んだ。
『分かりました! 私、運動なら負けません! テクニックは姉が上でも、パワーでごり押せばいいんです!』
『サ、サーブでボールが地面にめり込んでる……!?』
身体能力は生まれついてのものだったので、こればかりはどうにもできなかったが、結芽は次第に明るく活発になっていった。
結芽の思考にノイズが混ざる。
全て、この人のおかげだった。なぜ忘れていたのかは分からない。いつかのように、記憶に蓋がされていた。だが今は全て思い出せた。
封じられていた記憶が蘇る。
いつから会わなくなったのか。どうして会ってくれなくなったのか。なぜそれを疑問に思わなかったのか。その答えだってすぐに――
「あ、それはまだダメ」
額に手を当てられて、思考がクリアになる。それは単にノイズを認識できなくなっただけのようだが、思い出してはいけないらしいので結芽は大人しく従う。
「……百合さん?」
「はい、百合さんだよ。……本当に久しぶりだね、結芽」
百合は結芽の頭を優しく撫でた。ここが車の中ではなく、おそらく誘拐されている途中でなければ、感動の再会だっただろう。
それに結芽は、自分の頭から感じる手の感触に違和感を抱いていた。手袋越しだからだとか、姉以外に勝ってに触られたからだとか、そんな具合のものとは違う、決定的な違和感。
正体は分からないが、この感触を結芽は心地よいものとは思えなかった。小さい頃はあんなに好きだったはずなのに。
「私たちはね、結芽に色んなことを見せたいんだ。リリィが、コンピュータが、この国が隠していることを」
「尊敬してた人が知らない間に陰謀論者になってたなんて……」
「いやそういうのじゃないから!」
「陰謀論を信じる人は皆そう言うんですよ」
「だから違うってば! もうちょっと話聞いてよ!」
後部座席で百合と結芽が下らない問答を始めようとしたタイミングで、リコリスが急ブレーキを踏んだ。固定されて動けない結芽は何ともなかったが、百合は盛大によろめいて体を打ち付ける。
「百合さん、あまり時間をかけないでいただけませんかね。私はペーパーレスドライバーなんですよ?」
「……つまり無免許?」
「はい」
「はいじゃないけど??」
結芽としてはこのまま事故ってもらった方が好都合だったが、魔法を解いてもらわないと事故の巻き添えになる可能性があることに気づいた。
仕方なく結芽は百合に本題を急ぐように言って、百合は打ち付けた箇所をさすりながら、再び指を鳴らした。




