第五十四話 力の差
クトゥルフ・黒奴の鉤爪が振るわれるよりも結芽が着地する方が、僅かに早かった。その僅かに稼げた時間の内に、結芽は森の中を全力で走る。背後から木をへし折って真っすぐに追いかけてくる足音が聞こえるが、それを気にしていられるほどの余裕は今の結芽には無かった。
ただでさえ木の根や落ち葉に足を取られる斜面を走らなければならないという状況なうえに、雨まで降っているせいで地面がぬかるんで滑るのだ。おまけに視界も悪いときた。黒奴から逃げるとか逃げないとか以前の問題である。
すぐさま追いついたロータスが黒奴にシールドバッシュを仕掛けるが、それは尻尾に軽くいなされる。その時結芽は、何かが空気を切って自分の方に接近してくる音を聞いた。
咄嗟に横に跳んだ結芽は、先ほどまで自分がいた場所に黒奴の口から伸びた触手が突き刺さっているのを見た。近づかなければ安全かと思えば、そんなことは全くないらしい。
(この状況でも、伊呂波は来ない……ならお姉ちゃんは……)
転がっていた枝をスキー板のようにして斜面を滑走し、時には枝から枝に飛び移り、結芽はあらゆる手を尽くして黒奴から逃げようとする。
しかしロータス一人では足止めも難しいのか、それともロータスを全く意に介さないのか、黒奴は勢いを緩めることなく結芽を追い続ける。
「っ、まずっ……!」
結芽が掴んでいた枝が触手にへし折られ、結芽はそのまま落下する。体や服が泥で汚れることは気にならない。高さ的に怪我をする心配もない。しかし、受け身を取って再び走り出そうとすれば、そこにはやはり既に黒奴が追いついていた。
すぐに鉤爪が振り下ろされるが、それは遅れて追いついたロータスが受け流す。間髪入れずに放たれたもう片方の腕の爪は、弾性を持たせた魔力防壁で弾き返す。姿勢を崩した所に追撃を仕掛けたいところだが、結芽のそばを離れればその隙を狙われる。
ロータスは一瞬迷った――が、黒奴の顔面に直撃した砲弾を見て、守りに徹することを決めた。
「Hit! で、でも……効いてなくないですかぁ!?」
「アレは正真正銘の規格外、あたし以外は無理に前に出ないこと! それとサンドバッグ! 受け止めようだなんて思わないことよ!」
「この状況……町より結芽個人を狙ったってわけね……舐めたことしてくれるじゃない!」
「ドール! 前に出過ぎるなと言われたばかりだろう!」
ライフセーバーズ、海防魔法少女、黒奴殲滅委員会。三チーム、計15人の魔法少女が揃った。ブルドーザーとファンとコンパスがすぐさま周囲の木を切り倒し、斜面を均し、戦いやすいように場を整えた。
黒奴は流石にこの人数が相手では迂闊に動けないのか、様子見に徹していた。おかげで結芽にも離れた場所まで退避する余裕ができた。
「……逃げれば追われる。挑めば死ぬ」
「ロータスさんが加わっても無駄ですか?」
「厳しいと言う他にない。あのメンツでも体力をじわじわ削っていけばワンチャンあるかもしれんが、決定打を与えられるやつがいない。リリィのような爆発力が無いんだ」
ボムの投げつけた爆弾が翼に当たるが、薄っぺらく見える翼膜にも傷一つない。しかし煙で視界は遮った。魔力の探知は魔力霧で誤魔化せる。すぐさま後方に控えていたボウとガンが矢と弾丸を放った。
矢も弾丸も鱗を纏った肌には通じないが、視界は確かに奪われているらしく、黒奴は闇雲に暴れ回る。それだけでも災害のごとき被害をまき散らすが、コーラルは器用に振り回される手足を潜り抜け、唯一脆そうな目玉にトライデントを突き刺す――寸前、ガンの叫び声を聞いたファンが風を操り、コーラルを上空に吹き飛ばす。
あと一瞬でも遅ければ、ガンの見た予知通りにコーラルは黒奴の触手に全身を貫かれているところだった。コーラルを仕留めそこねた触手は、そのまま近くにいたドールやニードルに襲い掛かった。
「アタシが止める!」
「私が斬る!」
「でもちょっと多すぎないかしら!?」
捌ききれない触手がドールたちに迫るが、これはサンドバッグが変な声を出しながら受け止め、コンパスが切り裂く。それでも捌ききれない分は、ロッドが釣針に引っかけ、釣り糸に絡めて抑え込む。束ねられた触手にすぐさまメガホンとカメラが接近すると、カメラは専用武器の写真機でそれを撮影した。
専用魔法「停止」。専用武器で撮影したものの動きを止めるという、とんでもない魔法だ。しかし止めるものによって消費魔力が変化するため、クトゥルフ・黒奴相手では触手の一部を数秒止めるのが精いっぱいだった。
しかし、その時間があれば十分。メガホンは専用武器の拡声器を構えて、全力で叫んだ。
専用魔法「超発声」は大声で周囲の物体を振動させるだけの魔法だが、その振動は防御不能の音速攻撃。地面を破裂させ、切り倒したまま放置していた樹木も粉々になり、黒奴の触手も流石に粉砕された。
「あたし以外はなんて言っておきながら、みっともないとこ見せちゃったわね!」
中距離攻撃手段を失った黒奴は翼を広げ、自分自身を砲弾にすることで遠距離にも対応しようとするが、そこに空中で機を伺っていたコーラルが降ってくる。
珊瑚のトライデントは今度こそ、黒奴に傷を与えた。片方の翼にばっさりと切れ込みが入っている。傷口はバッテリーの放った電撃とブルドーザーが支えることで機動力を確保したシップの撃ち込んだ焼夷弾で焼き、仮に治癒系の魔法を使ってきても容易には回復できないようにした。
いける。一人でダメでも、一つのチームでダメでも、三チーム揃えばまだ抑え込める。
ロータス以外は、そう思った。
「全員下がれッ!!」
結芽を蓮の盾の後ろに隠したロータスの叫び声に、全員が黒奴から距離を取る。しかしどうしても、ドールやニードルのように黒奴に近づきすぎていた者は十分な距離を取れない。
直後、轟音と爆風が全てを薙ぎ払った。
状況は最悪に逆戻りだった。ドール、ニードル、カメラの三人は戦闘継続困難として後方に下げられ、この中では最大火力を出せるコーラルとロータスも、浅くない傷を負っている。他の全員にも、無傷の者はいない。
クトゥルフ・黒奴をよく見れば、自分の魔力を周囲の雨粒や水たまりに溶かし込んでいるのが分かる。先ほどの大爆発は、それらを一斉に起爆させたことによるものだ。水辺で戦わなくて本当に良かったが、雨が降り続く限り状況は変わらない。
「……アレが結芽さんを狙う理由が分かれば、結芽さんを逃がした後に私たちも逃げ回りながら時間稼ぎができるんだけどね」
「それは今考えることじゃないな。私たちは逃げられない。そこから思考すべきだ」
「私を抱えた誰かがひたすら逃げて、他の全員で黒奴を邪魔するというのは?」
「私とコーラルが無傷でいるうちなら、それもできたかもしれないな」
ロータスが全力で庇ったのでこの場では一番傷が少なかったが、結芽も爆発に吹き飛ばされて、それなりにダメージを負っていた。一人では黒奴から逃げられないだろう。
ボウやファンたちをはじめとした中衛、後衛はまだ傷が浅いが、結芽を抱えてあの黒奴から逃げられる者はいない。一番足止めに適している前衛でまともに動ける者は、コンパスとサンドバッグしか残っていない。
様子見ではなく周囲に魔力をまき散らすことに専念している黒奴から一度距離を取ったコーラルが、ロータスに話しかけた。
「……アレを使うわ。事後処理は任せる」
「了解だ。可能なら、あいつらには見せたくなかったが……」
「この状況でそんな規則守れるわけないケド、協会は何考えてるのかしらね」
「無茶をさせたくないのだろうな。今回ばかりは裏目に出たが」
アレとは何だ、という視線が残った魔法少女と、匍匐前進で戻ってきたドールに向けられるコーラル。まだ切札があるのだろうか。
「あんたたちの知らない、魔法少女の力の先ってやつよ。そうポンポン使えるようなものじゃないケド……温存しておくようなものでもなかったわね」
それだけ言うと、コーラルはモチーフを握りしめ、魔力を集中させる。これには魔力を撒くことにだけ意識を向けていた黒奴も反応する。先ほどのロータスのような注目を集めるためだけじゃない、明らかに何らかの意図を持った行為。
当然ながら黒奴は魔力撒きを中断してコーラルの邪魔をしようとするが、それはコンパスとサンドバッグ、そしてしれっと「人形操糸」を飛ばしていたドールに邪魔される。
「第二名解放――転身」
そして、クトゥルフ・黒奴にも匹敵する膨大な量の魔力がコーラルの体から溢れ出た。




