2 大変なんだ
腕を残像が百本に増やす勢いで振り回しながら、男はまた叫ぶ。
「大変なんだ!」
傍目にも大いに焦った様子が見て取れる。しかしそれだけでは居合わせた者には何も伝わらない。むしろ男の振る舞いの方こそ大変だ。「何が大変なんだよ?」「お前こそ大変になってるじゃねぇか」「大変の中身が判らなくちゃなぁ」と、溜め息混じりの野次が飛ぶばかり。
ところが男は他人の話を聞いちゃいなかった。
「だから、大変なんだ!」
それは判ったから、が周りの人々の共通見解だ。「何が大変か早く話せ」と。しかし男は「大変なんだよ」「大変だからさ!」「大変は大変だ」などと「大変」ばかりを繰り返す。焦るあまりか、語彙力の低下が著しい。
しゃばしゃばしゃば……。
唐突な水音。ぴちょんと滴が落ちる音を最後に静寂が生まれた。男の足下には水溜まりが広がる。
この様子を周りの冒険者達は一様にぽかんとしながらも半笑いで見守った。
「冷て! くそっ! 何すんだ!」
男はその場から飛び退いた。一瞬滑り掛けながらも体勢を立て直して事なきを得るが、このことも周りにちょっとした笑いを提供したらしい。
「ったく、頭からびしょびしょじゃねぇか!」
そう、音を起てたのは男が頭から浴びせられた水だ。水筒から零したくらいの水流であった。
しかしこれで漸く男が別の語彙を取り戻したのだ。効果絶大だ。周りでは「水も滴るいい男になったぜ」などと野次が飛ぶ。
ところが男は未だに状況が覚束ない。具体的には誰に水を被せられたかに頭が回っていない。水の張本人が直ぐ横に迫っていたことにも気付かない。
張本人の声が響く。
「落ち着きなさい」
男はピクッと反応して振り向いた。
「え……、あー。姐貴……」
プリスだ。少しばかり目に力を籠めたプリスが立っている。水は魔法によるもので、丁寧にも冷やしていた。
ただ、水は魔法で出したからと、都合良く消えたりはしない。床には放出された分だけ水溜まりが広がる。
ココットがジトっとプリスを見た。その目は雄弁に訴える。「これ誰が掃除するんですか!」。
プリスはココットの視線には素知らぬ振りを決め込んだ。
別にココットからお小言を貰いそうなのを嫌ったのではない。より優先させることがあるだけなのだ。
男はプリスを「姐貴」と呼んだように冒険者で、主に運び屋をしている。戦闘力的には猟師で生計を立てられるほどでありながら、安定を求める選択をした。
このパターンはそう珍しくもない。一人で戦える力があれば、日帰りか、目的地で宿泊の一泊二日で済む近距離なら単独でも往来可能だ。護衛を雇う必要が無い分だけ実入りも良い。それに、誰かと示し合わせる必要が無いので身軽。急な仕事にも対応しやすく、少し無理をすれば一日で進む距離を長くできる。そんな訳で、意外と需要も多い。
「頭は冷えたかしら?」
「は、はい……」
男の方も文字通りに冷や水を浴びせられ、おまけにプリスに凄まれたことで、さすがに頭が冷えたらしい。
プリスも視線を緩めるが、入れ替わりでジトっとした目付きをした。
「それにしても、あなたは年上の癖して、どうしてあたしを姐貴と呼ぶのかしらね?」
皆がそう呼ぶので仕方なく受け入れてはいるプリスだが、引っ掛かりを覚えない訳ではないのだ。それがひょんなことから口に出たりする。
「いやぁ、それは、ほら、やっぱり……」
男はしどろもどろ。
それもその筈、問われて「こうだ」と返せる理由が無い。プリスが上級冒険者だから? 成り行きで? みんなも言ってるから? どれも当て嵌まっているようにも思え、当て嵌まってないようにも思える。強いて言うなら「プリスが姐貴って感じだから」と言う他ないのだ。
「もう、いいわ……」
男のどうにもはっきりしない様子に、プリスの方が諦めた。野次馬達の「姐貴は姐貴だしなぁ」なんて囁き合いが耳に入ったことにも気が削がれた。
それにそんな話を悠長にしている場合でもない。
「そんなことより何が大変なのか話してちょうだい」
「あ、そうだった! 塩鉱山が大変なんですよ!」
やっと「大変」以外の部分が聞けた。しかしまだ場所だけだ。プリスは腕組み「どう大変なの?」と重ねて尋ねる。
「建物が跡形も無く壊されてたんですよ!」
ざわめいた。冒険者ギルド内がだ。プリスの心にも漣が立ったが、直ぐに凪いだ。不測の事態であればあるほど、冷静に事を進めるのが上級冒険者と言うものである。
そして推測。幾つかの可能性を潰しておく。
「土砂崩れ……なんかじゃないわよね?」
「はい。そんなのではなく、薙ぎ払われたみたいな感じでした」
建物が在ったのは斜面の麓だが、雨も降らずに崩れるような場所ではない。だから念のための確認だ。
「火事でもないのね?」
「小火が出たらしいのはありましたけど、焼け焦げ何もないのが多かった感じですね」
通常に起こり得るのはこの二つと突風くらいだろう。突風を問わないのは、鉱山を囲む山が禿げ山のせいで痕跡が残らないためだ。見た目では判断できない。それに、それほどの突風であればもっと広範囲に風が吹くと予想され、セントラルスでもそれなりに感じられたに違いない。しかしセントラルスではここ数日そよ風程度しか吹いていなかった。
ここまで話して、プリスも男も表情を消した。情報らしい情報が無い。このまま問答しても埒が明かないので仕切り直しである。
それに問題は建物だけではない。
「そこに居た人は?」
「誰も見当たらなかったんで、声を上げてみたんですけど、返事はありませんでした」
大きくざわめいた。しかし直ぐにその声は退く。居合わせた冒険者もギルド職員も、話を聞き逃すまいと耳を澄ませる。
だからその声は大きく聞こえた。
「そう。それなら、行ってみるしか無さそうね。直ぐに出るわ」
プリスは言葉を終える前に仕度を始めた。日頃から腰のベルトに留めてある膝当て、肘当てを着け、指なしグローブを填める。周りの冒険者達もお互いに目配せし合いながら、直ぐに動けるように身の回りを片付け始めた。
ココットは周りの冒険者の様子に小さく喫驚しつつもプリスを正面に捉える。
「プリスさんがいらっしゃるのですか?」
プリスはココットに視線だけを向けた。急ぎの用でもあるなら聞いておかなければならない。言葉少なに理由を尋ねる。
「いけない?」
「いえ、てっきり誰かを顎で使うだけかと……」
ココットは言葉の途中で「あっ」と小さく叫んで両手で口を押さえた。うっかり普段の調子で話してしまったものの、いつになく張り詰めた気配を漂わせるプリスに対しては明らかな失言だったと気付いたのだ。
「そう」
一方、プリスは今度も言葉少なに確認の意を伝えた。自身が動くことに何か不都合が有るならともかく、単なる感想なら今取り合う必要は無い。まあ、後になっても必要になったりしないのだが。
それと言うのも、誰かに何かを言われたところでこんな場面での行動が変わるものじゃない。それがココットからであってもだ。そもそも誰にどう思われるかなど意識の埒外にある。
勿論プリスとて顎で済ませられるならそれに越したことは無い。だが、昔に馴染みだった呑んだくれの冒険者は誰かが危機に陥った時には真っ先に動いていた。他の誰も危機だと気付かない内からだ。いや、一人だけ彼の先回りをしていた人物が居た。
この際早い遅いはどうでも良いが、彼、いや彼らに顔向けできないことだけはできない。持ち込まれた話は、ここで動かなければそうなる可能性がある。だから動く時と判断するのである。
プリスは準備が整ったところで「出るわ」と周りの冒険者に声を掛けて冒険者ギルドから踏み出した。後ろからは「こっちは任せてくだせぇ」と、言葉が追い掛けて来る。この時にはもう走り出していたため、内心で「頼りにしてるわね」とだけ呟いた。
徐々に走る速度を上げる。町中では全速力は出せない。何かに衝突すれば大惨事な上、石畳を破壊しかねないためだ。精々庶民が全力で走る速さの二倍程度までに抑える。
内門を通ったら少し速度を上げる。庶民が走る速さの約三倍。
外門を出たらこれまでの倍に速度を上げる。庶民が走る速さの約六倍だ。もう少し速度を上げられるが、不測の事態に備えて無理はしない。
塩鉱山まではセントラルスの外周の倍程度。つまり毎朝走っているのとほぼ同じ距離がある。セントラルスの外周は人が休まず歩いて一周すれば五時間から六時間。プリスなら、今の速度を維持して塩鉱山まで三十分くらいで辿り着く勘定になる。
そうしてプリスは一陣の風となって街道を流れて行く。
「ふおっ」
たまたま通り掛かって風に煽られた冒険者が茫然と振り返った。




