第9話:「雨粒の出会いと、小さな温もり」
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退屈な婚約者との時間から一転、雨の日に出会ったのは、経営難の小さな出版社で働く編集者・英美里でした。打算のない彼女の純粋さに触れた治臣の心に変化が訪れます。運命の出会いをお楽しみください!
三月との退屈なティータイムを終えた治臣は、高級フレンチレストランを後にした。外は相変わらず冷たい雨がアスファルトを濡らし、街路樹の葉を重たげに揺らしている。運転手が待つ黒塗りのリムジンへと歩みを進めていたその時、ふと、並木の陰にある小さなバス停のベンチに視線が吸い寄せられた。
そこに佇んでいたのは、一人の女性だった。
華美な装飾とは無縁の地味なトレンチコートを羽織り、足元は雨に濡れて少し汚れている。彼女は痛むのか右足をかばうように少し引きずりながら、頼りないビニール傘を握りしめ、不安そうに空を見上げていた。濡れた黒髪が白い頬に貼りつき、大きな瞳には切実な困惑の色が浮かんでいる。
(……見過ごすか?)
西園寺の御曹司として、他人に余計な興味を向ける必要など本来はない。しかし、なぜかその姿から目が離せなかった。華やかなステータスや金銭への執着ばかりをまとった三月とは対極にある、あまりにも無防備で、あまりにも生身の人間らしい脆さがそこにあったからだ。
治臣は部下に合図して車を待たせたまま、自らの一本の黒い傘を差し出しながら、その女性の足元へと静かに歩み寄った。
「あの、大丈夫ですか?」
不意にかけられた低く落ち着いた声に、女性はビクリと肩を震わせて振り返った。濡れた瞳が治臣の端正な顔立ちを捉え、わずかに見開かれる。
「あ……ありがとうございます。あの、足首を少しくじいてしまって……歩けなくはないのですが、バスがなかなか来なくて困っていたんです」
申し訳なさそうに微笑む彼女の表情には、作り物ではない素朴な温かみが満ちていた。名門の令嬢たちが群がるような嫌らしさは一切なく、ただ懸命に生きる一人の人間の姿がそこにあった。
「もしよければ、私の車を送迎に使ってください。病院へ行くか、ご自宅へお送りします」
「い、いえ! そんな、見ず知らずの私にそこまでしていただくわけには……!」
慌てて手を振る彼女の名は、英美里と言った。
のちに話を聞けば、彼女は小さな出版社で細々と編集者として働いているという。しかし、昨今の出版不況と経営難のあおりを受け、彼女が勤める会社もいつ倒産してもおかしくない崖っぷちの状態なのだと、自嘲気味に語ってくれた。
「編集の仕事が好きなんです。でも、本を届ける場所がなくなってしまうかもしれない……それが、ちょっと悔しくて」
英美里がぽつりと言ったその言葉は、治臣の胸の奥底に奇妙な波紋を広げた。
利益や効率、金銭の損得勘定だけで動く世界に生きる彼にとって、その「不器用なまでの純粋さ」と「夢に対する執着」は、かつて自分が持っていたはずの、しかし絶望の中で置き去りにしてきた何かを思い出させるものだった。
「英美里さん。もしよければ、私の会社の広報部で働いてみませんか? ちょうど、出版や編集の経験がある人材を探していたんです」
咄嗟に出たその言葉に、英美里は驚愕したように目を見張った。それが西園寺グループの御曹司からの提案だとは夢にも思わず、彼女はただ目の前の青年の真摯な眼差しを見つめ返した。
冷徹な仮面を被った冷え切った日常に、一滴の温かな水滴が落ちた瞬間だった。この雨の日の出会いが、治臣の運命を、そして二人の未来を大きく変えていくことになる。
第9話「雨粒の出会いと、小さな温もり」をお読みいただき、ありがとうございます!
金銭と権力に満ちた世界に生きる治臣が、泥臭くも懸命に生きる英美里と出会う印象的なエピソードとなりました。彼女の存在が、今後の治臣の人生にどんな温もりをもたらすのか――。
次回、第10話では、英美里が治臣の会社で働き始め、二人の距離が少しずつ縮まっていく様子が描かれます。どうぞお楽しみに!




