第3話:呼吸する住人と待ち受ける者たち
#名頃の村 #無月江戸 #伽椰子 #覚醒 #執着 #ダークロマンス
祖谷の谷に差し込む朝の光に、温もりはない。杉の木々の間を這いずる濃い霧が、光を遮っている。無月江戸は、整えられた高校の制服に身を包み、屋敷から出てきた。漆黒の生地が、彼の青白い肌をより一層際立たせている。
転入手続きのため、小さな役場へ向かわねばならない。道すがら、彼はガードレール沿いに座る案山子の列を通り過ぎた。昨日は確か、彼らは川の方を向いていたはずだ。だが今朝は、例外なく――その首をアスファルトの道の方へと傾け、まるで江戸の足取りを追っているかのようだった。
――キィ……キィ……。
荒れ果てた遊び場から、古い木製のブランコが軋む音が聞こえてきた。そこでは、腰の曲がった老婆がベンチに座り、何かを縫っていた。
江戸は足を止めた。嗅ぎ慣れた匂いがした。――線香と、濡れた布の匂いだ。
「あんた、無月家の坊かい?」老婆の声は、紙やすりを擦り合わせたように掠れていた。
江戸は振り向いた。老婆の名は月見婆さん。名頃で今も呼吸を続けている、数少ない人間の一人だ。その目は白内障で濁っていたが、まっすぐに江戸の胸元を見据えていた。
「ああ。無月江戸だ」短く答える。
老婆は手を止めた。膝の上には、江戸と寸分違わぬ大きさの、顔のない案山子があった。「あの屋敷は……伽椰子の家だ。あいつは場所を分かち合うのを嫌う。あんた、昨夜のうちに死んでいるはずだった」
「あいつは試したよ。だが、失敗した」江戸は淡々と返した。
月見婆さんは、乾いた笑い声を上げた。「失敗? 違うよ、坊や。伽椰子は決して失敗しない。あんたがまだ生きているなら、それはあんたが、あいつよりも濃い『闇』を背負っているってことだ。混ざり物の血……空虚な『無月』と、鋭利な『黒鉄』。あんたはこの村にとって災厄だよ」
突如、強い風が吹き抜けた。遊び場の周囲にいた案山子たちが、一斉に震え始める。一体、また一体と、静止していた案山子たちがぎこちない動きで立ち上がった。布と藁が擦れる音が空気を満たす。
――ズルッ……ズルッ。
子供の案山子が江戸の足元へと這い寄り、古びた軍手で作られたその手が、彼のズボンの裾を掴もうとした。
「やめろ」江戸が言った。声は大きくなかったが、冷徹な威圧感が宿っていた。
刹那、案山子たちが硬直した。江戸の足元から、微かだが鋭い霊圧が放たれ、地面がわずかにひび割れる。月見婆さんは目を見開いた。彼女には、地面に落ちた江戸の影が人の形ではなく、闇の中から無数の目が覗く、巨大な「何か」に見えていた。
「ここでその力を使うんじゃないよ、無月くん」老婆は震えながら囁いた。「この村では、あんたが『目覚め』れば目覚めるほど、この案山子たちは人間になるためにあんたの皮を欲しがるようになる」
江戸は構わず、挨拶もなしに歩き去った。だが、曲がり角のカーブミラーの前で、彼は足を止めた。ミラーの中に、自分の姿が映っていた。その隣に、血に汚れ始めた白死装束を纏った伽椰子が立っていた。その表情は、怒りではなく、深い悲しみに満ちている。
伽椰子は、役場の裏手に広がる森を指差した。
「あそこに、お前よりも質の悪い何かがいるんだな?」江戸は鏡の中の伽椰子に問いかけた。
怨霊は答えず、黒い霧となって消えた。江戸は確信した。この村では、生者と死者、そして布で作られたモノとの境界はすでに崩壊しているのだ。
そして、自分はその中心に立っている。




