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第九話 念願のベッドです。もう寝ます。

 アレスから聞いた宿は、商業ギルドのすぐ近くにあった。今度の「すぐ近く」は、本当にすぐ近くだった。ありがとうアレス。距離感覚だけは信用しよう。


 なるほど、これは宿屋というより、古い貴族の邸宅だ。通りに面した三階建ての石造りは、両隣より一回り背が高く、正面には蔦の絡んだ鉄柵の門が構えている。磨き込まれた真鍮の看板に、流れるような書体で「百年の灯火」とだけ刻まれていた。もう日が暮れかけていて、軒先のランプが、その文字だけを橙色に浮かび上がらせている。

 門の内側は、手入れの行き届いた前庭になっていた。敷石は塵ひとつなく、植え込みは定規で測ったように刈り揃えられている。窓から漏れる灯りは品よく抑えられ、酒場の喧騒も物売りの声も、ここまでは届かない。門をくぐっただけで、外の世界がすっと遠のく。要するに、金持ちが静けさごと買い取っている場所だ。

 いいぞ。実にいい。この静けさこそ、俺が世界を渡ってまで求めていたものだ。


 中に入り、呼び鈴を押す。リーンという心地よい音が鳴り響いた。

 ほどなく、奥から女性が一人現れた。歳は四十がらみ。糊のきいた濃紺のワンピースに、染みひとつない白いエプロン。身なりは隅々まで整っている。ふくよかな体つきで、歩くたびに足音がやわらかく弾んだ。重ねた歳の分だけ目尻に皺が寄っているが、それがかえって人の好さそうな、温かな笑みを形づくっている。値踏みするでも媚びるでもない、構えのない眼差しだ。悪くない宿だ、という予感がした。

 接客の質は、客を見る目に出る。門番は俺を不審者として見て、固まった。この人は俺を客として見て、笑った。それだけのことが、今日一日でずいぶん貴重に思える。


「お待たせしたね。宿泊かい? 身分証を見せておくれ」


 身分証。作りたてほやほやの、最低ランク一歩手前のやつだ。Dランクではダメと言われたらどうしよう。高級宿には「当店はBランク以上のお客様のみ」みたいな掟があるかもしれない。動揺を見せずに、カードを渡す。


「ああ、一番良い部屋はいくらだ?」

「朝晩の食事付きで銀貨二十枚、なしで十九枚だよ」


 身分証は問題ないようだ。よかった。金の力が、身分の壁をあっさり越えていく。

 うーん。異世界の食事も気になるが、今は食べ損なったファミレスの料理が一番食べたい。あの日、最後の一切れにナイフを入れたまま、俺の地球の食事は中断されている。あの続きを、やらせてもらおう。


「食事なしで五泊。そのあとは、またその時に決めるよ」


 金貨を一枚手渡す。さすが高級店。金貨の支払いでも特に何も言われない。オージの窓口で身についた金銭感覚が、早くも役に立っている。


「はいよ。銀貨五枚のお釣りだよ。部屋の鍵だ。掃除、風呂のお湯、ゴミ出し、洗濯が必要な時は声をかけておくれ。裏庭に焼却炉があるから急いでる時は自分で捨てておくれ」


 おお。サービスが良いな。掃除、風呂、ゴミ、洗濯。生活の面倒ごと四天王が、声かけ一つで全部消える。アレスに初めて感謝だ。あの赤髪、戦闘力以外の情報の精度は高い。


 鍵を開けて、部屋に足を踏み入れる。

 ひと目で、当たりを引いたと確信した。とにかく広い。床には毛足の長い絨毯が敷き詰められ、天井からは小ぶりのシャンデリアが下がっている。壁は落ち着いた濃い紅色で、窓辺には一人がけの椅子と小机。調度の一つひとつに、惜しみなく金がかかっていた。そして部屋の奥には、大人が三人寝ても余りそうなキングサイズの寝台が、糊のきいた純白の寝具をまとって鎮座している。……あれだけで、もう優勝だ。表彰台の一番高いところに、あの寝台を置きたい。

 続き間の扉を開けると、専用のバスルームまで付いていた。だが、妙だ。蛇口らしきものもなく、シャワーの類は影も形もない。湯がほしければ人を呼べ、という仕組みなのだろう。一方でトイレは、腰かけて用を足す様式で、脇に張られた水を流し込んで始末するようになっていた。水道は通っていないくせに、設備の発想だけは妙に進んでいる。暮らしぶりは中世そのものなのに、衛生まわりだけが一足飛びだ。……やはりこの世界は、どこかチグハグだな。

 まあいい。トイレは森じゃなかった。風呂は川じゃなかった。初日の懸念事項が、二つ同時に消えた。この世界、思ったよりずっと文明的だ。


 とりあえず、今日の召喚回数は十分残っている。生活に必要なものを用意しよう。

 まず一番大切なのは灰皿だな。……いや、待て。部屋に匂いがつくとクレームになるかもしれない。あの人の好さそうなおかみさんに眉をひそめられるのは、地味に心に来る。電子タバコにしておこう。モバイルバッテリーも必要だな。スマホと電子タバコで充電の規格が違うことも考慮して、窓に小さなソーラーパネルを置いておくか。文明の利器は、電源の確保から。キャンプと同じだ。

 あとは、金塊のラージバーを一つ。これが今後の主な収入源だ。地球の文字が刻まれているが、知らぬ存ぜぬで通せるだろう。「拾った」で押し通す。世界一雑な錬金術である。

 頭の中で品物を一つずつ思い描き、「召喚」と念じる。すると、何もない空中にぽとりと像が結ばれ、ことりと小さな音を立てて手のひらや机の上に現れた。電子タバコ、モバイルバッテリー、手のひら大のソーラーパネル。最後に、ずしりと重い金のインゴット。蛇口ひとつない異世界の高級宿の一室に、地球の工業製品が場違いに並んでいく。我ながら、ひどい絵面だ。シャンデリアの下のソーラーパネル。文明の交差点がここにある。


 とりあえず、飯だな。スマホでファミレスのメニューを眺めながら、どのセットにするか悩む。この瞬間が、地味に幸せだ。決めて念じれば、湯気の立つハンバーグプレートが、銀の盆ごと机の上に現れた。……これ、皿とか処分に困るな。宿暮らしは便利だが、やはり自宅は必要か。次からはデリバリーメニューにしよう。容器ごと焼却炉行きにできる。異世界で分別ゴミに悩む男は、たぶん俺が初だ。


 ふと、左手首の時計に目を落とす。この世界に来てからも、外さず着けたままだった。文字盤の秒針が、こちらの常識などお構いなしに、律儀に時を刻んでいる。今は十七時だ。日の傾きと照らし合わせても、大きくズレている感じはない。地球と同じ二十四時間の仕組みの可能性があるな。世界を作るときのテンプレートのようなものがあるのか? 爺さんに聞けば教えてくれそうだが、また「くだらんことかのぉ」と言われるのがオチだ。疑問は貯金しておこう。


 窓の外がすっかり藍色に染まる頃、早めの夕飯にありつく。慣れた故郷の味をかみしめながら、今日一日に起きた色々を思い返した。宇宙で目覚め、スライムと交渉し、貴族に化け、Aランクを吹っ飛ばした。情報量の多い一日だった。

 ……あれだ。せっかく顔をイケメンに作り直してもらったのに、この世界で口をきいた女性は、宿のおばさんただ一人ときたものだ。国宝級の顔の、宝の持ち腐れである。まあ、明日からだ。明日から本気を出す。何の本気かは知らないが。


 もう、今日は何も考えずに寝よう。

 純白の寝具をめくり、キングサイズの寝台に身を投げ出す。背中が、雲のように深く沈み込んだ。

 ――念願の、ベッドだ。




  * * *


――ハンターギルド Side――



 夜の帳が下りても、ハンターギルドの喧騒は鎮まるどころか、二度目の山を迎えていた。昼間の「やべえ新人」の一件で、賭けの精算と祝杯が、いつまでも止まらない。

 その熱気から一段奥まった受付の隅で、二つの人影が声をひそめ、額を突き合わせていた。受付台のドイルと、試験官のアレスだ。ジョッキ片手にへらへら笑っていたはずのアレスの顔から、いつの間にか軽薄さが消えている。


「アレスどう思う?」


 ドイルが、低い声で切り出した。


「ありゃ、良いところの出だな。普通ならアイツらみたいなゴロつきに注目されると、誰でも緊張するはずだ。レオにはそれがなかった。荒事に慣れているというよりは、見られることに慣れているな」


 飄々としていた普段の口ぶりは、もうどこにもない。試験官として幾人もの新人を見てきた男の、底光りする目だった。


「やはりそう思うか。帝国の出身か? 王国出身に比べると発音が綺麗すぎる。まるで皇族のようだ。間者の説はあるか?」

「それはないな。下手すぎる。フードの中の顔を見たか? あの透き通るような金髪は前の皇帝と同じだ。落とし子の線もあるが、教育を受けた者の形跡がちらほら見受けられた。直系だな。そしてアーティファクトを全身に身に付けてやがる。効果はわからんが、腕につけている謎の円盤はゆっくり回転していた。あんなの見たことがない」


 険しい顔で太い眉を寄せるドイルに、アレスは即答した。謎の円盤。回り続ける金属の板。二人の頭の中で、それは徐々に、触れてはならない何かへと育っていく。


「はぁ……。皇族がわざわざ他国のハンターギルドに登録する意味はなんだ? 目的があるならば、皇族であることを告げれば貴族待遇の協力をすることもできるのだが、それをする素振りすら見せやしない。こいつを見てみろ」


 ドイルが頭を抱えながら、一枚の紙を台に放った。レオが書き残していった、登録用紙だ。


「ああ、俺もそれを覗き見した時に唖然とした。幼少期から教育を受けている貴族ですら、ここまでの文字は自分の名前くらいしか書けないだろうな。家に額縁を買って飾りたいくらいだ。――宿暮らし というくだらない文字をな」


 達筆な筆跡と、そこに書かれた中身の気の抜けようの落差に、アレスが小さく噴き出す。だが、その笑いもすぐに引っ込んだ。笑い飛ばすには、材料が揃いすぎている。


「実は、城壁のこと聞かれた。弱点でも探っているのかと思ったのだが、本当に気になって聞いただけな様子だったぞ。モンスターパニックのことを話したら、面倒そうな顔をしていて拍子抜けした」

「要監視だな。あの馬鹿どもにも命が惜しかったら余計なことをするなと言い聞かせねえとな。はぁ、ギルドマスターにも報告しておく。国への報告が必要かどうかはマスターに丸投げだな。俺はもう考えたくねえ」


 ドイルが、つるりとした頭を左右に振りながら、何度目かのため息をついた。受付台には、いつの間にか冷めた茶が三杯、手つかずで並んでいる。注ぎ足しに来た給仕が、二人の空気を見て、そっと引き返していったのだ。


「俺の勘だが、確実に厄介ごとは起きるぞ。その時に、どういう立ち位置で行くか先に決めといた方が良いな。下手したら国を巻き込む事態になる」

「……Aランクとしての勘か?」


 アレスの声に、もう冗談の色はない。ドイルが、ここ一番の鋭い眼光で問い返す。


「そうだ。Aランクとして様々な危険を回避してきた俺の勘だ」


 しばし、二人の間に沈黙が落ちた。あれだけ近かったはずの喧騒が、やけに遠くに聞こえる。


「はぁ……レオが来たらお前の方からもフォローしてやってくれ。起こりうる事象と、その時の対応について今日はマスターと朝まで相談だな……」


 ドイルが、遠い目で天井を仰いだ。これから始まる長い夜を思ってか、その背中は、実際の歳より重たく見える。


「そんな考え込むと禿げるぞ」

「うるせー! すでに一本もねえよ!」


 かくして――当の本人が念願のベッドで泥のように眠っているところで、ハンターギルドの苦悩は、なおも続くのだった。


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