第四話 異世界より先に、顔の確認を
足元に、紫色の魔法陣が浮かび上がった。
複雑な幾何学模様が、ゆっくりと回転しながら淡く明滅している。旅立ちの時だ。
「この魔法陣が、転移魔法か?」
「いや、転移自体は一瞬で済む。これは其方のために、雰囲気を出しただけじゃ」
最後まで、食えない爺さんだ。
転移に、魔法陣は要らない。要らないのに、わざわざ出した。何億年も世界を管理してきた存在が、俺一人の門出のために、演出を仕込んでくれたわけだ。……そういうところだぞ、師匠。
「それじゃ、また後でな」
「うむ。楽しんでこい」
行ってきます、でも、さようなら、でもなく。また後でな。コール魔法があるから、嘘じゃない。この距離感が、ちょうどいい。
魔法陣から、強烈な光が立ち上る。視界が真っ白に塗り潰されていく。
……雰囲気、出しすぎだろ。
* * *
風の匂いが、変わった。
まばたき一つの間に、俺は草原の上に立っていた。
膝丈ほどの草が見渡すかぎりに広がり、風が吹くたび、草原全体がざわーっと一斉に傾く。どこかのOSの壁紙でも眺めてる気分だ。空は見たこともないほど高く、雲ひとつない晴天だ。日本ではあり得ないほど澄んだ空気は、不思議と美味く、どこか懐かしかった。
音もある。草の擦れる音、遠くの鳥の声、自分の足が土を踏む感触。あの無音の空間から来ると、世界に音があるというだけで、生きてる感じがする。
気づけば、胸の痛みは消えていた。代わりに、体の芯で何かが静かに燃えている。これが魔力か。ストーブの種火みたいなもんだと思っておこう。
それと、体が軽い。異様に軽い。視界の隅々までピントが合うし、呼吸が深く入る。ふと、手の甲に目をやる。皺一つない、若い肌。……二十歳のイケメン、というのは口に出すと気恥ずかしいが、まあ、悪くない気分だ。
そうだ、肝心の顔を確認しないと。
鏡を召喚するか? いや、回数制限があったな。一日二十四回の貴重な一回を、鏡ごときに使うのは業腹だ。どうせ今後も使うスマホを呼ぶほうが利口だ。
――スマホ召喚。
目の前に、ぽんとスマホが現れ……そのまま地面へ落下していく。
慌てて拾い上げる。召喚した瞬間にキャッチしろという方が、無理ゲーだ。次から胸ポケットの真上で召喚しよう。異世界生活、最初の教訓がこれである。
カメラを起動し、インカメラに切り替える。我ながら、緊張してきた。爺さんのセンスに全てを委ねた、人生を左右するガチャの結果発表だ。さて。見せてもらおうか、今世紀最大のイケメンとやらを。
……うわ。
輝くような金色の髪。この空に負けないくらい澄んだ青の目。透き通るほど白い肌に、すっと高い鼻梁。画面の中の男が、俺の表情で俺を見ている。それがもう、俺の知っている「俺」と一ミリも重ならない。貴公子――というより、これはもう王族と名乗っても通りそうなレベルだ。さすがに、やりすぎだろう。
注文したのは「現地で最上位のイケメン」であって、「国宝」ではない。だが文句を言う気には、まったくなれなかった。
ありがとう、心の師匠よ。
ついでに、インターネットで日本の時間を確認してみる。俺の記憶が確かなら、地球での最後の記憶は正午前だったはず。爺さんの空間での一時間は、地球でも同じだけ過ぎているのか――いや。
……一ヶ月、経っている。
やはりあの空間は、時間の進み方が違うらしい。体感一時間で、ひと月。爺さんが「保って一時間」と急かした理由も、これで腑に落ちた。のんびり世間話をしていたら、外では季節が変わっていたわけだ。
念願のイケメンは手に入れたが、この顔で堂々と歩けば、目立ちすぎて面倒ごとしか生まない。せっかくの新天地、初日から注目の的はご免だ。
ネットで検索し、異世界でも違和感のなさそうな、フードで頭を隠せるローブを召喚する。コスプレ用品らしいが、作りは思ったよりしっかりしている。こんなものまで売っているとは、日本人もなかなか酔狂だ。レビューには「ライブで着ました」とあった。俺の用途は「異世界で顔を隠す」。どっちもどっちか。
さて。例のやつを試してみるか。異世界といえば、あれだろう。
――ステータス。
……出ない。ないやつか。
――ステータスオープン。鑑定魔法。対象ステータス。
うん、出ないやつで確定だ。半透明のウィンドウも、レベル表記も、スキル一覧もなし。チュートリアルの類は一切なしで、いきなりオープンワールドに放り出されたらしい。
魔法で再現できない以上、鑑定なんてとんでも装置はないのだろう。爺さんもそう言っていたから、間違いない。つまり、俺の中身は誰にも視えない。ステータスが視えない世界なら、俺の異常な魔力も、視ようがない。……これは、目立ちたくない俺には朗報だな。
ならば名前も、自由に決めて名乗ればいい。
とはいえ、こっちの人間の名前の付け方がわからない。無難な名前とは、なんだろう。……さっきの顔を思い出す。このイケメンに無難な名前をつけられるのか、という気もするが。照れるな、俺。
レオナルド。これでいこう。王子様っぽいし、据わりがいい。あの顔なら名前負けもしない。こっちで変な名前だと判明したら、「レオと呼んでくれ」と言えばいい。略称なら命名規約に縛られないし、違和感もないはずだ。
レオナルド、通称レオ。よし、悪くない。
固有魔法のうち、シールドのオートガードだけ試しておくか。怪我をしない程度の小石でも投げてみよう――として、思い出す。
――俺に危害を加える速度で接近してきた対象だけを、限定的に防ぐ効果に。
自分で設定した条件が、ここで牙を剥いた。つまり、自分が怪我をしかねない速度で何かを投げつけねば、発動の確認すらできない。テストに失敗した場合の結果は、俺の流血だ。
……やめておこう。能力の確認は大事だが、自分の身はもっと大事だ。うん。ここは、爺さんの仕事を信じる。あの完璧な顔を作った職人が、シールドだけ手を抜くはずがない。
かなり遠いが、丘を下った先に、街道と街が見えた。石造りの壁がぐるりと町並みを囲い、煌めいているのは建物の屋根だろう。城壁の門には、米粒のように小さな人の列が出入りしているのが、辛うじて見て取れた。
異世界の、街。胸の奥が、少しだけ浮き立つ。
――が、それはそれとして。
あそこまで、歩くのか。なかなかの距離だ。徒歩なら、たぶん一時間ではきかない。召喚で馬車でも出せないかと一瞬考えて、いや、目立つのは禁止だったな、と早々に諦める。第一、馬のいない馬車が走ってきたら、俺なら全力で通報する。
新しい人生の初日から、これか。我ながら、怠惰の権化だな。
* * *
はぁ、タバコがうまい。
回数制限に備えて召喚は控える――そう決めていたのに、初日からあっさり破ってしまった。だが、後悔はない。魔力のおかげか歩いても一切疲れないし、見る景色はどれも綺麗で、空気はうまい。そしてタバコがうまい。健康被害ゼロのタバコは、もはや別の嗜好品だ。……これだけで、もう異世界に来てよかったと思える。
途中、馬車が何台か俺を追い抜いていった。
実物の馬とは、あんなに迫力があるものなのか。でかい。蹄の音が地面から腹に響く。鼻息が荒い。怖い。気づけば、街道の端ぎりぎりを歩いている。世界を滅ぼせるはずの男が、これだ。動物園の柵は、偉大な発明だったんだな。
しばらく歩くうち、地平にぼんやり滲んでいた影が、はっきりと輪郭を持ちはじめた。街を囲う、城壁だ。
近づくにつれ、壁はぐんぐん高さを増していく。もう、見上げないと上が見えないレベルだ。灰色の石を隙間なく積み上げた、馬鹿でかい防壁。その上を、槍を提げた人影がいくつも規則正しく行き来している。街一つ丸ごと囲うのに、石と年月をどれだけ突っ込んだんだ。――いや。これだけの壁が要るってことは、それが必要なほどの何かが、この世界にはあるわけだ。
常時シールドを条件付きに絞ったこと、ほんの少しだけ後悔しはじめている。
街道は、いつの間にか人と荷で混み合っていた。
幌をかけた荷馬車が砂埃を上げて通り過ぎ、家畜の鳴き声と、嗅いだことのない香辛料じみた匂いが風に混じる。すれ違うのは、見たところ皆、人間のようだ。だが、地球のそれとはどこか違う。体つきは一回り厚く、面構えは険しい。そして、腰に剣を提げた者がやけに多い。全員が銃を持ち歩いている社会、という初日の予想は、どうやら当たりらしい。
雑踏の中で、丸腰でローブを被った俺だけが、場違いな観光客のようだった。
その人波の先に、大きく口を開いた門が見えた。門の脇には鎧姿の門番が立ち、出入りする者を検めている。さすがにこれだけの人目の中では悪目立ちするかと、咥えていたタバコの火を指先で揉み消す。
さぁ――異世界人との、ファーストコンタクトだ。




