第三十五話 料理は食材で決まります
朝の風呂は、いい。
湯気が天井まで上がって、窓の外はまだ薄い青だ。庭の草の匂いが、開けた隙間から少しだけ混ざってくる。誰も起こしに来ないし、誰の用事も待っていない。この時間だけは、世界に俺しかいないことになっている。
風呂から上がって、ピカピカの廊下を歩く。
本当にピカピカだ。窓枠の桟を指でなぞっても、埃が付かない。アーニャが来たのは一昨日で、それから俺は何もしていないのに、家がまだ綺麗なままでいる。掃除というのは汚れを取る作業ではなく、汚れが溜まる速度を落とす作業だったらしい。今さら知った。
さて。今日は何もない日だ。
何もない日の使い方は、そのまま人生の質になる。しかも俺の人生はこれから馬鹿みたいに長い。不老というのは、終わりの日付が消えているということだ。だから今のうちに趣味を増やしておきたい。
人生を豊かにするために必要なもの。検索するまでもない。酒だ。
飲めない人間は人生の半分を損している、とかなんとか言われているやつである。ちなみに俺は一滴も飲めない。ただ、これは克服できると踏んでいる。
というのも、俺は紅しょうがが嫌いだった。あの色も匂いも、何一つ理解できなかった。しかし周りのみんなは美味しいと言う。美味いと言っているものを自分だけ楽しめないのは、単純に悔しい。マズイマズイと言いながら食べ続けた結果、今じゃ紅しょうがは俺の好きな食べ物の上位に君臨している。
つまり、味覚は鍛えられる。
同じ理屈で、酒も必ず好きになる。しかも俺の場合、練習台がいくらでも出る。世界中の高い酒を、値段を見ないで、一杯ずつ潰していける。金持ちの道楽ですらない。ただの備品である。まず、軽めのカクテルあたりから始めよう。
――カシスオレンジ召喚。
テーブルの上に意識を集中する。この一手間を覚えるまでは、召喚した液体をよく床にぶちまけていた。今は零れない。上達である。誰にも褒めてもらえない種類の上達だが。
朝っぱらから酒を飲む生活。素晴らしいね。
この一杯で気持ち悪くなって寝込むことになるだろうが、それも織り込み済みだ。魔力感知と同じで、コツコツやる。今日は寝込む日、と先に決めてしまえば怖くない。
一口飲む。
オレンジの味は好きだ。好きなのだが、その裏側にアルコールがいる。舌の奥のほうで、消毒液が薄く笑っている感じ。マズイ。
ちなみにタバコは美味い。あれだけは初日から美味かった。いや、あれは酒と関係なく美味いのか。
いけるな。
案外いける。一気に飲み干す。喉を通って、胃の方に流れていく。それだけだ。ふらつきもしない。この体は魔改造されているので、酒に強い仕様なのかもしれない。
いや、待て。強い、で説明がつくのか。普段の俺なら、この一杯で顔が真っ赤になって、そろそろ横になる頃だ。一滴も飲めなかった男が、一晩で強くなる道理はない。
……嫌な予感がしてきた。
スマホを出して、世界で一番強い酒を検索する。度数九十六。ほとんどアルコールそのもので、普通の人間がそのまま飲めば救急車を呼ぶやつだ。画像の中の瓶が、やたら誇らしげに見える。
少し舐めてみる。
本来なら、口から喉、食道まで、火傷みたいな痛みが順番に走るらしい。では感想を述べよう。
――ただアルコールの味がして、マズい。
思い出せ。管理者の爺さんは確かに言っていた。魔力が一定量を超えると不老になり、ついでに病も毒も寄せ付けなくなる、と。あの時の俺は「不老」の部分ばかり見ていて、後半を完全に聞き流していた。
つまり、酒はアルコールで、アルコールは毒で、俺の体は毒を通さない。
通さないくせに、味だけは通す。マズさは受け取って、楽しい部分だけ捨てているわけだ。ふざけている。人生の半分を取り戻す計画は、始まる前に終わった。
まあ、元から好きじゃないからいいか。いつかアレスあたりと飲み比べをして、酔い潰して遊ぶことにしよう。
気を取り直して、次の趣味を考える。
目に入ったのはダイニングだった。アーニャが磨いた結果、あの部屋は「使ってもいい部屋」に格上げされている。前は物置の一歩手前だった。
料理、してみるか。
いや、やめておこう。
考えてみてほしい。俺が召喚できるのは、地球の一流シェフが本気で作った料理だ。星の付いた店の皿が、その場に出てくる。そこへ、包丁の握り方も怪しい素人が参入して、何を売りにするというのか。同じ土俵に上がった時点で負けている。
勝つなら、向こうが持っていない食材で戦うしかない。この世界のオリジナル食材で勝負しないと勝ち目は――。
待てよ。
本当にそうか?
地球にもある。一流シェフが絶対に出せないものが。
……毒だ。
俺は毒が効かない。フグを無免許で捌いて食っても、心配するのは法律だけという体である。いや、免許を持っている人が作ったものを召喚すればいい。それはもう反則ですらなく、ただの外食だ。
ならば毒キノコである。
フグと違って、毒キノコは毒が抜けない。どう調理しても毒が残るから、地球の一流シェフは絶対に手を出していない。つまり誰も研究していない。ライバル企業が巨大なら、誰も来ない場所に店を出す。ビジネスの基本だ。
スマホで「世界で一番美味しいキノコ」と検索する。
出てきたのはベニテングタケだった。赤い傘に白い水玉。要するに、絵に描いたような毒キノコである。そして紹介文がこれだ。
――一口食べれば天国。二口食べれば三途の川。
これだ。
死ぬのは稀、とも書いてある。稀に死ぬ程度の相手が、毒の効かない俺に勝てるわけがない。天国の部分だけ持ち帰れる。
――ベニテングタケ群、召喚。
ダメ元だったのだが、テーブルの上に赤いのがどさどさと湧いた。百本くらいある。
某配管工のゲームで、踏むと登れるやつだ。改めて見ると本当に毒々しい。自然界が「食うな」と全力で書いた看板を、百枚ばかり積み上げた状態である。
よし。レッツクッキング。
とはいえ、料理などできない。前に出したガスコンロにアルミホイルを敷いて、ただ焼く。
いい匂いがする。
完全に、普通に、美味しそうな匂いだ。油も何も引いていないのに、じりじりと音を立てながら、香ばしいのが立ち上ってくる。傘の縁が縮んで、切り口に透明な汁が浮いてきた。ひっくり返して、醤油を垂らす。焦げた醤油の匂いが立つ。
いざ、実食。一口大のそれを口に放り込み、奥歯で噛み締めた。
――瞬間。
「っ……!?」
脳に衝撃が走る。
舌の上で爆発したのは、ただのキノコではない。煮干しや昆布、肉の出汁を限界まで煮詰めて、そこからさらに何倍にも濃縮したような、暴力的なまでの旨味の奔流。それが噛むたびに、都度発生する。一度で終わらない。噛めば出る。噛めばまた出る。
あまりの美味しさに、喉や舌の細胞が勝手に叫んでいる。もっと噛め。もっと食え。フォークを持つ手が、俺の許可を待たずに次を刺していた。
とんでもない料理を作ってしまった。
店に出せないのが残念なくらいだ。いや、この世界なら出せるのか? みんな魔力を持っているし、軽い毒くらいは押し返せるのでは。
テーブルの上は、既にひどいことになっていた。黒く焦げたアルミホイルと、赤い傘の食べ残し。醤油の跳ねた跡が点々と散っている。次に彼女が来る日まで、まだ何日かある。片付ける時間はいくらでもあるし、片付ける気は今のところ一切ない。
キノコはまだまだある。これはいい趣味を見つけた。酒で失った人生の半分を、たった今キノコで取り返してしまった。次々焼こう。焼いては食べ、感激してはまた焼くを繰り返していると、インターホンが鳴った。
モニターは寝室に置いてあり、見に行くのが面倒くさい。どうせ来る人間は限られている。俺は直接、門に向かった。
立っていたのはアレスだった。赤い髪、日に焼けた肌、背中にはいつもの大剣。手には布で包んだ細長いものを提げている。
アレスなら、ちょっとくらい中毒になっても大丈夫じゃないかな? いや、そもそも中毒にならないはずだ。この世界の人間は全員が魔力を持っていて、魔物の毒を浴びても普通に歩いて帰ってくる連中である。バジリスクの魔眼と睨み合ってきた男が、地球のキノコ一本に負ける道理がない。この料理の腕を絶賛してもらいたい。
「アレス! よく来てくれた。まぁ入ってくれ!」
「面倒ごとだろ! 悪い予感しかしないぞ!」
門を開けた瞬間、半歩下がられた。失礼な。一流を超えるシェフが最高の料理を振る舞うだけなのに、この言われようである。
「今日は本当に違う。美味しい料理が出来たから自慢したいだけだ」
「ああ、それなら喜んで入らせてもらうぜ!」
その足が、そのまま前に出てきた。
この世界のチョロインは簡単に人を信じる。大丈夫かAランクよ。
「レオがそこまで言うなら相当美味いんだろな。そういやS級おめでとうな。聞いてびっくりしたぞ」
「おい、飯が不味くなる話はやめてくれ」
「なんでだよ! 祝いの酒を買ってきたのに!」
布の包みを、胸の高さまで掲げてみせる。中身は酒瓶だったらしい。
S級も酒も、俺にとっては無駄なものだ。今日一日で無駄が二つ確定している。だが今は毒キノ……じゃない、美味しいキノコを褒めてもらう時間なので、ここはスルーする。
「とりあえずお茶を淹れるよ。コーヒーは最高の料理に対して侮辱にあたるから食後に出すね」
「おいおい。すげえ期待しちゃうじゃないか! 何を作ったんだ?」
「それはお楽しみに。俺が今まで食べたものの中で一番美味いかもしれない」
「おお! 本当に期待できそうだな! 楽しみだ!」
応接室に通す。大剣を壁に立てかけ、椅子に座って、すぐに足を組み替える。大雑把な模様替えに気づいたのか、落ち着きがない。期待の質が完全に子供のそれである。
アレスにお茶を出して、五つ星シェフはダイニングに戻る。一流の店に倣って、高そうな皿と、フォークとナイフを用意した。真っ白な皿の真ん中に、焼いた醤油キノコを静かに置く。
うーん。
見た目が全然だな。白い皿に赤黒いキノコが一本転がっているだけで、料理というより証拠品に見える。まぁ、味は最高だからいっか。
「待たせたな! 最高の料理のお出ましだ!」
「おお!」
皿を二枚、応接室のテーブルに運んで並べる。やっぱり周りに野菜でも敷かないと格好がつかないな、と思っていると、正面の反応が止まった。
アレスの目が皿に落ちて、そのまま動かない。眉の間に、縦の皺が一本増えていく。
「……これどう見ても毒キノコじゃないか?」
「軽い毒があるが、ハンターをやれるくらいの魔力があれば影響はないはずだ。死ぬほど美味いから食べてみてよ」
「いや、まずレオが食べてくれ……」
アレスのくせに用心深い。バジリスクだのミノタウロスだのと殴り合ってきた男が、皿一枚に負けている。まぁ、平気だと見せてあげないとね。
「ほら、なんともないぞ。そして最高に美味い!」
「……おお。本当に食えるのか。んじゃ一口だけ」
ナイフで端を小さく切り分けて、フォークで刺して、鼻先まで運んで、そこで一度止まる。目だけがこちらを見た。俺は笑顔で頷いてやる。
覚悟を決めた顔で、口に運ぶ。噛む。
その瞬間だった。
「っ! なんだこれ! 最高にうまいぞ!」
「でしょ。一人で食べてたけど、これは他の人にも食べてもらいたくなる会心の出来になった」
「いや、料理の天才だ! こんな美味いもの初めて食べた!」
次々と口に運ぶアレス。切り分ける手つきが、一口ごとに雑になっていく。
料理の天才だって。照れちゃうな。
いやー、才能って怖い。焼いて醤油を垂らしただけで、世界一美味いものが出来てしまった。
まあ、ここは謙遜せずにおこう。せっかく天才と呼ばれているのだ。
「はー。幸せな味だったぜ! ご馳走さん。毒キノコと疑って悪かった。また今度作ってくれるか?」
「いいとも。世界一のシェフに任せとけ。……そういや毒キノコで思い出したんだが、毒に侵されたらどこで治すんだ?」
「変なことを聞くなぁ。教会に高い金を払って浄化してもらうに決まってるだろ」
ここで魔法の出番か。
解毒剤でも医者でもなく、教会である。魔法が便利すぎるせいで、病院みたいな当たり前の施設が育たなかったのかもしれない。便利なものが一つあると、その周りの技術が伸びる理由を失う。この世界のチグハグさは、だいたいこの形をしている。
「俺は回復魔法を使えるから、浄化も覚えられるかもしれない。教会に言えば教えてもらえるかな?」
「普通なら無理だと思うが、レオならあり得るな。……あ、昨日ダンジョンで出たロザリオを大神官に売りに行ったんだが、レオが来ないって不満を垂らしてたぞ」
うわあ。
絶対に会いたくない。あの人の目は、こちらを人として見ていない。何かの象徴として見ている。
だいたい、こちとらアーニャ教の教祖様だぞ。異教徒には神罰を。信者にはおっぱ……いや、やめておこう。
「お、忘れてた。これ祝いの酒だ。レオは強いのか?」
「そんなに好きじゃないけど、誰にも負けないくらい強いぞ」
「お、いいねぇ! 早速開けて飲もうぜ!」
一切嘘はついていない。好きではないし、負けようがない。
グラスを二つ用意する。琥珀色の液体が、窓から入る光でやたら綺麗に見えた。やっぱり美味しくないが、変な味のついた水である。いくらでも飲める。アレスはひと口で目を細めて、いい酒だ、と唸った。
「そういや、今日は何の用があったんだ?」
「おお。六階の件だ。クロイ達なしでどう攻略するか悩んでてな。もう無理して潜る必要はないんだが、挑戦したくてよ」
ワイバーンがいるとか言っていたな。
俺なら、突っ込んできたところをオートシールドで受け止めて、落ちたところをグーで殴る。以上。だが、それは俺以外の誰の参考にもならない解法である。
空を飛ぶ相手に、地面から届く手段。……ああ、あるじゃないか。
「城門のところにあるバリスタ、持っていけばいいんじゃないのか?」
「あれを当てられる奴なんて、ハンターギルドにいない。あと、固定する必要がある」
「なら、戦争のプロの傭兵ギルドや、城の兵士を連れていけばいいのでは?」
「ダンジョンは国とハンターギルドの管轄だ。傭兵ギルドのやつらは入れない。ハンターみたいに掛け持ちしてるやつも、傭兵ギルドには少ないんだ」
利権争いか。宝の出る穴に入るなと言われれば、入りたい人間はいくらでもいそうなものだが。
……まあ、いいか。
俺は二つ出した。二つとも潰された。これ以上考えると、他人のダンジョン攻略のために俺が働くことになる。それは俺の人生設計に入っていない。グラスを傾けて、聞く側に回ることにした。相槌だけは打っておこう。社会人時代に覚えた、一番役に立つ技術である。
「詰んでんだよなー。かといって人を増やすと分け前が減るしよぉ」
声が一段大きい。頬も赤い。
アレス、酒に弱くないか。これだけのストレスを抱えて生きていたのかと思うと悲しくなる。いや、ならないな。アレスだし。
「なあ、お前もそう思うだろ?」
アレスが、誰もいない空間に向かって話し始めた。
……酒弱過ぎだろ。
テーブルの向こう、椅子も置いていない場所に顔を向けて、律儀に相槌まで打っている。イマジナリーフレンドと会話を始めるな。
「そ、その友人は何て言ってるんだ?」
笑いを堪えながら、脳内フレンドの発言を促してみる。一体何が見えているのか、気になって仕方ない。
「分け前をケチって死んだら分け前もクソもねえだろ、って言ってる。……だよなー。人数は増やすか。タントんとこ誘えば来るしな。回復は……大神官に金積めばいいのか。あの人、金の話だけは早えんだよ」
当たっている。
喋り方は完全に駄目になっているのに、中身だけが正しい。
「傭兵は入れないんじゃなかったのか」
「入れねえよ。……ん? いや待て。依頼で入れねえだけだよな。俺の護衛なら? 俺が個人で雇った護衛なら、誰も文句言えなくねえか?」
「道標あたりに頼めばいいんじゃないか。知り合いだぞ」
「はぁ? なんで道標みたいな大手と知り合いなんだよ」
「引越しの荷物運びをしてもらった」
「お前……傭兵の使い方、根本から間違ってるぞ」
酔っていても、そこはツッコむのか。
話の流れで頼んだだけだから俺は悪くない……はずだ。
「あとはバリスタの固定だな。固定。固定なぁ。……魔法でどうにかならねえかな。魔術師ギルド、頼んだら受けてくれると思うか?」
「ゼイラなら面白がって自分から来そうな気がするけどな」
「ゼイラって緑髪の美人のことか? なんで知り合いが全部大物なんだよ! 羨ましいぞ! 俺もあんな美人と知り合いになりたい!」
叫ぶな。近所に聞こえる。
しかしゼイラ先生、大物だったのか。道理で式典にギルドマスターの代理で来ていたわけだ。俺の中では「城を半分にしようと誘ってくる人」という枠だったのだが、世間の評価はまるで違うらしい。
それにしても、大した男である。俺は二つ出して二つとも潰されただけなのに、こいつは残りを自分で全部埋めてしまった。しかも半分は、見えない友人と相談しながらだ。いつか素面の時に教えてやろう。全部お前が言ったんだぞ、と。どうせ一つも覚えていないだろうが。
「ぐぅ。それでもバリスタを借りる方法だけが思いつかねえ!」
「丁度隣に元近衛騎士団長がいるんだ。バリスタ貸してくださいって頼めよ」
「言えるかっ!」
言えるだろ。菓子を持って三十歩だぞ。
「頼むよー。お前もそう思うだろ? え? 自分で行けって? やだよー」
また始まった。今度は友人にまで断られている。
「探索リーダーが自分で頼まないで、ダンジョンで問題が起きた時はどうするんだ。その時もレオに頼むのか? 情けない、って言っている。……だよなー。でも、話のきっかけくらいはついてきて欲しいんだよ」
「ププッ。そうだぞ! リーダーたるもの、相手から信頼されないといけないよね」
予想とは裏腹に、あまりにまともなことを言っているので吹き出してしまった。
脳内の友人のほうが、俺よりよほど仕事をしている。これならちょくちょく飲み会に誘いたくなる。酔えない体で、酔っ払いを眺めるためだけに酒を開ける。今日見つけた中で、一番いい趣味かもしれない。
「なあ、頼みに行く時は一緒についてきてくれよ!」
「やだよ」
がっくりと項垂れるアレス。
隣の家までは、まあ許す。歩いて三十歩だし、アーサーは話の通じる人だ。道標もいい。あそこは金で動いてくれるから気楽である。
問題は残りの二つだ。片方は俺で実験をしたがる人。もう片方は俺を拝みたがる人。頭のおかしい人たちと、これ以上の関わりを持ちたくない。
「くー。ちょっと酔いが回ってきて気持ち悪くなってきた。こんな酔ったの初めてだ」
「おいおい。大丈夫か。ソファに横になっていいぞ」
「すまんな。ちょっとだけ横にならせてくれ……」
立ち上がろうとして、テーブルに手をついた。
その手が、滑る。
どさりとソファに沈み込んだアレスの顔から、みるみる色が抜けていく。日に焼けた肌の下が灰色になって、額に浮いた脂汗が、こめかみを一筋落ちた。呼吸が浅い。膝の上の指先が、小さく震えている。
「お、おい。いつもこうなのか?」
「いや……急に腹が痛くなってきて……動けない……」
……あれか。
酔っ払いの戯言だと思っていた。誰もいない場所と話していた、あれ。あれは酒のせいじゃない。
幻覚。腹痛。
完全に、毒キノコの症状じゃないか。
やばい。今から教会に連れて行けばいいのか? いや、動かして平気なのか? 担いで走ったとして、何と説明する。Aランクを毒殺しかけました、と言うのか。詰んでいる。
いや、待て。俺は回復魔法が使えた。原理を追える事象なら、形にできる。毒を消す。体から毒だけを抜く。それだけのことだ。できる。できるはずだ。
――毒よ、消え去れ!
アレスを、光が優しく包む。
何かは確実に発動している。発動しているのはわかるが、効いているかどうかまでは光からは読めない。この数秒が、やたら長い。
突然、アレスが目を開けた。
起き上がる。自分の左右の掌を見比べて、握って、開く。それから腹に手を当てて、確かめるように押した。ゆっくりと、俺を見る。
「おい! やっぱり毒キノコだったじゃねえか! 何て物を食わせるんだ!」
「い、いや、俺は大丈夫だったからアレスならいけるかと……」
ジト目で睨まれる。うっ、罪悪感が凄い。
「バジリスクと戦った時よりも、死ぬかもしれないと思ったぞ!」
「ほ、ほら、おかげで浄化の魔法も使えたんだ。次はかけながら食べればいけるいける」
「うるせー! もう怖くてキノコなんて食えねーよ!」
お怒りのアレスさん。遊びに行ったら毒キノコを食べさせられ、幻覚を見せられ、腹を下し、最後に光を浴びせられる。うん。誰だって怒る。なんとかお怒りを鎮めてもらわないと。
「お詫びに、アーサーや道標のところへ一緒にお願いしに行くから、許してね」
イケメンの、可愛い子スタイルで謝る。俺の顔面は最強の交渉材料である。が、アレスには通じない。
「魔術師ギルドと教会本部は?」
「よ、喜んで同行させていただきます」
「そういうことなら許してやる! 明日、予定を空けといてくれな!」
超笑顔のアレスさん。門まで送って、手を振って、閂を下ろす。
ダイニングに戻ると、赤いのがまだ山になっていた。九十本以上。焼いて醤油を垂らせば、世界で一番美味い。それは今日、俺の舌が保証している。
ただ、この山を分けられる相手が、たった今いなくなった。誰かに食わせれば倒れる。倒れない人間を探すなら、毒の効かない体を持った奴を探すことになって、その条件に当てはまるのは、この世界に一人しかいない。
まあ、一人で食えばいいだけの話だ。俺は元々そのつもりで生きている。
冷めたやつを一つ、指でつまんで口に放り込む。冷めても美味い。腹が立つくらい美味い。
料理の腕を自慢したかっただけなのに、どうしてこんなことになるのか。明日はこの世界に来て、一番長い一日になりそうだ。




