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第三十四話 メイドがいる生活も悪くはないです

 朝、俺は珍しく目覚ましで起きた。

 目覚めた理由が「予定があるから」というのは、この世界に来て何度目だろう。指で数えられる回数しかない。人生の目標が引きこもりである以上、これは誇っていい数字だと思う。

 窓を開けると、庭の草が朝の湿った匂いを返してきた。相変わらず伸び放題である。この草はもう、俺の生活の一部というより、俺の生活態度そのものだ。

 顔を洗って、髪を整えて、部屋着の上に一枚羽織った。羽織ってから、少し考えて、脱いだ。人を迎えるのに気合いを入れているように見えるのは、なんとなく負けた気がする。誰に負けるのかは自分でもわからない。


 インターホンが鳴った。

 画面には無精髭が映っていた。オージだ。式典の時とは違いラフな格好だ。

 その後ろに、もう一人。画面の端に、肩から先だけが見えている。


 門を開ける。

 朝の光の中に、オージと、その半歩後ろに立つ娘がいた。


「よう。連れてきたぞ。お前さん普段着もおかしいな」


 オージがそう言って、親指で後ろを示した。ジャージの件は無視だ。

 俺は娘を見た。

 そして、思考が止まった。


 順を追って説明する。

 まず髪。栗色で、肩のところで切り揃えてある。前髪の下に、少し垂れ気味の目。鼻の頭にそばかすが薄く散っていて、それが顔全体を柔らかくしている。年は十七、八といったところ。緊張しているのがはっきりわかる。両手を体の前で固く組んでいて、指の関節が白い。

 可愛い。

 俺の顔面偏差値の基準は、管理者に特別発注した自分の顔と、作り物みたいな造形のエルフによって完全に狂わされている。その狂った基準で見ても、はっきりと可愛い。整っているというより、感じがいい方向の可愛さだ。

 そして。

 ……そして、アレである。


 この世界に来てから、俺が近い距離で接した女性は二人しかいない。

 一人はエルフの美人。もう一人は魔術師ギルドの研究狂。二人とも顔は文句なしに良かった。だが二人とも、判で押したように平らだった。俺はそれを、世界の仕様だと思っていた。

 異世界というのは、そういう調整がされているのだと。魔力とか、種族とか、そういう都合で、この世界の女性は全体的にそうなっているのだと、俺は静かに受け入れていた。受け入れて、諦めて、二度と期待しないと決めていた。

 情報を整理しよう。

 俺は世界の仕様だと結論を出した。

 その結論の根拠になったサンプルは、二人。

 二人。

 ……統計を舐めていた。母数二で世界を語る人間のことを、地球では大体、大馬鹿野郎と呼ぶ。


「おい。聞こえてるか」

「聞こえてる」

「目が合ってねぇんだよ」


 合っていた。合っていたはずだ。少なくとも合わせようという強い意志はあった。

 俺は顎を上げて、視線の高さを厳密に管理し直した。人間の目というのは、放っておくと勝手に落ちる。重力である。重力に抗うのは、いつだって意志の仕事だ。


「レオだ。今日からよろしく」

「……っ、はい!」


 娘は勢いよく頭を下げた。下げすぎて、髪が前に落ちた。可愛い。そして大きい。


「あ、アーニャ・クライスと申します。本日より、その、お、お仕えいたしま……お、お世話に、なります」


 噛んだ。二回。

 顔を上げた時には、耳まで赤くなっていた。

 オージが額を押さえていた。この人は俺の家に来ると必ず額を押さえるのだが、今日はまだ玄関に入ってすらいない。記録更新である。



      * * *



 結局、応接室に通した。最近では応接室の稼働が増えていることから、インテリアに力を入れてみた。アンティーク風のふかふかのソファ。マイクロファイバーの藍色の絨毯。木目調の高そうなテーブル。その上には、高そうなクリスタル調のデキャンタ。壁には謎のタペストリー。アンティークにこだわった結果、海賊の親方の部屋になった。センスがないらしい。

 オージが何か言いたげな顔をしたままスルーして、ソファに深く座る。アーニャはその隣に、ソファの端へ半分だけ乗るような座り方をした。リーシュが猫なら、アーニャは犬だな。可愛い。


 紅茶を出す。アーニャは受け取って、両手で持ったまま、一口も飲まなかった。


「まず確認だ。契約は前に話した通り。通いで週に一度、掃除と洗濯だけ。門番も執事もなし。金は一年分、前払いで済んでる」

「ああ」

「素行は問題なし。身元も確かだ。クライス男爵家のご息女だからな」


 男爵。

 この国の爵位の一番下が男爵で、たしかアレスが男爵相当だったはずだ。つまり本物の貴族である。その本物が、なぜ他人の家の掃除をしに来ているのか。

 顔に出ていたらしい。アーニャが、膝の上でさらに指を固くした。


「あの、うちは、その……名ばかりでして」

「名ばかり?」

「はい。屋敷は残っておりますが、直せる場所から順に諦めておりまして。……嫁ぎ先が決まるまでに、自分の分は自分で用意しなければならないんです」


 言い切ってから、しまったという顔をした。たぶん、初対面の雇い主に家の台所事情を話す作法はない。

 むしろ言ってくれて助かる。つまり、婚活資金を稼ぐために働いていると。そして俺は金が無限にある。需要と供給が完璧にこんにちはしてるじゃないか。いくらでも応援しよう。なぜなら可愛いからだ。


「わかった。うちは楽な方だと思う。週一で、掃除と洗濯だけかな。今は服を捨ててるけど、洗ってくれるならちゃんと保管しようと思う」

「……はい」

「あと、俺は基本家から出られない呪いを受けている」

「……はい?」


 アーニャが一瞬素に戻った。自然な表情が可愛い。なんとか制服はこれを着てと、コスプレ衣装を着せれないだろうか。いける気がするが、人として駄目な気がして言えない。制約がないのならコールを使っていたかもしれない。


 オージが紅茶を飲みながら、横目でこっちを見た。何か言いたそうな顔だったが、飲み込んだようで別な話をしてきた。


「それと、これは先に言っておくが」


 オージがカップを置いた。


「お嬢さんには、ここへ来る道すがら伝えた。この家の主人が、S級だってな」


 アーニャの肩が、はっきり跳ねた。

 俺は少し考えて、事情を理解した。この娘が雇用の話を受けたときは、非公表のDランクだったはず。書類の上では、ちょっと金を持っているだけの新人ハンターである。それが、今朝の道中で、国で唯一のS級に変わった。


「なんで今日言ったんだ。アーニャが可哀想だろ」

「昨日、正式に触れが回ったんだよ。俺だって順番は選べねぇよ」


 選べないにしても、もう少し何かあるだろう。何も思いつかないけど。目があった瞬間、視線が下に逃げた。そりゃそうだよな。一般人相手の家政婦に応募したつもりが、通された先が国の抑止力として働く無法者の家。誰だって怖い。


「あの……失礼を、いたしましたら」

「してもらって大丈夫。気軽に接してくれ」

「え」

「何か壊しても困る物がないから乱暴に扱ってくれてもいい」


 何故なら元手がタダだからだ。なんなら壊してもらって、お詫びにコスプレしてもらうまである。それなら家ごと壊して貰ってもよいのではないか。


 アーニャは何か言おうとして、言葉を探して、見つからなかったらしく、もう一度深く頭を下げた。

 こうして俺の家に、初めてのメイドが来た。しかも期待してなかったのに可愛い。毎日だと面倒くさいと思うが、週に一度可愛い子が掃除しに来てくれると考えると、なんだかとても幸せな気分になれるから不思議である。



      * * *



 オージが帰り、家の中を案内することになった。

 案内といっても、二階建ての小さな家だ。使用人の待機部屋は、アーニャしか使わないからむしろアーニャの部屋と言っていいのではないか。


「こちらは……」

「お菓子ボックスだ。好きに食べてくれ。空いてる袋はゴミなので捨ててくれ」


 めちゃくちゃ日本語でラベリングされているがアーニャには隠さない。何故なら面倒だからだ。一瞬ワンチュール事件の謎文字の切れ端に辿り着かれることがよぎったが、あれは知らぬ存ぜぬで通せるから無視だ。


「……こちらの光ってる板は」

「自由に移動してくれて問題ない。落としても壊れないし、壊れてもすぐ直せる」


 と言っても、高そうな気配を感じたのかアーニャがタブレットから離れる。壊してくれていいのに。恐る恐る周りを見渡す姿がリスみたいで可愛い。

 三つ目くらいで気づいた。

 この子は途中から、理解するのをやめている。やめて、記憶に切り替えている。意味のわからない物の、意味のわからない扱い方を、順番だけ丸ごと覚えにいっている。俺の家の説明が、暗記科目になっていた。

 悪いことをしたなとは思う。思うが、じゃあ説明できるかというと無理だ。あれは俺にも仕組みがわからない。



 水回りにも寄った。ここが一番、説明の要る場所だった。

 棚には、白い粉の入った箱、色のついた液体の瓶、黄色い四角い塊。洗剤とスポンジである。その隣に、畳んだタオルが十枚ほど。物干し用の細い金具が二十本。中身の見える薄い袋の束。ゴム手袋。


「これは洗濯に使う。水に少し溶かすと泡が出る。手が荒れるからこの手袋を使うと良いよ」

「泡、ですか。あの、どのくらい溶かせば」

「小さじ一杯かな。まぁ適当にやってみて」

「小さじ、一杯」

「入れすぎると大変なことになる。実績がある」


 アーニャは箱を持ち上げて、しばらく眺めていた。それから、非常に丁寧に元の場所へ戻した。

 何を聞くにも真っ直ぐこちらの目を見て聞いてくる。かわいいけど、ついつい胸元に視線がいくのを必死に我慢する。

 ここで天才的な閃きが舞い降りる。身体強化をマックスで使えばバレずに胸元を堂々とみれるのではないか。

 なんという発想力。この世界に来て一番頭が働いた瞬間ではないか。念のため、イメトレしてみる。アーニャから見ると、俺は高速で小刻みに震えながら高速で瞬きしているように見えるのか? 最悪だ。完全にヤバい奴だ。これなら堂々と見たほうがまだマシだ。危なかった。今日も脳は一切仕事をしていないようだ。


 二階に上がる。寝室の扉を開ける。


 クローゼットの中には、灰色のローブと、部屋着が二着。その隣に、黒い礼装が掛かっている。

 詰まった立襟。二列のボタン。襟と袖口を走る金の線。房のない肩章。膝上まである丈と、右肩から留める外套。

 アーニャの動きが、止まった。

 完全に止まった。呼吸まで止めているんじゃないかというくらい、綺麗に止まった。

 そのまま、動かない。

 人が服を見る時間というのは、だいたい一秒だ。高そう、とか、趣味が悪い、とか、それだけ思って次へ行く。

 彼女は次へ行かなかった。

 視線が襟から肩へ、肩から外套の裾へ、ゆっくり降りていく。見ているというより、照合している降り方だった。手順があって、一つずつ潰しているような。

 念のため、褒められている可能性も検討した。却下した。人は感心した時に息を止めない。


 俺の黒歴史は、すでに噂が広まっているのか。そりゃ貴族の娘なら聞いていて当然か。他国の礼服着て勲章もらう頭のおかしいハンターの話なんて広まらないわけがない。まぁ済んだものはしょうがない。せめてこの子には頭がおかしい奴と思われないようにしよう。


「それは洗わなくていいよ。奥にポイしちゃって。他の服を置くスペース作らないと」

「え? いえ、皺がつくと大変ですのでこのままの方がよろしいかと」

「そんな大したものではないけど、ここもおまかせするね」

「はい!」


 返事だけがやたら元気だった。




      * * *



 案内が終わり鍵を渡した。恋人みたいで少しドキドキするね。

 玄関の鍵は、俺が普段まったく使っていない。この家は塀が高くて、そもそも入ってこようとする人間がいない。入ってこられる人間は、鍵があろうがなかろうが入ってくる。エルフとか。


「これで、いつでも入っていいよ。俺がいてもいなくても関係なしで」

「よ、よろしいのですか。主人の許可なく屋敷に入るなど」

「うん。自分の家だと思って気軽に入って」


 アーニャは鍵を両手で受け取って、しばらく見つめていた。それから、大事そうに小袋にしまった。うっかりプロポーズになっていないよな?

 鍵を受け取る手が、一瞬だけ目に入った。

 貴族の娘の手ではなかった。指の関節が硬い。爪の際が荒れて、手の甲に細かい傷がある。うちに来る前から、ずっと何かを洗っていた手だ。何と言えばいいのかわからなかったので、何も言わなかった。


「基本的に、俺に気を使わないでね。顔を合わせなくても問題なし。俺がいる部屋は後回しでいいし、俺がいるのが邪魔なら言ってくれれば移動するよ」

「そんな、とんでもございません」

「本当に。週に一度、掃除と洗濯だけの契約。それ以外は何もしなくていいし、休憩も食事も自由にやってね」


 我ながら完璧な設計だと思った。

 人が家にいるのは嫌だ。だが掃除と洗濯はやりたくない。両方を成立させる唯一の答えが、この「顔を合わせなくてもよい契約」である。会わなければ、他人はいないのと同じだ。理屈は通っている。

 だが、可愛い子が家の中にいると気になってしまうのは仕方ないよね?

 さっきから語彙が可愛いしかない。俺の頭の辞書は、今日で一冊ぶん薄くなった。



      * * *



 初日なので、そのまま働いてもらうことになった。俺は寝室に戻り、漫画を物色した。

 一階から音がする。箒の音。水を汲む音。窓を拭く音。人の生活音というのは、他人のものだとこんなに輪郭がはっきりするのか、と思った。

 俺は漫画を開いた。少し読んで閉じる。なんか集中できない。タバコを吸って落ち着こうとして気づく。家なのに電子タバコを吸っている。アーニャにタバコ臭いと思われたくないからか。潜在意識ってすげえや。

 自分で依頼した美人というオーダーに対して、美人が来たら気になって集中できないというクレームは確実にモンスタークレーマーだ。


 階段を上ってくる音がした。

 俺は漫画を持ち直し、視線を紙面に固定した。寝室の扉が控えめに叩かれる。


「失礼いたします。あの、こちらのお部屋は」

「この部屋は今日はやらなくて大丈夫」

「かしこまりました。……あの、それと」


 アーニャが、両手で何か持って立っていた。

 ちょっと良いお菓子の銀箱だった。俺が食べ終わったのを放置してたやつだ。


「この箱はどこに仕舞えば良いですか?」

「それは燃えるから焼却炉で大丈夫」

「え? こんな立派な作りなのに捨ててしまうのですか?」

「どんどん捨ててくれ。疑わしきはゴミだと思って捨ててくれて構わないよ」


 燃えるよな? 駄目なら魔力で千度くらいまで上げてみよう。アーニャは戸惑った顔でこちらを見ている。助けるつもりが困らせることになるとは。


「一度一緒に片付ける場所に行こう。都度聞いてくれ」

「ありがとうございます」


 アーニャの顔に笑みが浮かぶ。今日は落ち着かないから、一緒に同伴しますか。




      * * *


「それはゴミ。それは水に弱いから、ハタキで叩くだけ。それは、美味しいから食べてみて」

「はい。ありがとうございます」



 矢継ぎ早に説明してるけど、アーニャはメモを取りながら笑顔を絶やさない。すごいねプロの仕事は。

 ふと里帰り中のエルフのことを思い出す。あいつが帰ってきたら、アーニャに威嚇しないか心配になってきた。お口が悪いから泣かせる可能性もある。

 どうしようか考えてやめた。人生って割と適当でなんとかなるものだ。その時に考えて、今は嬢との同伴を楽しもう。


 ダイニングの掃除をしてもらってるときに事件は起きる。アーニャが窓を開けた瞬間、何かが割れる音がした。足元に白い破片。皿だ。

 場所を見て俺は全てを理解した。

 かなり前に食器も必要だと大量にセット召喚した。でも料理はしないので、プリンを食べるのに何枚も利用した。

 そして三日くらい前に、食器燃えるのかわからなかったため、俺はその皿を洗った。ニートだが、皿も洗えるタイプのニートなのだ。そこまでは良かったのだが、拭くのが面倒になった。皿を拭けるタイプのニートではなかったため、水切りカゴなどを召喚すれば良かったのだが、深夜におやつパーティをしようと思い召喚回数をケチった。

 結果、窓の裏側に立てかけて天気干しすれば良いと置いたはいいがその存在を忘れていた。


 完全なトラップカードだ。何か壊したらメイド服を強要と思っていたがこういう悪質な罠を仕掛けたかったわけではない。真っ青な顔をしたアーニャを見たら、俺の中の天使と悪魔が揃って「さいてー。アーニャに謝れ」と俺を非難する。


「大丈夫か? 怪我はないか?」

「怪我はありません……本当に申し訳ございません、お給金から必ず――」

「いや、本当にごめん。それ完全に俺が悪い」

「え」

「洗って面倒になって捨ててもいいやってそこに放置したの忘れてた。本当にごめんね」


 誠心誠意謝る。天使と悪魔は「誠意とは言葉ではなく、金額だ」と言っているが、ぐうの音も出ない。出した奴は知っているが。


「あの、とても高価な物に見えるのですが……本当に捨てようとしてたのですか……」

「ほんとほんと。大量生産の安物だよ。ほらこの棚の中を見て」


 開けた棚の中からは、皿、皿、皿。寝る前に召喚回数を残すと勿体ないと思い、出した無駄な品の数々。アーニャの心の傷にならないようにしっかりケアしないと。


「ということなので、気にしないでね。この家に高価なものなど無いから、そもそも壊しても問題ないよ」

「……はい。ありがとうございます」


 アーニャは、何か言いたげな顔だったが納得してもらえたかな。他にも罠を仕掛けてしまってないか不安だが、何も思い出せないから仕方ない。その都度謝ろう。




      * * *



 夕方になった。この子働きすぎじゃない? 一回で全て綺麗にする必要はないと思うんだけど、次回が楽になるかもしれないのでそのまま仕事ぶりを見ていた。ストーカーの出来上がりである。

 使用していない書斎の机が木の色をしていた。これってこんな細かい木目があったのか。床が光っていて、窓も透明になっている。これ一度体験しちゃうともうアーニャなしで生きていけないかもしれない。


「もう十分綺麗になってる。ピカピカだ。ありがとうね。これ特別手当。何かお菓子でも買って帰って」

「いえ、ありがとうございます」


 俺が手渡したのは銀貨一枚。やっぱり、ここが気を遣わせないラインだな。うちで継続して働いてくれるなら婚活資金くらいあげちゃうんだけど、受け取らないだろうなぁ。


 アーニャは、両手で受け取った。それから深く頭を下げて、帰っていった。

 門の前で一度だけ振り返って、もう一度頭を下げた。俺は手を上げて応えた。

 門を閉めた。


 静かになった家で、紅茶を淹れる。

 ソファに沈んで、今日の総括をする。

 まず、アーニャは可愛かった。一日中見ていて飽きなかった。癒しの時間だ。次に家が綺麗になった。俺の天敵である掃除と洗濯を退治してくれる可愛い子が来たからだ。しかも毎週きてくれる。

 次に、俺は今日一日を無駄にした。時間を無駄にしないためにメイドを雇い、そのメイドを、眺めて一日が終わる。そもそも予定がないのだから正確には無駄では無いが、いつもと質の違う一日だった。まぁこれはこれであり。時間は無限にあるんだ。時間をいかに楽しく潰せるかが今後の人生の鍵となる。

 そして最後に一つ、可愛いは正義だが大きいは神。どっかのアルトだかという神よりよっぽど信仰できる。百年経ってやることがなくなったらアーニャ教を興して信徒を増やす遊びをしてもよいな。コスプレしたアーニャの写真をうちの神ですって配れば世界征服も出来るかもしれない。

 紅茶を飲み干して、俺は来週の予定を決めた。

 予定は特にない。特にないので、家にいよう。



      * * *



 同じ頃、貴族街の外れ。アーニャ・クライスは、坂を下りながら、自分の手が震えていることに気づいた。

 体は疲れていない。掃除も洗濯も、実家でずっとやってきたことだ。屋敷を売らずに済ませるために、使用人を減らし、減らした分を家族で埋めてきた。手荒れなら慣れている。震えているのは、思い出しているからだった。


 朝、道の途中で商業ギルドの男に言われた。

 ――言い忘れてたが、旦那はS級だ。

 言い忘れる話ではない。

 仕事を受けた時に聞かされたのは、貴族街の入口付近に住む、金回りのいい新人ハンター。週に一度、掃除と洗濯だけ。門番も執事も置かない変わった屋敷で、素行が確かで口の堅い者を探している、という条件だった。

 条件は今も同じだった。主人だけが、国に一人しかいない人間に変わっていた。


 屋敷の中を思い出す。

 あそこには、見たことのない品しかなかった。指で押すと絵が動く板。知らない文字と素材に包まれた菓子。合わせ目の狂わない箱。どうやって書かれたかわからない色の着いた本。どれ一つとして、彼女の知っている職人が作れるものではなかった。

 そのすべてが、床に転がっていた。

 教会が半年かけて査定するようなものが、菓子の袋と同じ扱いで床にあった。あの屋敷では、価値というものの目盛りが根本から違っている。

 そして、皿。

 思い出すと、今でも指の先が冷たくなる。窓を開けた瞬間、白いものが視界の端で傾いて、床で弾けた。あの一秒で、彼女は父の顔と、今月の帳簿と、自分の給金を同時に思い浮かべた。

 そのどれもが必要なかった。

 主人は破片を一目見て、怪我は無いか? ごめんね俺のせいだ、と。それから戸棚を開けて同じ皿を見せて、値段の話は最後まで一度もしなかった。

 仕えた屋敷は数えるほどしかないが、主人が自分の非を先に口にする家に、彼女は一度も入ったことがない。弁償という言葉が意味を持たない場所に、自分は雇われている。

 あの棚には、同じ皿が何枚積んであったのだろう。数えなかったことを、彼女は少しだけ後悔した。数えていたら、もっと怖くなっていた気もする。


 そして、寝室の。

 あの黒い礼装。

 王都の噂は、彼女の耳にも入っていた。式典に帝国の将官の装いで現れた男の話。膝に届く外套の丈のこと。父が食卓で「あれは恐ろしい話だ」と言い、母が「その話はやめましょう」と止めた、あの話。

 噂の服は、実在した。

 部屋着二着の隣に、掛かっていた。

 そして主人は、それについてこう言った。奥にポイしてスペースをあけて。

 あの言い方を、彼女は何度も反芻した。反芻するほど、意味がわからなくなった。勲章がついた一番大切にしなければならない服を、邪魔扱いしている。かなり身分が高いはずなのに、兄のような親しみやすさ。


 坂を下りきると、街の音が戻ってきた。荷馬車と、夕方の呼び込みと、洗濯物を取り込む声。実家の門をくぐると、父が待っていた。

 名ばかりの男爵は、娘が働きに出ることを最後まで嫌がった人である。嫌がりながら、止められなかった人でもある。


「どうだった」

「はい」

「……どんなお屋敷だった」


 アーニャは、一拍だけ考えた。

 言えることは山ほどあった。言えば、この家の食卓は一晩中その話になるだろう。父も母も弟も、目を輝かせて聞くだろう。

 彼女が雇われた条件を、思い出す。

 素行が確かで、口の堅い者。


「……とても、静かなお屋敷でした」


 父は、それ以上聞かなかった。

 娘の顔を見て、何か言いかけて、やめた。それから「そうか」とだけ言って、先に家の中へ入っていった。


 自分の部屋で、アーニャは小袋から鍵を出して、机の上に置いた。

 主人の許可なく屋敷に入っていい鍵。作法から言えば、ありえない話だ。

 怖い一日だった。声が出なくなるほど怖かった。それでも辞めようと思わなかった理由を、彼女は帰り道からずっと探していて、部屋に着いてようやく、一つだけ見つけた。


 あの方は、一度も自分から目を逸らさなかった。

 噛んだ時も、アレコレ質問した時も、皿を割っても大丈夫だと言った時も、必ずこちらの目を見て話していた。震えているのは丸わかりだったはずなのに、それを見なかったふりもしなかった。

 貴族の屋敷を何軒か回った。どの家の主人も、使用人の顔を見ない。見る必要がないからだ。国で一番強いと言われる人が、震えている娘の目を、最後まで見ていた。


 ……誠実な方なのかもしれない。


 アーニャは鍵をしまい、荒れた手に軟膏を塗って、明日の分の眠りに就いた。主人がその一日、視線を一度も下げないために全神経を使っていたことを、彼女は知らない。

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