第三十三話 式典ですが着ていく服がありません
庭の草にまだ朝露が残っている時間に、インターホンが鳴った。
画面いっぱいに、つるりとした頭頂部が映っていた。カメラの高さと身長がまるで噛み合っていない男が、中を覗き込もうとして顔を近づけているせいだ。毛穴まで見える。防犯装置としてはよく働いているが、映すものを完全に間違えている。
ハゲだ。ドイルだ。うちのインターホン、居留守の成功率はいまだに零パーセントである。
「よう。上がってくれ」
「……いや、玄関で構わん」
門を開けると、ドイルは敷石の上で足を止めた。袖がはち切れそうな巨躯が、俺の家の門柱の間に収まりきっていない。前線帰りの元戦士が、貴族街の敷石を踏むのに靴の裏を気にしている。ギルドの受付台の向こうにいる時の三割ほど、体が小さく見えた。
人の家に来るとこうなる人と、我が家のような顔で菓子を食っていく人がいる。世の中は不公平だ。
「お茶くらい出すよ。なかなか好評なやつだ」
「では、失礼する」
結局、応接室に通した。この部屋の稼働は、これで四回目である。まともな用件で使われたのは、たぶん今日が初めてだ。
ソファに座ったドイルは、背もたれに寄りかからずに背筋を伸ばし、膝の上で手を組んだ。面接に来た人の座り方だった。うちの応接室が、ようやく応接室らしい仕事をしている。
「S級認定が、正式に決まった。国は条件を飲むそうだ。あと、他国のS級がうちの国で悪さをしたら退けてほしいとのことだ」
「ああ、わかった」
他国のS級。条件が一つ増えたが、まあ問題ないだろう。この国で三百年現れなかったレア度だ。それに、ハンターギルドにしろ傭兵ギルドにしろ、上のランクになるほど品性が良くなっていく気がする。戦争でもない限り、わざわざ他国まで嫌がらせに来るような人格の持ち主が、S級に認定されるはずがない。
ギルマスが何かそれっぽいことを言っていた気もするが、覚えていないということは大した話ではなかったのだろう。
つまり、一切のノルマなし。自由だ。
「式典は七日後。昼だ」
紅茶を出しながら、聞き流しかけて、聞き流せなかった。
式典。ギルマスの汗一滴に押し切られて飲んだやつだ。あの時の俺は「一回だけ見世物になれば、その後の百年は面倒と無縁でいられる」と計算した。計算そのものは今も正しいと思う。ただ、支払いの日は思ったより早く来るものだ。ローンとはそういうものである。
「代理の出席は」
「無理だ」
「体調不良ということで」
「無理だ」
「じゃあ、俺の振りしてハ……ドイルが出ればいい」
「無理だと言ってるだろ」
「双子の兄がいてな」
「聞いたことがないな」
「今日から設定された」
「無理だ」
取り付く島がない。このハゲは昔から、要らない言葉を一つも使わない。四回断るのに使った文字数を数えてみたら、俺が粘った文字数の三分の一だった。交渉の場では、喋る量が少ない方が強い。社会人の頃、上司にも同じことをされた記憶がある。
あと、危なかった。口が別の形に動きかけた。このハゲの名前は登録の日に本人から聞いて、ちゃんと覚えている。覚えてはいるが、頭の中で使った記憶が一度もない。
諦めて、誰が来るのかを聞いた。ここが一番大事だ。式というのは、中身より人間で決まる。
「国王陛下。宰相。侯爵がお二人。各ギルドからは長が参加だ。あとは近隣の貴族が出る」
情報を、整理しよう。俺の得意分野だ。人生で一度も役に立ったことはない。
国王。この国で一番偉い人。粗相をやれば縛首もありうる。ただしこちらには「気に食わねば国王だろうと殺す」と伝言済みという実績がある。今さら猫を被っても遅い。取り返しのつかない相手は、順位が下がる。楽でいい。
侯爵が二人と、宰相。偉い。どのくらい偉いのかはさっぱりわからない。俺のやったゲームだと、王様、大臣、以上だぞ。間に何人挟まっているんだこの国は。
ギルドの長。ハンターは眼帯の古強者、商業と傭兵、魔術師のマスターは面識なし。この辺は適当でもいっか。
貴族。噂の発生源。厄介だが、直接は刺してこない。刺してくるのは口だ。
「魔術師ギルドって、あそこの指導員も来るのか」
「指導員は来ないはずだ。マスターだけだ」
助かった。心底、助かった。俺の肩から力が抜けたのが、ドイルにも見えたらしい。眉が片方だけ動いた。
「……なんだ。何かやったのか」
「何もしてないよ! 俺は被害者だ」
被害者である。子作りを提案されて逃げてきただけの、清廉潔白な被害者である。ゼイラは魔法の腕こそ本物で、俺の暴発の原因も二回の実験で切り分けてみせた。おかげで風呂での宿題も続いている。感謝はしている。感謝はしているが、あの人の目が輝いた瞬間の顔は、深夜にやっている低予算ホラーの一番いい場面によく似ている。
まあいい。来ないなら問題ない。世の中には、会わないことでのみ維持される良好な関係というものがある。
「段取りを言う。入場して、宣言を受け、認定証と徽章を受け取る。そのあと条件の読み上げだ。お前さんが出した条件は、そのまま国の記録に載る」
「あの、殺すってやつも載るのか」
「載らん。そこは伝わってはいるが、書かん」
大人の判断である。
書かないが、伝わってはいる。この世界にも議事録の文化があるらしい。
「終わったら祝宴だ。顔つなぎだな」
「行かない」
「一時間で抜けられるように調整しておく」
早い。このハゲは交渉の順番を知っている。断られる前に落とし所を置いてくる。ギルマス譲りのテクニックか。
一時間なら飲める。俺は頷いて、紅茶を一口飲んだ。ドイルも湯気に息を吹いてから、遠慮なく飲み干した。飲み方だけは前線帰りだった。
「あと、これは伝えておく。式典は国内向けだ。他国への公表は追ってになる」
「なんでなんだ?」
「S級は牽制の札だ。札は、出す順番と時機で値が変わる」
なるほど。俺の存在は、国の手札としてもう値付けが済んでいるらしい。ちょっと待ってほしい。俺はまだ、この国の税制すら知らないんだが。
ドイルはそこで立ち上がり、玄関へ向かった。話が終わったら三秒で帰る。このハゲの美点である。
「正装で来い」
「わかった」
門まで送る。ドイルは門柱をくぐったところで、もう一度だけ振り返った。
「本当にわかったか」
「わかった」
この念押しを、俺はこのあと六日と半日ぶん、まるごと無視することになる。
* * *
七日間というのは、案外なにも起きない。
一日目、地球のドラマを一気見した。二日目、その続きを見た。三日目、話が面白くなくなってきたので漫画を大量に召喚した。四日目以降の記憶がない。床に転がったポテトチップスの空き袋だけが、日数の経過を記録している。
オージから「候補を絞っている」という紙が一度届いた。庭の草は、その間ずっと伸びていた。
エルフは来なかった。赤い実を抱えて里へ帰ったままだ。里がどこにあるのかも、連絡の手段も知らない。つまり、こちらから何もできないという、なんとも都合のいい状況である。静かだ。最高に静かだ。……たまに応接室のテーブルの真ん中が妙に広く見えるが、あれは菓子の袋が置かれていないだけの話である。
なお、この七日間で「正装」という単語が俺の頭に浮かんだ回数は、ゼロである。人間の脳というのは、命に関わらない予定から順に捨てていくようにできている。優秀な機能だと思う。今のところは。
七日目の夜、風呂に入った。
湯を出しながら、いつもの宿題をやる。自分の魔力を見る練習だ。針は相変わらず見えない。だが蛇口の感触は前より確かになってきた。ゼイラ先生、生徒は真面目にやっています。真面目にやっているんです。ほかのことは何ひとつやっていません。
髪を拭きながら廊下を歩いていて、足の裏が冷たいのに気づいて、そこで、唐突に思い出した。
――正装で来い。
濡れた髪のまま、寝室のクローゼットを開けた。
中には、フード付きのローブが掛かっている。目立たないための、あの灰色のやつだ。その隣に、部屋着。さらにその隣に、部屋着。あとは肌着と、白いスニーカー。
……以上である。
この家には六億の値札が付いている。庭がある。シャンデリアもある。クローゼットは人が三人立てる広さがある。中身は部屋着二着。空きスペースが広すぎて、扉を閉めると少し反響する。
落ち着け。まだ夜だ。式典は明日の昼。時間はある。
俺には召喚がある。
問題は、何を出すかだ。候補を並べる。
黒いスーツ。……駄目だ。この世界でスーツを着ている人間を見たことがない。喪服と思われて、国王に「喧嘩を売っているのか」と言われたら困る。
タキシード。……スーツと何も変わらない。俺の式典で俺が司会を務めるつもりか。
燕尾服。……ギリギリいけるか? いや、駄目だ。イメージが完全に執事長だ。認定される側が給仕の格好で入場してどうする。
袴。……成人式。二十歳だから年齢だけは合っている。合っているのがまた気持ち悪い。
白いスーツ。……悪者感が凄い。玉座の間で拍手されるより先に、たぶん囲まれる。
甲冑。……俺は誰と戦うつもりなんだ。
どれもピンと来ない。理由は、考えるうちにわかってきた。
地球の礼装は、基本的に「引き算」でできている。黒で、装飾を削って、目立たないようにする。あれは、周りが全員同じ格好をしている前提の服だ。だが、この世界の偉い人たちは、そうじゃない。
アーサーの上品な服には、糸で山が描けそうなほど刺繍が入っていた。ギルマスは黒革の上下だが、あれは服より本人が装飾になっている。貴族連中はもっとひどい。宝石を、体に付けられる限界まで付けてくる。ご近所ですれ違った貴族の襟の飾りは、たしか俺の拳より大きかった。
つまり、地球の正装で行くと、俺だけが引き算の世界から来た人間になる。控えめなのが、この場では逆に浮く。よりひどい場合、誰かの死を悼んでいるように見える。
であれば、方針は決まる。式典っぽくて、装飾があって、それでいて派手すぎない服。
スマホで漁る。通販の写真、映画の衣装、舞台の写真。そして、一着で手が止まった。
黒。詰まった立襟。前は二列のボタンで、襟と袖口に金の線が細く走っている。肩には房のない肩章。丈は膝上まであるコートで、右肩から留める外套まで揃っている。手袋は白。靴は黒。
これだ。
召喚した。手のひらから、布の重みが落ちてくる。
鏡の前で着た。ボタンを上から留めていくと、背筋が勝手に伸びる。服が姿勢を決めてくるタイプの服だ。肩を回してみる。動く。ブーツを履く。踵が硬い音を立てる。白い手袋を引き上げて、指の間まで整える。
……いいじゃないか。
俺の顔は管理者に特別発注した顔だ。金髪、青い目、鼻筋。自分で言うのもなんだが、顔だけは異常に良い。その顔に、この服はよく合った。よく合いすぎて、鏡の中の男が別人に見える。有能そうだ。何ひとつ有能ではないのに、有能そうに見える。詐欺である。
胸のあたりが少し寂しいので、明日もらう徽章はここに付けようと予定まで立てた。準備万端だ。
外套はどうしようか、と少し迷った。羽織るのはやりすぎかもしれない。
だが、この世界の偉い人たちは、だいたい何かを羽織っている。羽織っていないのは俺くらいだ。ならば無い方が浮く。
付けた。
鏡の前で一度だけ、腕を後ろに払って裾を鳴らしてみた。かっこいい。誰も見ていないのでスマホで動画も撮った。一回目は角度が悪かったので撮り直した。二回目のは、我ながらサムネイルにできる出来だった。
準備完了。俺は満足して寝た。
自分の服がこの世界のどこかで何を意味するのか。それを一度も確認しなかったことに、俺はまだ気づいていない。思えば俺は、六億の家も雰囲気で買った男である。
* * *
迎えの馬車に乗り、王城に着いた。王城というのは、外から見上げるものだと思っていた。
中に入ると、まず匂いが変わる。石と、蝋と、油を含ませた布の匂い。次に音だ。俺のブーツの踵が廊下の石に当たって、思っていたより遠くまで響く。天井が高いせいだろう。声は落ちてこないのに、足音だけが返ってくる。喋る人間が少ない場所というのは、こんなふうに足音の建物になるらしい。
そして温度。外は昼の日差しがあったのに、ここは半歩ぶん涼しい。石造りというのは、どこの世界でも夏の味方だ。
門で名前を告げたところから、既に妙だった。
衛兵は俺の顔を見て、それから服を見て、背筋を伸ばした。伸ばしすぎである。背骨が鳴ったんじゃないか。案内に立った侍従は、俺を見て一度口を開いてから、何も言わずに閉じた。それから廊下を歩く間、一度も振り返らなかった。
廊下では貴族らしい人たちとすれ違った。すれ違いざま、会話が止まる。通り過ぎたあとで、また始まる。声の質が変わっている。
注目されているな、と思った。
俺は目立ちたくない人間だが、イケメンとして見つめられるのは話が別だ。今日は服も新しい。二つ揃えば、そりゃ見られるだろう。悪い気はしない。俺の中の一番くだらない部分が、ここで完全に主導権を握った。歩幅まで少し広くなっていた自覚がある。
控えの間の扉が開いた瞬間に、その機嫌は死んだ。
「――お前さん」
オージだった。買い叩かれ窓口の主が、今日は珍しくきちんとした上着を着ている。無精髭はそのままだ。その人が、俺を上から下まで一度見て、それから額を押さえた。
この動作を、俺は今まで何度も見てきた。だが今日のは、いつもの倍くらい深い。
「それ、本気か」
「正装だ」
「誰の正装だ」
誰の、とはどういう意味だ。俺のだ。今朝、俺が着たんだから俺のである。
答える前に、部屋の奥から大股で近づいてくる巨躯があった。ドイルだ。頭が、いつもより白い。照明のせいだと思いたいが、たぶん違う。
「なんつう格好で来やがった」
「正装で来いと言ったろ」
「言った。言ったが、俺は――」
ドイルはそこで言葉を切って、部屋の中をぐるりと見た。誰が聞いているかを確認する目だ。この人がこんな確認をするのを、俺は初めて見た。声を落として、続けた。
「その様式は、まずい」
まずい。
服の話で出てくる単語ではない。「まずい」が使われるのは、料理か、状況のどちらかだ。今のは明らかに後者だった。
人生で服装を注意されたのは、新人の頃に「ネクタイが緩い」と上司に言われた時くらいである。あの時の「まずい」とは、どうやら単位が違うらしい。
「レオ君」
声がした。若い声だ。だが振り向いた先にいたのは、六十代の紳士だった。
アーサーだ。隣人の、元近衛騎士団長。顔に傷ひとつない整った顔と、上品な服の下でもわかる厚い体。この人の声は、いつも実年齢と噛み合っていない。
アーサーは俺の前に立って、まっすぐ服を見た。値踏みの目つきではなかった。医者が傷口を見る時の、確かめる目だ。それから、静かに言った。
「見事な仕立てだ。……それは、どこで作られたのかい?」
「実家の方だ」
「そうか」
アーサーは頷いた。ゆっくり、二回。
俺の胃のあたりが、初めて嫌な感じに冷えた。この人は、頷きに意味を持たせない人だ。頷き方に意味が出るときは、こちらの言葉を何かの証拠として受け取っている。
「もしかして俺は、この服の何がまずいのか、聞いた方がいいのか」
「知らずに着てきたのか」
「知らずに着てきた」
アーサーは一度だけ目を閉じた。それから、教えてくれた。この人はいつも誠実である。誠実であることが、今日はこちらの首を絞めた。
「立襟。前を二列で留める打ち合わせ。房のない肩章。襟と袖口に走る金の線。そして――右肩から掛ける、その丈の外套」
一つずつ、指で示していく。数えられる。数えられるということは、様式が決まっているということだ。
「帝国の、将官の礼装だ」
……。
…………。
五つ数えられた。五つとも当たっていた。宝くじがこの精度で当たっていれば、俺は今頃とんでもない資産家だ。いや、金はあるんだった。持っていないのは常識だけである。
石の廊下で足音が響いていたのを思い出す。あれは俺のブーツの音だった。この服の音である。俺はさっきから、この城の中を、他国の軍人の靴音で歩いていたわけだ。
「もう一つある」
「まだあるの?」
「外套の丈だ。将官のものは腰までだ。膝に届く丈が許されるのは――皇族に、近い者だけだ」
悪いが、少しだけ言わせてほしい。地球の通販サイトは、なぜこの丈を作ったんだ。
舞台衣装だからだ。長い方が映えるからだ。理由はわかる。わかるが、その判断が今、他国の宮廷の格式に一分の隙もなく刺さっている。誰かの美的感覚が、世界を越えて俺を撃った。
考えろ。まだ間に合う。手はあるはずだ。
着替える。……手持ちは灰色のローブと部屋着。式典に部屋着で出る男は、たぶん帝国将官より問題になる。
召喚で別のを出す。……次に出したやつが、今度はどこか別の国の何かだったらどうする。俺は一日で二カ国と揉めることになる。借りる。……この城で、俺の肩幅に合う上着を探す時間があと何分残っている?
脱ぐ。……却下。
手はなかった。
「アーサー。俺は帝国と関係ない。だが、正装はこれしか持ってないんだ。訂正はできるか?」
「できる。だが、今日ではない」
即答だった。
「今日この場で否定すれば、否定したという事実が残る。人は、否定を聞くと、否定するだけの理由があったのだと考える。……レオ君。以前、お話しした時のことを、覚えているかい?」
覚えている。覚えているから、今、思い出したくなかった。
ご近所の挨拶回り。菓子を渡して、庭の話をして、魔法と騎士の体系を教わって、そのついでに、風貌を都会人だと言われて。俺は、話を合わせるためだけに、こう言った。
――帝国の方から来たんだ。
「皇室関係ではない」
「そうか」
アーサーはまた、ゆっくり二回頷いた。
この人が信じているかどうかは、正直わからない。わからないが、一つだけ確かなことがある。俺の手札には、もう否定に使える札が残っていない。
膨大な魔力。無駄に整った顔。使い道のない金。自称・帝国出身。そして本日、帝国将官の礼装で王城に来訪。
一般人であることを証明する材料が、こちらに一枚もない。それどころか全部あちら側の手札になっている。
しかも俺は、この状況を七日かけて用意した。深夜に、鏡の前で、ポーズまで取って。証拠の動画は今も俺のスマホに入っている。
肩を叩かれた。振り向くと、ゼイラがいた。
「あら、やっぱりレオじゃない。久しぶりね」
「……指導員は来ないと聞いたんだが」
「マスターは他国に外出中よ。代理よ、代理。多分レオのことだと思って、進んで来たの」
代理は却下されるんじゃなかったのか。この国の代理制度は、俺にだけ厳しい。ゼイラは俺の前まで来て、上から下まで一度見て、それから完全に興味を失った顔で言った。
「それより魔力の感知はどうなの?」
「……少しは、わかるようになってきた」
「本当? じゃあ今ここで出してみて。ちょっとだけ。城が半分になる程度でいいから」
この人だけが、俺の服を一度も問題にしなかった。
部屋の空気が、そこで少し緩んだ。緩んだというより、全員が「あの女には近づくまい」の側へ一斉に回った、という感じの緩み方だった。城を半分にする話を聞いた直後に安心できる人間は、この国にはまだいないらしい。
「ゼイラ先生」
「なあに」
「あとで、この服の話を誰かに聞かれたら、『よく似合っていた』とだけ答えてくれ」
「ええ、いいわよ。似合っているもの。ところで子作りの件は考えてくれた?」
この人は本当に、こちらの一番助かる言葉と一番困る言葉を、同じ息で言う。
* * *
扉が開いて、名前を呼ばれた。
玉座の間は、天井から光が落ちる作りになっていた。高い窓が並んでいて、そこから入った日差しが、床の石を細長く切り分けている。絨毯は深い赤で、俺の足音を全部吸い込んだ。さっきまで響いていたブーツの音が、急に消える。音がなくなると、視線の数がよくわかる。
左右に人が並んでいる。痩身の男が宰相だろう。偉そうな雰囲気のおじさんが二人。細かそうなおじさんと、たぶん近衛騎士団長。この人は鎧を着ていて、俺が入ってきた瞬間から一度も瞬きをしていない。目が乾かないのか。眼帯のギルマスと目が合った。ほんのわずかに顎を引いた。挨拶と受け取っておく。貴族たちは驚いた顔をしていたが、揃って口を閉じていた。
誰も、咳ひとつしない。
この静けさには覚えがある。管理者の空間だ。あそこも音がなかった。違いは、あの時は音そのものが無かったのに対し、ここは全員が音を出さないようにしていることだ。人間が作る無音は、無音より重い。
正面に、玉座。
国王は思っていたより若かった。四十代。金の装飾を背負っているが、体つきは戦う人のものではない。目はまっすぐ俺を見ようとしているが、どこか違和感がある。この人、俺を怖がっているのではないか。
当たり前だ。この人の耳には、俺の伝言が届いている。気に食わなければ国王だろうと殺す。あれを言ったのは俺で、伝えろと指定したのも俺だ。自分で撒いたものだから文句は言えない。
その上で今日、俺は他国の将官の格好で入ってきた。完全に頭がおかしい奴が来たと思われていても仕方ない。
宰相が羊皮紙を広げ、読み上げを始めた。
ダンジョンの発見。氾濫の阻止。国への功。声はよく通る。内容は、俺の記憶とだいぶ違う。俺の記憶では、俺は森で穴を見つけて鉄板で塞いだだけだ。文書というのは、こうやって人を偉くする。
「――以上により、レオナルドを、S級ハンターとして認定する」
言葉が落ちて、少し間があった。拍手が起きなかったのだ。
誰かが手を打つのを待って、全員が待った。数秒あって、貴族の誰かが遅れて打ち、そこからばらばらに広がって、揃わないまま終わった。祝いの席で音が揃わないのは、たぶん良くない兆候である。
侍従が盆を運んできた。認定証と、徽章。
徽章は銀だった。掌に収まる大きさで、剣を握った獅子の図案。思っていたより重い。金属の重さというより、これを作るのに国が何ヶ月かけたかの重さだ。俺はそれを、昨夜の予定通り、胸の左に付けた。
予定通りに事が運ぶと、人は嬉しい。
控えの間の方から、オージが息を吸う音がした。銀の徽章は、黒地に金の線が走る立襟の礼装に、あつらえたようにぴたりと収まっていた。似合っていたと思う。似合ってしまった、とも言う。
「本認定に伴う待遇は、一代限りの子爵に相当する。加えて、年ごとの下賜がある」
金額が読み上げられた。俺の口座に残っている額より、二桁ほど下だった。有り難い。有り難いと思えない自分の金銭感覚については、犯人が自分自身なので国に文句はない。
それより、子爵相当という単語が引っかかる。あれは招待状が届く身分ということだ。俺の平穏に、また一つ穴が開いた。
「強制依頼は、国防に限る。また、他国のS級ハンターとの調整ごとは国防に含む。それ以外の依頼を、国が本人に命じることはない。以上を、記録に残す」
俺が出した条件が、そのまま読み上げられた。ギルマスは約束を守る人だった。あの人の汗一滴は、ちゃんと国の記録まで届いていた。
安心して、俺は頷いた。
「ありがたい。約束は守る」
それだけ言った。礼儀のある相手には礼儀を返す。それが俺の主義だ。相手が国王でも変わらない。この短い返答が、どうやら良くなかったらしい。
部屋の空気が、また一段静かになった。近衛騎士団長の指が、鎧の脇でわずかに動いた。宰相が羊皮紙をもう一度見た。読み上げるところは、もう残っていないはずなのに。
言われてみればそうか。この場の人々にとって、国王の言葉に「ありがたい」と評価を返すのは、下から上への感謝ではない。上から下への承認に聞こえるのだ。
日本語は難しい。いや、俺が喋っているのはこの世界の言葉だった。難しいのは日本語ではなく、俺である。
国王が、玉座から一歩だけ前に出た。
近い。護衛が動きかけて、止まった。国王が手で止めたからだ。この人は気が小さいと思ったが、それは正しくて、正しいまま勇気を出す人でもあるらしい。声を落として、俺にだけ聞こえる高さで、こう言った。
「レオナルドよ。……帝国との関わりについては、我が国から問うことはせぬ」
――は。
「そなたがどのような立場でこの国に在るのか。それを、こちらが察していると、思ってくれてよい。我が国は、そなたの平穏を乱さぬ」
……。
…………。
言葉は全部聞こえた。単語も全部知っている。なのに意味が一つも入ってこない。外国語のリスニング試験で、最後の一問だけ急に早口になるあの感じだ。
乱さないでほしいのは本当だ。そこだけは百パーセント同意する。
だが、それ以外の部分がまるごと意味不明だった。俺がどのような立場でこの国に在るのか。俺の立場は無職。収入源は召喚した金塊。住所は貴族街。身分は本日付けで一代限りの子爵相当。趣味は引きこもり。
これを察していると言われても、こちらとしては「ええ、まあ」以外に返しようがない。
ここで否定すればいい、と頭ではわかっていた。
「帝国とは何の関係もありません」。一秒で済む。文字数にすると……いや、数えている場合ではない。
だが、目の前の国王は、化け物とも変人ともつかない相手に、震える声で精一杯の配慮を差し出していた。この人は、自分より強い相手に、譲れるものを全部並べて見せている。緩衝地帯の国を背負って、そうやって生きてきた人の顔だった。
……ああ、そうか。
俺には一つだけ、崩したことのない主義がある。礼儀のある相手には、礼儀で返す。無礼な奴には容赦しないし、たかってくる兵士には首も飛ばすが、こちらに礼を尽くしてきた相手には、必ず礼で応じる。この世界に来てから、その線だけは一度も踏み外していない。
その主義が、今、俺の口を塞いでいた。
差し出された配慮を「勘違いです」と払いのけるのは、礼を礼で返さないということだ。俺は無礼な相手にはいくらでも強く出られるが、丁寧な相手にはめっぽう弱い。しかもこの服を着たまま言うのだから、説得力はゼロどころかマイナス、むしろ自白に近い。
城ひとつ焼ける魔力があって、首を落とす魔法があって、それでも断れない。強さというのは、こういう場面で一切役に立たない。
「……お心遣い、感謝します」
負けた。丁寧に、深く、負けた。
言った瞬間、部屋の端で誰かが息を漏らした。国王の肩から力が抜けた。宰相と偉い人たちが、目だけで何かを確認し合った。細い方の人が小さく頷いた。近衛騎士団長は、ようやく瞬きをした。瞬き一回に、この国の何かがぶら下がっていたらしい。
後ろは、振り返らなかった。
振り返ると、見なければよかったと思う顔が並んでいる。そういう気配だけが、部屋の斜め後ろから伝わってきていた。
* * *
祝宴は、一時間で抜けた。
ドイルは本当に調整していた。俺がグラスを置いて三歩歩いた時には、もう扉の前に立って道を作っていた。仕事のできる人が本気を出すと、こういう静かな形になる。その一時間で起きたことを、簡単に報告しておく。
貴族たちは、基本的に俺の周り一メートルに近づかなかった。囲まれるのを覚悟していたので、これは助かった。遠くから見て、こちらが目を向けると会話に戻る。動物園の順路が逆になったような時間だった。眺められているのは俺の方である。
オージは料理の皿を持って隣に来て、「牽制札の値がまた上がったな」と言った。何の話かは聞かなかった。このヒゲはいつも、俺が知らないところで俺の値段を計算している。
ゼイラは、城のシャンデリアを見上げて「あれを落とす魔法の方が難しいのよ」と言った。そして子作りの話をもう一度した。断った。
アーサーは、俺の左隣に立って、話しかけようとしてくる人に一人ずつ丁寧な受け答えをしていた。あとで気づいたのだが、あれは盾である。この人は元近衛騎士だ。誰かの前に立つのが体に染みついている。守る相手を間違えていると思う。
各ギルドの代表者達は簡単に挨拶してくれた。生産ギルドとか、聞いたことがないギルドもあったが一人一分も会話していない。顔も名前も覚えられない。まぁ敵じゃないからいいか。
教会からも人が来ていた。メルキオールだけ熱意の違う挨拶をしてきたが、目が怖いから手であっち行けと追っ払ったら見たことがないくらいの笑顔で立ち去っていった。笑顔が怖いとかもう意味がわからない。
まともに口をきいてくれたのは、給仕の少年だけだった。皿を替えにきたついでに「お飲み物は」と聞いてくれた。今日一番人間らしい会話だった。チップを渡した。俺が人を大事にする方法は、いつでもこれである。
アレスはいなかった。A級までは呼ばれないらしい。国の式典に呼ぶ線は、どこかで引かなければならないのだろう。その線の一段上に俺が乗っていることが、いまだに納得できない。少し前まで、生涯Dランクで通すと言っていた人間なんだが。
そして、帰り道。
馬車の窓から、王都の夕方が流れていった。市場の呼び込み、荷馬車、洗濯物。俺の生活のある方向だ。城の中の静けさは、この音がある場所からたった三十分の距離にある。
俺は徽章を外して、掌の上で転がした。銀は、思ったより早く体温を吸う。
* * *
同じ頃、王城。玉座の間から一つ扉を隔てた小部屋には、椅子が六つしかなかった。
もともと式典の合間に王が休むための部屋である。急に人が集まったせいで、内務大臣と近衛騎士団長は立ったままだ。窓は閉め切られ、蝋の匂いがこもっている。暖炉には昨夜の灰がそのまま残っていた。壁際の水差しに、誰も手を伸ばさない。
隣の広間からは、まだ祝宴のざわめきが届いている。壁一枚を通ると、人の笑い声は水の音に似る。この国の中枢六人が、今から一着の服について話し合う。
「――あの装いを、どう見る」
最初に口を開いたのは筆頭侯爵だった。座ったまま、膝に肘を置いている。
「近衛騎士団長。答えろ。お前は本職だ」
「はっ」
団長は一歩前に出て、懐から一枚の紙を取り出した。式典のあいだ、瞬き一つせずレオを見ていた男である。見ていただけではなかったらしい。紙には、襟と肩と裾が、記憶だけで描き起こされていた。
「立襟、二列の打ち合わせ、房のない肩章、襟と袖口の金線。帝国軍の、将官の礼装と一致します。仕立てに乱れはなく、汚れもない。……新品でした」
「新品」
「はい。皺の一本もございません。おろしたてかと」
誰も、それを笑わなかった。
この部屋の全員が、同じ一つのことを考えていた。他国の式典に、おろしたての将官礼装を着てくる人間が、いったい何着それを持っているのか。
「そして、縫いが違います。我が国のどの工房のものでもありません。糸目が細く、裏の始末が見たことのない手順で――正直に申し上げれば、私には作れる者が思い浮かびません」
宰相が眉間を押した。
「帝国の宮廷工房、ということか」
「そう考えるのが、最も自然です」
部屋の空気が、一段沈んだ。
外套の丈について、団長は最後に付け加えた。声を落とす必要はなかったが、落とした。
「あの丈は、将官のものではありません。皇族に近い者にのみ許される丈です」
誰も言葉を継がなかった。隣の広間で、誰かが杯を落とした音がした。筆頭侯爵が、部屋をぐるりと見回して言った。
「たかが服だ、と言える者はおらぬのか」
誰も手を挙げなかった。挙げられるはずがない。この部屋にいるのは、生まれてこのかた、襟の形と裾の丈で人の身分を読んで生きてきた人間ばかりである。
「ベルギウス卿」
国王が名を呼んだ。呼ばれたアーサーは、部屋の隅の椅子から立ち上がった。今日この場に呼ばれた理由は一つしかない。この国で唯一、あの男と隣同士で暮らしている人間である。
「先の会議で、卿は言ったな。あの者は自ら『帝国の方から来た』と口にした。間者ならば、まず隠すところを隠さぬ。ゆえに間者ではない、と」
「申しました」
「今も、そう思うか」
アーサーは、答えるまでにわずかな間を置いた。老いた騎士が言葉を選ぶ間である。
「……間者ではない、という見立ては変えておりません。ただ、あの言葉の読み方を、私は誤っていたかもしれません」
宰相の手が止まった。
「隠さぬのは、隠す必要がないからだ――と、そう聞こえてまいります」
誰も何も言わなかった。同じ証言が、今日、まるごと裏返ったのだ。前の会議で「危険はない」の根拠だったものが、いまは「立場がある」の根拠として同じ部屋に置かれている。事実は一つも増えていない。増えたのは、服が一着だけである。
「本日、あの礼装をどこで作らせたのかとお尋ねしました」
「答えは」
「『実家の方だ』と」
沈黙が、さっきより長く続いた。壁の向こうの笑い声だけが、間を埋めていく。
アーサーは、そこで一度だけ息を置いてから続けた。誠実な人間は、都合の悪い事実も同じ順番で並べる。
「なお、本日『俺は帝国と関係がない』とご本人が仰いました。それも申し上げておかねばなりません。……そして、これは私の私見になりますが」
アーサーは、部屋の全員を一度見た。
「あの方は、本当に何もご存知ないのかもしれません。我らが襟の形で身分を読むように、あの方も読むとは限りません」
部屋の全員が、その言葉を検討した。実際に、数秒の間があった。この国で唯一の正解が、この数秒だけ、部屋の真ん中に置かれた。
そして、筆頭侯爵が笑いで終わらせた。
「一国を滅ぼす力を持つ男が、何も知らずに、他国の皇族の装いで、他国の式典に参ると? 卿はそれを、恐ろしくないと言うのか」
「恐ろしくないとは申しておりません。ただ――」
「同じことだ。知って来たならば威圧。知らずに来たならば、その無邪気さのほうがよほど始末が悪い」
アーサーは口を閉じた。言い返す言葉は持っていて、この部屋では通らないと知っている顔だった。次席侯爵が、そこで初めて口を開いた。
「私は、丈のほうが気になります。将官の礼装であれば、まだ武の誇示で済む。皇族の丈を纏うということは――当代の帝国が、あの者を身内として扱っていることになりませんか」
「そこまで読むか」
「読まねばならぬ立場です。あの者は、ひ孫の代まで生きて我が国に居続けるのですぞ」
冗談で他国の宮廷装を纏う者がおるか、と宰相が低く言った。否定は、否定するだけの必要があるときにするものだ、とも。
内務大臣が、そこで実務に話を戻した。
「陛下。S級認定の他国への公表について、順序を決めねばなりません。本来であれば、四カ国へ同時に。しかし本日の件を踏まえますと――帝国へ、いつ、どう伝えるかが問題になります」
「探りを入れるか」
筆頭侯爵が身を乗り出す。内務大臣は首を横に振った。
「密使を出せば、こちらが気づいたと知らせることになります。あの装いは、我が国の反応を測るための試しかもしれません」
「あるいは、こちらへの手土産か」
国王が、そこで議論を切った。
「どちらでもよい」
声は、震えていなかった。
「私はあの者に告げた。帝国との関わりについては、我が国から問わぬと。……恐ろしさに任せて口にしたのではないぞ。あの者は、こちらが差し出したものだけを受け取って、余計なことを何ひとつ言わなかった。ありがたい、と言っただけだ。あれは――受け取る側に慣れた者の返答だ」
誰も、否定しなかった。国王は水差しに目をやって、やはり手を伸ばさなかった。
「問わぬと言った。ならば問うな。密使も出さぬ。あの者がこの国に住み、この国の徽章を胸に付けている。それだけで、札としては十分に過ぎる」
「他国への公表は」
「順序は追って決める。急ぐ必要はない。……札は、握っている間だけ値が上がるものだ」
宰相が羊皮紙を巻き、紐で結んだ。
この会議で決まったことは、結局のところ二つしかない。何も問わない。何も動かさない。国の中枢が六人集まって半刻を使い、決定事項は「今後も何もしない」である。立ち上がりかけた宰相が、最後に一つだけ確認するように呟いた。
「陛下。あの者の言う『実家』とは、どこを指すのでしょうな」
国王は答えなかった。答えないことに決めた、というのが、この部屋の総意だった。
* * *
家に帰り、外套を外し、ブーツを脱ぎ、手袋を引き抜いて、ようやく息を吐いた。
服を脱いで、ハンガーに掛ける。皺が寄っていないか確認して、クローゼットの、部屋着二着の隣に掛けた。この家で一番高価な布が、今日から部屋着の隣に住むことになった。
紅茶を淹れて、ソファに沈む。庭の草が、夕方の風で揺れていた。
今日の総括をする。
式典は済んだ。俺はS級になった。強制依頼は国防だけ。あとは他国のS級が悪さをしたら追い返せというやつもあったが、あれはどうせ起こらない。それ以外は来ない。目的はほぼ全部達成された。おまけに一代限りの子爵相当という余計なものが付いたが、招待状は燃やせばいい。
そして、服だ。
様式については、まあ、大変な失敗だった。それは認める。認めるが、収穫を数えるなら一つある。
あれは、好評だった。
城の全員が俺の服を見た。廊下ですれ違った貴族も、衛兵も、侍従も、みんな一度は視線を落とした。ゼイラ先生には「似合っている」と明言までもらった。誰ひとり「素敵ですね」と言ってこなかったのは、たぶんこの国の礼儀作法では他人の服を褒めるのが失礼にあたるからで、視線の数がその代わりということだろう。文化の違いというのは面白いものだ。
……ということにしておく。今日の俺には、それくらいの慰めがあってもいい。ただ、一つだけ、本当に引っかかっていることがある。
まずいのは様式だ、とドイルは言った。帝国の将官の礼装で、外套の丈は皇族に近い者にだけ許される、とアーサーは言った。
俺は、あの一着しか持っていない。次に城へ呼ばれたら、また同じものを着ることになる。同じ服で行けば、あれが俺の正装だという意味になる。
なら、別のを買えばいい。そう思って、少し考えて、やめた。
もし俺が明日、同じ様式の色違いを何着も出したら――それは「今日のは間違いでした」ではなく、「こちらの様式で通します」という宣言になる。この世界の人々は、服のよくわからない形状に意味を見出す人たちだ。増やすのは、たぶん、もっとまずい。
であれば、答えは一つしかない。
この一着を、大事に着る。
クローゼットの扉を閉める。中では今、灰色のローブと、部屋着二着と、他国の皇族が同居している。今日一日で俺が手に入れたものは、銀の徽章と、一代限りの身分と、脱ぐタイミングを永久に失った服である。
紅茶が冷める前に飲み干して、俺は決めた。いつか本物の皇族と鉢合わせることがあったら、その時は顔で勝つ。
あと、式典にはもう二度と出ない。




