第三十二話 嫌がらせのつもりだったのですが?
朝は、天井を眺めるところから始まる。
宿の天井でも、星が並んだ真っ暗な空間でもない。自分の家の天井だ。誰にも起こされず、誰の用事も持ち込まれない。窓の隙間から入ってくる空気はまだ冷たくて、庭の草が夜露で湿った匂いがする。遠くで荷馬車が石畳を鳴らしているが、塀が高いおかげで音は薄い。完璧だ。この静けさに白金貨六枚。むしろ安い買い物だったと思う。
完璧なのだが、今日は外に出なければならない。
使用人の件が残っているのだ。オージに「決まったら頼みに行く」と言ったきり、決めないまま日々が過ぎていた。掃除も洗濯も、放っておいて解決した試しがない。クリーンの魔法さえあれば人類は誰とも関わらずに生きていけたのに、この世界の作成者はそこだけ実装を忘れたらしい。
風呂に入り、湯を出しながら魔力の様子を確かめる。針は、まだ見えない。だが「何か出ている」の、その何かが、以前より少しだけ形を持ってきた気がする。蛇口をひねる感触に近い。ゼイラ先生、今日も宿題は継続中です。もう二度と会うことはない先生に感謝を告げる。会わないよな……?
商業ギルドは相変わらず、役所と銀行と市場を無理やり同じ袋に詰めた顔をしていた。吹き抜けの天井に人の声が反響して、どの窓口も長い列ができている。ダンジョンの一件以来、この建物の熱がひとつ上がったままだ。
その熱の中で、オージの窓口だけが今日も見事に閑古鳥だった。買い叩かれ窓口。世界が変わっても、扱う商品が「泣く泣く売りに来た品」である限り、ここに行列はできない。オージは頬杖をついて、暇そうに紙束の角を折っている。
「よう。S級」
折りかけの紙から顔を上げもしないで、そう言った。無精髭の下で、口の端だけが持ち上がっている。
「何でもう知ってるんだ。今は条件確認待ちだ」
「一部の者だけが聞かされている。有名になってもうちを贔屓してくれよ」
「やだよ。俺は引きこもるって決めてるんだ。それで、メイドの件を片付けにきた」
「ようやくか。で、何人だ。執事とメイド長は決まりとして――」
「一人だ。週に一度、掃除と洗濯だけ」
オージの手が止まった。値踏みの目でもなく、呆れの目でもなく、単純に聞き間違いを疑う目だ。
「貴族街の家だぞ」
「うん」
「庭がある家だぞ」
「あの庭、草しか生えてない」
「門番は」
「いらない」
オージが指を三本立てたまま、その手をゆっくり下ろして、額を押さえた。数えるつもりで挙げた指が、行き場をなくした形である。この人はいつも、俺の話を聞くと額を押さえる。頭痛の原因が対面に座っているという構図には、そろそろ慣れてほしい。
だが、こちらにも理屈がある。人が家にいるのが嫌なのだ。家というのは、他人がいないから家なのであって、誰かが常駐した瞬間にそこは職場になる。俺は職場を六億で買った覚えはない。門番については、そもそも塀を越えて入ってくるような命知らずが来たとして、門番がいたところで気の毒になるだけだ。増えるのは俺の仕事ではなく、埋める穴の数である。
「まぁ、お前さんならそう言うと思ったがな。掃除だけの通いなら手配できる。ただ言っておくが、通いの使用人ってのは主人の格を見て決める。今はまだ非公表だからDランクの新人の家に来たがる奴は、そう多くはないんだが……」
言いかけて、オージが自分の言葉を途中で拾い直した。眉が寄って、手元の紙束を今度は真面目な手つきでめくり始める。何かを探している。やがて一枚を引き抜き、指で滑らせて俺の前に置いた。
名前が、びっしり並んでいる。
「なんだこれ」
「希望者だ。お前さんの家の話を出した途端に、この有様だ」
指で追って数えたら、二十人を超えたあたりで数えるのが面倒になった。俺は一言も募集をかけていないんだが。
「王都、そんなに人手が余ってるのか」
「余ってねぇよ」
オージが鼻で笑って、紙の端を指の背で弾いた。まぁいい。理由はどうあれ、選び放題なのは助かる。人気があるのは家か、それとも貴族街の立地か。どちらにしても俺の与り知らないところで需要が発生している。世の中、探せば仕事はあるものだな。
「条件は前に言った通りでいいか。美人で、一年分を前払いで」
「その一言さえなけりゃ、いい客なんだがなぁ、お前さんは」
オージが天を仰いだ。それから椅子の背に体重を預けて、丸太みたいな腕を組む。説教の姿勢である。
「まず覚悟はできているか? 貴族街にくる美人メイドは何を求めていると思う?」
「掃除と洗濯」
「側室だ」
組んだ腕がほどけて、指が一本立った。
「毎日毎日アピールしてくるが、手を出したらもう負けだ。その条件でよいのか?」
「手を出さなきゃいい話だろ」
「断り続けた場合も、順番が決まってるんだよ。まず女が拗ねる。次に外で喋る。『あの家の主人はどうにも変わり者でしてね』ってな。貴族街の噂ってのは減らねぇ。増える一方だ」
手を出せば負け、断れば噂。どちらに転んでも面倒になるよう設計されているらしい。だが、こっちには第三の道がある。
「アピールされても気づかなきゃいいだろ。週に一度すれ違うだけの相手だぞ。俺は眺めるだけだ」
「……眺めるだけ、な」
「そうだ」
「余計たちが悪いわ」
失礼な。こっちは真剣に生活の質の話をしている。週に一度しか他人と顔を合わせない生活で、その唯一の一度が美人であるかどうかは、一年分の幸福度を左右する重大な設計事項だ。効率の話である。
とはいえ、最低限の仕事で雇うというのにグイグイ来られるのは勘弁だ。噂のほうはもう手遅れな気もするが、こちらから増やしてやる必要もない。
「そういう狙いで来る奴は、先に弾けるのか?」
「弾けるかは確認しておく。だが、それなら美人という条件を外した方が早いぞ」
「それは譲れない。基本放置だけど、たまにすれ違った時に美人だと得した感じがするだろ」
オージが何か言おうとして口を開き、そのまま数秒止まってから、閉じた。反論の材料を探して、見つからなかった顔である。
「……まぁ、言ってることを理解出来ない訳ではないな」
オージよ。素直になりなさい。美人は凄いんだぞ。何が凄いかは説明できないけど。
「まぁ面接をしてみるさ。お前さんも出るか?」
「いや、任せるよ。美人以外が来たら、オージの美的感覚を二十年は馬鹿にするから覚悟しとけよ」
「いや、待て! うーん」
組んだ腕の指が、肘を二回叩いた。さっきまでの伝法な調子が、急に慎重になっている。
「……まぁ大丈夫だと思うが、念の為にほかの者にも確認させよう」
大丈夫か少し不安になるけど、そもそも美人だったらいいなくらいで、おばあちゃんが来ても問題なかった。面白そうだからこのままにしとこう。
結局、契約の条件は「素行が確かで、口の堅い者」に落ち着いた。美人については、最後まで「善処する」だった。社会人の「善処する」は諦めろの婉曲表現だが、まぁいい。前払いの金貨を預け、手続きは全部丸投げする。金で解決できる面倒は、金で解決するに限る。
「あとひとつ、いいか。S級の話が正式に決まったら、国から人が来るんだろ。書類とか、挨拶とか」
「来るだろうな。書類も、挨拶も、たかりも来る」
「それ、まとめてそっちで受けてくれ。金は出す」
書きかけの手が、紙の途中で止まった。
顔は上げない。上げないまま、目だけがこちらに動いた。値踏みの目だ。金塊をカウンターに置いた日に一瞬だけ見せたのと、同じ種類の目である。
「……この国で初のS級様が、通いのメイド一人と、門番なしか」
「ちょうどいいだろ」
「ちょうどいい、とはな」
それも一拍だけだった。次にはもう無精髭を掻いて、気だるげな声に戻っている。
「いいぜ。うちが窓口になっといてやる。そのかわり、面倒の分は手数料を取るぞ」
「取れよ。金で終わるなら、それが一番安い」
この人はおそらく、俺について何か気づいている。気づいた上で、聞かないでいてくれる。
こういう相手は大事にしたほうがいい。ちなみに俺が人を大事にする方法は、チップを増やすことである。
* * *
昼過ぎ。ソファで寝転がってポテトチップスを食っていた。
午前中に用事をひとつ潰した人間には、これくらいの権利がある。塩味の一番でかい袋を召喚して、片手でつまみながら、地球のドラマをキャッシュで眺める。カーテンの隙間から午後の光が斜めに入って、埃がゆっくり泳いでいる。何もしない時間というのは、こんなにも贅沢だったのか。日本にいた頃の俺に見せてやりたい。
インターホンが鳴った。
画面の中に、赤い髪と、金の髪。アレスとリーシュだ。俺のインターホン、稼働三回目。防犯装置としての勝率は、いまだゼロである。
しかも今日のアレスは、顔が半分死んでいる。肩の位置が普段より指二本ぶん低い。何かあったな。何かあったときに真っ先にうちに来るのはやめてほしい。俺の家は駆け込み寺ではない。
その隣でリーシュは、レンズの正体を理解していない顔でカメラに顔を寄せる。面白いからこのまま見ていたい気持ちを堪えて迎えに出る。
「よう。上がっていいか」
「レオ! 昨日ぶり!」
昨日は会っていない。この子の暦は俺の暦と互換性がないらしい。
門を開けて応接室に通す。アレスは椅子に座るというより、腰から落ちるようにして座り、そのまま大きなため息をついた。
「ダンジョンの五階に行ってきた」
「へえ」
「バジリスクってのが出た。目を見たら石になるやつだ。イーサが両目を潰して、全員でなんとか押し切った。クロイは肋を折った」
「へえ」
「六階を覗いたら、ワイバーンが雑魚として飛んでた」
「へえ」
三回目の「へえ」で、アレスの眉が下がった。恨めしそうな目でこっちを見て、それから諦めた顔で背もたれに沈む。悪いが、俺の中でダンジョンは「入らない場所」に分類されている。五階の話をされても、四十階の話をされても、俺の生活に影響がない以上、感想は同じ濃度になる。
というか、石化という事象は道理に合わない。人間が石になるはずは無い。構造的にありえない。だとすると、信じられないくらい硬化するところまで、ということか? しかしそれを石と間違うことはない。まだこの世界に、俺が見落としているルールがあるのか? そのルールを把握できれば、クリーンの魔法も可能にできるかもしれない。
と、思ったがメイドの依頼を出したからわざわざ解く必要もないな。
しかし、アレスは達成したことより残った課題の方を持って帰ってくる。真面目な奴の損なところである。
「相談があってな。空飛ぶ相手をどうするか、知恵を貸してくれ」
「落とせばいいんじゃないか」
「それができりゃ苦労しないんだよ! こっちは今日、全員休養日だぞ。ダンジョンで魔力を使い尽くして、ヘロヘロになりながら帰ってきたんだ!」
アレスが吠える。ほら見ろ、元気じゃないか。
その隣で、リーシュはさっきから一言も戦闘の話をしていない。俺の応接室を我が家のような顔で見回し、脚を組み替え、そして――俺がテーブルに置いていたポテトチップスの袋に、当たり前の手つきで指を突っ込んだ。
「あ」
「ん? これ、美味しいな」
美味しいな、じゃない。
俺は一線を引いたはずだった。柄にもなく真顔まで作って、婉曲表現を一切使わず、一人でいることが好きだと言った。それが「努力する」で返ってきて、数日後には押しかけられて、今日は俺の菓子を食っている。この子の中で俺の言葉は、一度エルフ語に翻訳されてから、もう一度別の言語に翻訳されて届いているんじゃないだろうか。
というか俺は今朝、側室狙いの女を先に弾けるかどうか、真顔で相談していたんだった。その数時間後に、求婚済みの女が我が家のソファで俺の菓子を食っている。審査するべき相手は、とっくに内側にいたわけだ。
オージが額を押さえるべきだったのは、俺の条件ではなく、俺の現状のほうだったと思う。
……よし。
人には向き不向きがある。俺は説得が向いていない。だが、地球という星には、言葉より雄弁な物がいくつも存在する。
俺は席を立ち、コピー召喚を二回使った。手のひらに現れたのは、赤い袋。全体が炎の絵柄で埋め尽くされ、大きな文字で「激辛」と書いてある。地球の輸入品店で、誰が買うのか疑問に思っていた乾燥ハバネロ。そしてエルフの嫌いな牛乳。
「ほら、飲み物だ」
コップを置いた瞬間、リーシュが指先で三センチだけ押し返した。眉間に皺が寄っている。菓子は勝手に食うのに、こっちは検分するのか。
「……エルフはミルクを飲まない! ちゃんと覚えといて!」
「そうだったのか。んじゃ、これ飲んだら銀貨一枚な」
リーシュは頭の上に疑問符を浮かべたまま、うなずいた。取引の内容を理解しないまま握手する人間の顔である。
「そっちが好きなら、こっちも食ってみるといい。大人の味だ」
「大人の味!」
リーシュの目が輝き、耳の先がぴくりと持ち上がった。この単語に反応するあたり、精神年齢がだいたい見えてくる。
言っておくが、これは嫌がらせである。人の家に押しかけて人の菓子を勝手に食う女が、口から火を噴いて涙目で退散する。それだけの、ささやかな仕返しだ。悪いのは向こうだ。俺は悪くない。
リーシュが一つつまみ上げ、光に透かすように眺めてから、口に放り込んだ。
「……ん。味がしないな」
「三秒待て」
辛味というのは遅れて来る。特にこの手のものは、最初の一秒だけ品よく黙っている。
三秒後。リーシュの耳の先が、根元から尖端まで一気に赤くなった。
「――ッ!?」
声にならない声が出た。エルフの美貌が音を立てて崩壊する。目が見開かれ、そこに涙が盛り上がり、鼻の頭に汗の粒が浮く。両手がテーブルを叩いて、皿とコップが跳ねた。長い耳が、犬みたいにぺたりと伏せる。アレスが「うわっ、なんだ!?」と椅子ごと後ろに下がった。
効いた。効いてしまった。想定の三倍は効いている。
「みっ、ずっ、水!」
「ミルクしかないな。代金は銀貨一枚だ」
リーシュはコップを見て、それから俺を見て、またコップに戻って、涙をぼろぼろこぼしながら、それでも顎を上げてはっきりと言った。
「エルフは、ミルクを、飲まない!」
「今それを言い張る場面か?」
プライドの置きどころがおかしい。口の中が燃えているのに、種族の食文化だけは死守するのか。
結局この子は五秒も持たずにコップを両手で掴み、牛乳をがぶ飲みして、五分ほど床に近い高さでうずくまっていた。飲み干したあとで「これは水だ」と言い張ったのが、この日いちばん哀れだった。アレスがおろおろと背中をさすっている。俺は満足だった。ざまぁみろ。二度と人の菓子に指を突っ込むな。
そこまでは、俺の計画通りだったのだ。
落ち着いたリーシュが、床に座り込んだまま、ふいに黙った。
自分の胸のあたりに手を当てて、じっと動かない。濡れた睫毛を拭うことも忘れている。さっきまでの阿鼻叫喚が嘘のように、部屋が静かになる。紅茶の湯気だけが、まっすぐ立ち上っていた。
「……変だ」
「そりゃ変だろう。辛いんだから」
「そうじゃない」
リーシュが手のひらを開いて、握って、また開いた。握力を確かめる仕草に見えたが、たぶん確かめているのは中身の方だ。それから顔を上げた。涙で睫毛が濡れたまま、目だけが真剣だった。
「魔力が、回復している」
アレスの動きが止まった。それから椅子を蹴るようにして立ち上がった。倒れた椅子が絨毯の上に鈍い音を落とす。あの陽気な男の顔から、表情という表情が抜け落ちていた。
「リーシュ。もう一回言ってくれ」
「魔力が、戻っている。少しだが、確実に。……エルフは毎晩、気を失うまで魔力を空にする。空っぽの感触に一番慣れているのは私達だ。器が空に近いほど、足された分は目立つ。昨日はその上でダンジョンだぞ。今の私は、底が見えていた」
部屋の温度が変わった。俺だけが、この温度変化についていけていない。
魔力が回復した。それの何がそんなに重大なんだ。腹が減ったから飯を食った、程度の話に聞こえるんだが。
「なぁ。魔力ってのは、そんなに驚くことか」
アレスが、こちらを振り向いた。呆れているのでも、笑っているのでもない。何かを言う前に、一度息を整える顔だった。
「レオ。この大陸に、魔力を回復させる手段は無い」
「無い?」
「無い。薬も、道具も、魔法もだ。使った魔力は、寝て、休んで、戻るのを待つ。それしかない。三百年、誰も見つけていない」
――ああ。
そこで、ようやく話の重さが背骨に届いた。
俺は魔力に不自由したことが一度もない。蛇口をひねれば出るし、ひねりすぎて人を怖がらせるくらいには出る。だから頭からすっぽり抜けていた。この世界の人間にとって魔力は、井戸の水と同じなのだ。汲めば減る。減ったら、溜まるのを待つしかない。
大陸に、という言い方が引っかかったが、聞いたところでよくわからない話だ。三百年誰も知らないなら、無いのと同じである。
その井戸に、今、俺の嫌がらせが水を足した。
黙り込んだ俺の前で、アレスが乾燥ハバネロを指差した。
「……これは、なんだ」
「俺の実家の方でとれる赤い実だ。食い物ではあるぞ」
「食い物ではある、の言い方が引っかかるんだが」
アレスが、まっすぐこちらを見た。声が低い。
「頼む。もう一度、順番にやってくれ。俺は、これを見間違えたままギルドに帰りたくない」
まともだ。この男は肝心なところでまともだ。俺も同意見だった。ここで浮かれて騒ぐのは三流のやることで、こういう時こそ順番に潰していくものである。ゼイラ先生も言っていた。まず、測れと。
検証その一。再現するか。
アレスに同じハバネロを食わせる。この男は「エルフに食えて俺に食えないわけがねぇ」と胸を張って三つまとめて口に放り込み、五秒後には床に転がって「水を、水をくれ」と敵に情けを乞う戦士の顔になった。牛乳を飲ませる。アレスは何も言わずに飲み干した。プライドの置き場所として、こちらのほうが正しい。
そして落ち着いたアレスが、自分の掌を開いてじっと見た。指を一本ずつ動かして、握り込んで、信じられないという顔で言った。
「……戻ってる。少し、だが」
人族でも再現した。種族の問題ではないらしい。
そういえばこの男も、エルフに倣って寝る前に魔力を空にする修行を始めたと言っていた。しかも全快しないまま毎日潜っているとも言っていた。つまり今この部屋には、慢性的に燃料不足の人間が二人いる。スプーン一杯の水を検知できる条件が、揃いも揃って二人分そろっていたわけだ。
嫌がらせをする日を、俺は間違えなかったらしい。
ん? 魔力を空にするとなんかあるってゼイラ先生が言ってた気がするが、自分に関係ないことなので思い出せない。
検証その二。どれくらい戻る。
リーシュに聞くと、少し考えてから、親指と人差し指で小さな輪を作って「盃に一杯ぶん、といったところだ」と答えた。アレスに聞くと、「俺のは威力が低いが火球ひとつ撃てるかどうか」と答えた。互いの答えを聞いて二人が同時に頷いたので、感覚は一致しているのだろう。
つまり、微々たるものだ。バケツで汲み出す井戸に、スプーンで足している。
「戦闘中に食えば、無限に戦えるんじゃねぇか!?」
アレスが身を乗り出した。さっきまで床で転がっていた男の目が、もう輝いている。戦闘狂の発想である。だが検証は検証だ。
「じゃあ、食いながら剣を振ってみろ」
アレスは袋に手を突っ込んでハバネロを口に咥え、意気揚々と大剣を構え――三秒後、床に膝をついて悶絶した。返す言葉もない。敵の前でこれをやったら、間違いなく首が飛ぶ。
世界で唯一の魔力回復手段は、戦闘中に使うと死ぬ。役に立たなさが完成されている。
検証その三。何が効いている。
これが本題だ。辛さがキーになっているのか。
裏で召喚を四回使って、地球の辛い物をテーブルに並べる。二人は膝を揃えて座り、牛乳のコップを手元に引き寄せて、次の一口を待つ姿勢を作った。
そういえばリーシュは、あれだけ悶絶したのに、さっきから一度も文句を言っていない。次を出せば黙って口に入れる。種族の食文化を死守していた女が、今は言われた通りに座って順番を待っている。被験者としての自覚が芽生えたんだろう。たぶん、そういうことだ。
唐辛子。辛い。だが何も戻らない。
黒胡椒。辛い。何も戻らない。アレスが咳をしながら「次だ」と手を差し出してくる。
山葵。リーシュが鼻を押さえたまま天井を仰ぎ、そのまま後ろに倒れた。何も戻らない。ちなみにこの時のリーシュの顔は、この世界に来てから見た中で一番ひどかった。
最後に、生ハバネロ。
「――戻った」
口元を手の甲で押さえたまま、目だけを見開いて、リーシュがはっきりと言った。アレスも無言で頷いている。
これで確定だ。ハバネロだけが効く。他の辛い物は、ただ辛いだけ。
……理屈が、まるでわからない。地球産だから効く、という説なら唐辛子でも胡椒でも効かないとおかしい。辛味が引き金なら山葵でも起きるはずだ。この赤い実そのものに、何かがある。この世界の道理でも、地球の道理でもない場所に、答えが置かれている。
考えるだけ無駄だな。俺はこの手の「わからないもの」に何度も殴られてきたので、諦めが早い。神様の落とし物か、システムの書き忘れか。どちらにせよ、俺の手には負えない。
結論を並べて、俺は肩をすくめた。世界で唯一の魔力回復手段。量はスプーン一杯。使うと悶絶して動けない。総合評価――使い道なし。
と、そこまで考えて。
俺は、部屋の温度がもう一段下がっていることに気づいた。
リーシュが、テーブルの上のハバネロを、じっと見つめている。
その手が、震えていた。戦闘狂いのエルフの、Aランクをボコる腕が、乾いた実ひとつを前に震えている。
「……レオ。ひとつ、聞かせてくれ」
声が、いつもの半分の高さだった。
「これは、魔力が枯れきった者にも、効くのか」
「試したことはない。理屈だけで言えば、外から入るんだから、空でも入るとは思うが」
リーシュが息を吸った。膝の上で、指が服の布を握り込んでいる。それから、絞り出すように言った。
「私の弟は、魔力枯渇病だ。魔力が完全に枯れて、そこからは自分では戻せない。だから寝たきりで、いつ死ぬかもわからない」
初耳だった。決闘のあとに「一族の者が大病を患っている」と聞いたきり、詳しくは聞いていなかった。面倒だから聞かなかったのだ。俺のいつもの悪癖である。
「僅かにでも魔力があれば、治療は可能なんだ。だが弟は気づくのが遅れて、完全に枯れた。空になった器に、掛けられる治療はない。だから私達は探していた。魔力を宿すものが、ダンジョンにあると信じて」
ダンジョン。四階のミノタウロス。五階のバジリスク。折れた肋。ワイバーンの飛ぶ六階。
――全部、探し物はここにあった。俺のソファの前の、テーブルの上に。
「レオ」
リーシュが、床に膝をついたまま、両手を膝の上に揃えた。
そして、頭を下げた。深く。金の髪が床につきそうなくらい、深く。
プライドが高くて、話を聞かなくて、A級ハンターを虚弱と呼んで、大神官相手に殴っていいかと聞く女が、俺の応接室の絨毯に額を寄せている。
「私は、お前に、返せるものがない」
「……頭を上げてくれ」
「ない。何ひとつない。それでも――」
顔を上げたリーシュは、泣いていた。さっきの辛さの涙とは、まるで質の違う涙だった。
俺はそれ以上聞いていられなくて、席を立った。ダイニングで召喚を三回、続けて使う。
テーブルの上に、赤い実が山になった。両手で抱えなければ持てない量だ。俺の一日の回数制限は二十四回。今日はもう用事もない。使い切ったところで困りもしない。
「持っていけ。足りなくなったら、また言え。俺のところにしかないんだ」
「――ッ」
リーシュが実の山を抱きかかえた。抱き方が、荷物ではなく、生き物を持つそれだった。
「兄に伝える! すぐに弟のところへ行く! レオ! 大好き!」
「おい、待て。落ち着け、飛び出す前に――」
止まらなかった。応接室の扉が開いて、エントランスを駆ける足音がして、門の閂の跳ねる音がして、それきりだった。全部で四秒くらいだったと思う。身体強化を全開で使ったな、あれは。
開け放たれた扉の向こうで、庭の草が風に揺れている。俺とアレスだけが、動かないまま取り残された。
「……なぁ、アレス」
「ああ」
「あいつらの里って、どこにあるんだ」
「聞いたことねぇな」
聞きそびれた。世界で唯一の供給源を抱えた女が、どこに向かったのかも知らない。まあ、また来るだろう。来るなと言っても来る子だ。今回ばかりは、その性質に助けられている。
アレスが、倒したままだった椅子を起こして、ゆっくりと座り直した。背もたれに全体重を預けて、天井を見上げる。それからテーブルの上、山から取り残された赤い実をひとつ指でつまみ、目の高さまで持ち上げて、しげしげと眺めた。
「……俺たちは」
「うん」
「命懸けで、五階まで潜ったんだ。目を合わせたら石になる化け物と殴り合って、クロイは肋を折って、全員で死ぬ気で目玉を潰しに行ったんだ」
「うん」
「その薬が、お前んちの、テーブルの上にあった」
アレスは笑わなかった。笑おうとして、失敗した顔だった。両手で顔を覆って、深く息を吐く。それから指の隙間から、赤い実を睨んだ。
「……なぁ、ひとつだけ聞かせてくれ。お前、なんでこれをリーシュに食わせたんだ」
答えづらい質問だ。だが、嘘をつくほどの話でもない。俺は正直に答えた。
「……嫌がらせのつもりだったのですが」
「敬語やめろ。怖ぇよ」
アレスが、また顔を覆った。
「……胃が痛ぇ」
「ミルク飲むか」
「さっき飲んだわ」
哀れである。この男の胃には、そのうち勲章でも下りるべきだと思う。
結局アレスは、六階の相談を一度も蒸し返さないまま帰っていった。玄関で一度立ち止まり、何か言いかけて口を開き、そのまま片手を上げて出ていった。それどころではなかったんだろう。空を飛ぶ化け物をどう落とすかという宿題は、赤い実のヘタと一緒にテーブルへ置き去りにされたままだ。俺も拾う気はない。
一人になった応接室で、俺は冷めた紅茶を飲み干した。
本当に、ただの嫌がらせだったのだ。
人の家に押しかけて人の菓子を勝手に食う女に、ちょっと痛い目を見せてやろう。それだけの、小学生レベルの意趣返しだった。それが今、エルフ一族の命運を左右する秘薬になっている。俺の悪意は、こうも簡単に善行に化けるのか。世の中の善人というのは、ひょっとして全員、こんな感じで誤解されてきたんじゃないだろうか。
そして、もう一つ。
この世界で、あの実を出せるのは俺だけだ。畑もない、種もない、輸入もできない。俺が首を縦に振らなければ、供給はその日で途絶える。
こういうのを、なんと言うか知っている。首輪だ。しかも自分で自分に嵌めたやつだ。
目立ちたくないだけの男の肩書きが、また一つ増えた。ダンジョンの発見者。もうすぐS級。そして、エルフ一族の恩人。
……なあ、管理者様。
俺、静かに暮らしたいだけなんですけど。




