第23話 スラムの少年
「……相変わらず、酷いな」
帝都最南端。わずか一キロ四方に十万人もの人々がひしめき合う、帝国最大、いや大陸最大のスラム街が目の前に広がっていた。
「うう、臭いっす……。吐き気がするっす……」
まあ、ルークが言うこともわからんでもない。
ここは、まともな排水路がないため、行き場を失った汚水があちこちで泥濘の池を作っている。それが生活臭と混ざり合って凄まじい悪臭を放ち、伝染病の温床と化していた。この状況を放置するなど、元キャリア官僚の俺からすれば正気の沙汰じゃない。
──だが、子どものころから宮殿を抜け出しては、帝都中を歩き回っていた俺からすれば、このスラムには特別な価値があった。
「まあまあ、ルーク。俺はここが気に入ってるよ?」
「本気っすか、ルシウス様!? 今すぐ引き返して摂政殿下に直談判して、別の場所に変えてもらうべきっすよ!」
「馬鹿言うな。ここはオルガ河とレヌス河の結節点だぞ? 港を整備すれば大公国からの物資を帝都に直接運び込めるし、レヌス河を遡ればグラティア平原東部とも直結する。最高の物流拠点じゃないか」
「そんなこと言ったって、足元がこれじゃ港どころじゃないっすよ……」
「大丈夫だよ。『水濠掘削』で運河を掘って、『道路敷設』で下水道付きの道路を通してやれば排水は十分機能するさ」
実際問題、工事自体は俺のオリジナル魔法『水濠掘削』と『道路敷設』があれば一発でクリアだろう。問題はそこからだった。
「運河を掘るって言ったって、住んでる人間はどうするんすか?追い出したりしたら帝都に貧民が溢れて、摂政殿下から怒られるのは目に見えてますよ」
確かに、ルークの言う通り、スラムを再開発するにしても、暮らしている人間をいったんどこかに移動させなければならない。そのためには、ここに住む十万人もの貧民たちをどう食わしていくのか、ということも問題になる。
「何言ってるんだよ、ルーク。大公国は現在絶賛人手不足中じゃないか。移民として連れて帰れば一石二鳥だよ」
俺はスラムの向こうに広がる、雄大な二つの大河を指差した。
「まず、オルガ河に仮設の船着き場を作って、大公国からの船を横付けできるようにする。希望者を募ろう。オスティアの対岸に街を作って住処と食糧をタダで提供すると言えば喜んで飛びつく奴は多いはずだ。衛生状況が改善した奴から、順次、開拓に従事させていこう。そうだな、この際、公衆浴場も建てた方がいいだろう。風呂に入って清潔にする習慣も身に着けさせよう」
彼らにとって、このスラムは地獄だ。対して我が大公国は、飯と仕事と、まともな住処を提供できる。希望者を船で直接大公国へと送り込めば、スラムの人口密度を劇的に下げつつ、立ち退き交渉もスムーズに進むだろう。
さらに、残った住民たちには、これから始まる再開発の労働力として、正当な賃金で雇い入れてやればいい。
移民による労働力の確保、スラムの立ち退き、そして帝都における物流拠点の確保。まさに、一石三鳥のプロジェクトだ。
──俺がスラムの再開発に夢を膨らませていた、その時。背中に何かがぶつかってきた。
「うげっ!」
何者かが俺の脇をすり抜けていく。ボロをまとった、小柄な人影だ。
「スリです! ルシウス様!」
ルークの叫び声に、俺は慌てて自分の腰や懐を確認した。
「ん? やっべ! マルクス兄さんに渡すお土産が入った袋がない!」
よりによって、「あれ」を盗まれるとは。
逃げていく少年の背中を見据え、俺は地面を蹴った。
「待てコラ! 返しやがれ!」
「ルシウス様、待ってほしいっす!」
ぬかるむドロを踏み荒らしながら、俺とルークはスラムの細い路地へと少年を追いかける。
だが、少年の後ろ姿には、明らかに帝都の人間とは違う特徴があった。ボロ布の隙間から覗く、ぴんと立った狐のような耳。そして、激しく左右に揺れるふさふさとした尻尾。
(獣人か……!)
獣人は、このアウレリア大陸とは地中海を挟んだ先にある、シルバニア大陸に暮らす少数民族で、俺も見るのは初めてだ。なぜ獣人が帝都のスラムにいるのかは知らんが、驚くべきはその異常な脚力だった。
泥濘などまるで苦にしていない。建物の壁を蹴り、複雑に入り組んだゴミの山を軽々と飛び越えていく。まともな追っかけっこでは、こちらに勝てる見込みは万に一つもなかった。
「ルシウス様! 速すぎるっす、見失うっすよ!」
「なら、先回りするまでさ!」
俺はすぐさま全力で路地をダッシュし、スラムの住民たちがひしめく大通りへと回り込んだ。少年の進路の先には、ちょうど市場のようになっている開けたスペースがある。
俺は逃げてくる少年の位置を見定めると、不敵に笑って右手を地面へと突き下ろした。
「『水濠掘削』ッ!」
次の瞬間、スラムの泥濘が爆発したかのように跳ね上がった。
ズガガガガッ!と凄まじい地響きを立てて地面が陥没し、幅十メートル、深さ五メートルの見事な「落とし穴」が一瞬にして形成される。
「ぎゃあああ!? なんだこれ!?」
「うわっ、洗濯物が泥まみれに!」
「家が傾く! 助けてくれ!」
突如出現した巨大な溝に、スラムの住民たちが壮大に巻き込まれて大パニックに陥る。だが、俺の狙いは完璧だった。
「わっちゃあ!?」
空中を華麗に跳んでいた獣人の少年は、着地予定だった地面が丸ごと消失したことに目を見開き、なす術なくその即席の落とし穴へと吸い込まれていった。ドシャリ、と派手な音が鳴り響く。
「ふぅ、確保完了」
泥だらけになったお土産の袋を回収し、俺が満足げに息を吐いていると、後ろから息も絶え絶えのルークが追いついてきた。そして、周囲の阿鼻叫喚の惨状と、落とし穴の底で目を回している少年を見比べ、深々とため息をつく。
「……周りの迷惑を考えましょうね、ルシウス様。元皇子様のやることじゃないっす……」
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