夏に終わるもう一つの恋
「うん。顎と右目の下の腫れは引いているね。やっぱり化粧かぶれだ。このまま化粧を控えれば、元の健康な肌に戻るよ」
8月のお盆休み前。東魁優仁の自宅兼医院の診察室で、戸室坂まひるは優仁の父から診察を受けていた。
診察が終わると優仁がまひるを手招きし、自宅のリビングで西瓜を振る舞った。
「顎の腫れ治って良かったな。戸室坂」
「うん。化粧を止めたら嘘みたいに痒みが無くなったの。これも東魁君のおかげだよ。本当にありがとう」
まひるは感謝の気持ちを伝えると、お礼と称して手作りのクッキーを優仁に手渡す。リビングに入ってきた優仁の小学生の妹がその光景を目撃し「お兄ちゃんの彼女?」と2人を冷やかした。
優仁は妹の頭を軽く叩き、まひるはひたすら赤面していた。
診察の帰り道、自転車を手押ししながら優仁はまひるを送っていた。優仁の隣を歩きながら、まひるは今日の為に考えていた計画を実行するつもりだった。
夏休みの間に優仁をデートに誘う。そして3度目のデートで告白する。日ごろ他校のイケメン男子を手玉に取っていたまひるにとって、これまでならそれは容易な作戦だった。
だが、それは化粧と言う名の鎧を身にまとっていた時の話だった。フルメイクした時のまひるは、自信に溢れどんなイケメン男子にも気後れしなかった 。
今の化粧を落した素顔のまひるは、丸腰で自分に自信が持てないただの17歳の女の子だった。そんなまひるが勇気を振り絞り、素顔のまま優仁に近づきたいと行動する。
「······と、東魁君。今度ね。うちの近所で町内会のお祭りがあるの。よ、良かったら一緒に行かない?」
緊張で少し声が裏返ったが、まひるは当初の目標を完遂した。その途端、優仁が自転車を止めまひるを見る。それは、どんな表情をしていいか本人も分からないといった顔だった。
「······戸室坂。ごめん。皆と一緒に行くなら大丈夫なんだけど、2人では行けない」
「······え。や、やっぱり私の事まだ許せない? 怒っているの?」
「そうじゃないよ! 戸室坂に誘われて嬉しいよ。でも。駄目なんだ。俺、今付き合っている彼女がいて。だから。他の女の子と2人きりで遊びには行けないんだ」
優仁の予想外の言葉に、まひるは足元が崩れていく感覚に襲われた。頭の中はその内容を理解できても、心がそれを理解するのを拒否していた。
優仁の恋人は、以前ナンパから助けた他校の生徒だった。彼女は優仁やまひると同じ高校に知り合いがおり、その伝で優仁と再会を果たしていた。
そして彼女はおしとやかな外見とは裏腹に、優仁に猛烈に好意をアピールして交際を求めて来た。
カフェで連日長時間彼女と会話を交わし、彼女の美人な外見ではなく真っ直ぐな性格に美点を見いだした優仁は、彼女を受け入れ付き合う事となった。
「······ごめん。戸室坂。ごめんな」
あまりにもショックが大きすぎた影響か、まひるは意外にも冷静でいられた。まひるは呆然としながらも優仁の表情を注意深く見る。
優仁は顔を歪め、背中を丸め申し訳なさそうにしていた。それは、異性からの好意に気付いた者の所作だった。
優仁は不憫なくらい背中を丸くして、謝罪の気持ちを表していた。
······気付いた時、まひるは自宅の玄関に前に立っていた。どうやって優仁と別れたのか。どうやってここまで帰ってきたのか。まひるにはまるで記憶が無かった。
玄関を開けると、飼っている黒猫が目の前で座っていた。まひると目が合った黒猫は、小さく鳴き、玄関先で腰を下ろしたまひるの膝に乗ってくる。
不思議と涙が出なかった。人間、ショックが大きすぎるとかえって涙が枯れるのかとまひるは学んだ 。甘えて来た黒猫を膝から下ろすと、まひるは何かに気付いたように猛然と自分の部屋に走り出す。
部屋の棚には、自分の命の次に大事だった化粧道具が並んでいた。この化粧品を揃える為に、まひるは欲しい物を我慢して小遣いをつぎ込んできた。
半透明のビニール袋を広げ、何万円かけたか分からない化粧品を次々と捨てていく。アイシャドー。ファンデーション。口紅。マニキュアの除光液。
一つ一つの道具を袋に投げ入れる度に、まひるは心の重荷が軽くなるような気がした。
「何が「すっぴん顔が可愛いかった」よ! 期待させといて見え透いたお世辞じゃない! 俺は見た目で選ばないぜ的な雰囲気出して、結局付き合ってるのは美人! 男って本っ当に最低! 口ばっかり! 直ぐに振られちゃえ坊主頭!」
思いの丈をまひるは腹の底から叫んだ。そうしなければ自分が保てなかった。優仁が外見で恋人を選ばない事をまひるは知っていた。
そして、優仁が恋人に振られ辛い思いをする事を望んでいない自分がいる事も知っていた。
「······初めての彼女なんだから。せいぜい青春を楽しみなさいよ。馬鹿坊主頭のお節介男」
ビニール袋の口を縛り、まひるは素顔の自分を隠し続けてきた化粧品と言う名の鎧を脱ぎ捨てた。それは、過去の自分との決別宣言だった。
まひるは止まらない胸の痛みに耐えきれず床にうずくまる。人は心を保つ為に涙という手段で悲しみを外に排出する。
涙が出ない時はそれが出来ずに、胸の苦しみにひたすら耐え続けなければならない。まひるは今まさにそれを経験し、止まないこの胸の痛みから逃げない事を心に決めていた。




