夏休みの前日
住宅街にセミの鳴き声が響く中、練習用ユニフォーム姿の東魁優仁と、日傘を差した制服姿の戸室坂まひるが並んで歩いていた。
つい先刻、優仁から「素顔がかわいい」と言われてからのまひるは、猛暑日の気温とは関係なく心と身体が熱に侵されたようになり、その足取りは覚束なかった。
まひるは優仁に何を言っていいか分からず混乱していた。両頬を真っ赤にしてやっとの思いで発した言葉は、以前優仁が読めと勧めてくれた一冊の本だった。
「······東魁君。私。自分の肌の事を真剣に考えてみる。この前貸すって言ってくれた本。やっぱり借りてもいいかな?」
「え? ああ。全然いいぜ。ん? あの本って確か ······」
優仁は暫く考え込み、思い出した様に左の掌を右拳で勢い良く叩く。
「そうだ。あの本さ。鞄に入れたままだった。学校に戻れば今すぐ貸せるぜ? 戸室坂」
そんな経緯で2人の少年少女は炎天下の中を歩き学校に戻った。正門に入ったところで、まひるは歩みを止め優仁の大きな背中を見つめる。
ソメイヨシノの木々が風で揺れ、湿気を含んだ風の音がまひるの聴覚を通り抜ける。まひるは心の中にこびり付いた後悔と言う名の思いを、精算するべく意を決した。
「······東魁君。私、ずっと東魁君の事を見下していた」
まひるは両手で日傘を握りしめ、両肩を震わせながらこれまでの思いを吐露する。
「······地味な顔を化粧で化けさせて。1軍女子達とつるんで。イケメン男子と付き合って。自分も1軍女子だと勘違いして驕っていた」
まひるの懺悔を、帽子を頭から取りながら優仁は穏やかな表情で聞いていた。
「東魁君を勝手に2軍男子って見下して。2軍男子が1軍女子の私に生意気な態度を取らないでよって傲慢に苛立ってた。東魁君はそんな身勝手な私を心配してくれたのに」
まひるの両目に涙が溜まっていく。自分の一語一語が、声として発する度に自己嫌悪という刃で心が切り裂かれそうになる。
羞恥のあまりこの場から逃げ出したくなる衝動を必死に堪えながら、まひるは言うべき言葉を違えなかった。
「······私って最低最悪の女だよね。本当に。本当にごめんなさい」
まひるは日傘を手放し、姿勢を正し優仁に頭を下げ謝罪する。コンクリートの地面を見つめたまま、まひるは顔を上げられなかった。
そして急にまひるの周囲に影がかかった。気付くと、優仁はまひるの日傘を手にして容赦ない日差しを遮っていた。
まひるの周囲の温度が下がり、自分の中にある心の醜さが一瞬それにたじろいだ。
「もういいよ。戸室坂。俺も戸室坂をイライラさせたんだから、お互い様って事にしようぜ」
優仁は少し照れくさそうに微笑む。その瞬間、まひるの右の頬に涙がつたう。優仁は慌ててユニフォームのポケットを探るが、ハンカチなどと気の利いた物は持ち合わせていなかった。
「······東魁君。私、夏休みの間化粧を止める。そ、その。休みの間に東魁君の皮膚科に行ってもいいかな?」
「え? ああ。来いよ。8月のお盆休み以外やってるからさ。来院する日が決まったら教えてくれよ。麦茶くらい出すからさ」
「うん。ありがとう。連絡するね」
優仁とまひるは笑顔でライン交換をする。野球部の部室前で優仁から本を受け取ったまひるは、ある事に気付く。
本の著書名に東魁という名前を見つけたからだ。それは、父が書いた本だと優仁が誇らしげな顔で教えてくれた。
優仁は練習に戻り、まひるは借りた本を胸に抱きしめて校内を歩く。優仁から本を借りただけで。優仁と連絡先を交換しただけで。 まひるの心は飛び跳ねたいほど軽やかに踊っていた。
逸る気持ちを落ち着かせる為に、まひるは校舎内に入ろうかと思案する。 そこから優仁の練習風景を少しでも見れたらと自分の思いつきに内心で拍手をしたい気分だった。
部活の無い生徒達は既に下校しており、校舎内は静かだった。 グラウンドが見渡せる自分の教室に入ったまひるは、窓を眺めている生徒がいる事に気付く。
長い黒髪に小柄な身体。それは、佐為北楓だった。
「······佐為北さん?」
まひるの問いかけに、楓はゆっくりと振り返る。声をかけたものの、まともに楓と会話した事が無いまひるは戸惑ってしまった。
「ま、まだ教室にいたんだ。忘れ物とか?」
言い終える前にまひるは後悔していた。黙って教室から立ち去るべきだったと。
「······この4階の教室から落ちたら死ねるかなって。そう考えていたの」
楓の投じた言葉という名の爆弾は、まひるを戦慄させた。自分はとんでもない場所に居合わせたのかもしれないと、ここに来た事を後悔する。
「安心して。戸室坂さんに迷惑がかかるし。目の前で飛び降りたりしないから。私の事は麻痺棚君から聞いているよね?」
楓の宣言にまひるは安堵したが、張り詰めた緊張は容易に解けなかった。
「う、うん。大体事情は聞いてる」
「麻痺棚君言ってた。戸室坂さんは信用できるから安心してって。随分と彼から信頼されているんだね」
「き、気に触ったらごめんね。で、でも私と麻痺棚君はただの友達だから。佐為北さんの事も誓って口外しないし。そこは安心して貰えると嬉しいな」
「······戸室坂さんって変わったね。今まではもう少し尖った印象だったけど」
「そ、そうかな? で、でもそれ合ってるかも。私って勝手に人に序列をつけて差別する最低最悪の性格だったから」
「······別にそれは皆がしている事だと思うけど。今は違うの?」
「わ、私って地味目顔ですっぴんに絶望的に自信が無いの。でも、そのすっぴん顔が可愛いよって言ってくれた人がいて。そ、その、恥ずかしいんだけど、素の自分を肯定してくれる人がこの世にいたんだって分かったら、自分の醜さに急に気付いたの。 あ、あれ? 私何を言ってるのかな? いきなりこんな話をされても引くよね?」
「······引かないよ。すごく素敵なお話だと思う」
楓は淡々と、そして静かにそう呟いた。まひるは何故ろくに会話をした事のない楓に心の内を話してしまったのか。その理由を必死で頭の中で探していた。




