第9話:商人
商人が目を覚ましたのは、あの奇妙な「動く石の箱」の中だった。
毛布の上で上体を起こして、辺りを見回した。丸太を曲げたドーム型の天井。床からはじんわりと温かい風が上がってくる。外の酷寒など嘘のような、天国のような温かさだった。
窓の外を見ると、街道の雪が猛スピードで後ろへ流れていく。
「どこだ、ここは。私は死んだのか」
「あ、目が覚めましたか。辺境の町へ向かう途中ですよ。生きてます」
声のした方を見ると、座席で若い男──アルトがのんびりと座っていた。
「町へ……? というか、この馬車、馬がいませんが!? なぜ動いているのですか!?」
「あ、これ馬車じゃないです。ガインさんが作ったただの箱です。ミィちゃんたちが先導してくれてるので」
アルトが指差す先、窓の外では、大小さまざまな猫たちが楽しそうにロープを引いて雪道を爆走していた。
先頭を走る白い猫──ミィちゃんがこちらをちらりと振り返る。
「ひっ……!」
ルークは短い悲鳴を上げて身を硬くした。自分を襲ったあの馬ほどもある巨大な魔獣三頭を、一瞬で、音もなく吹き飛ばした「風の化身」だ。
「馬は後ろにつないで一緒に引っ張ってます。ガインさんが応急処置をしたので、町に着いたらちゃんとしたお医者さんに診せましょう」
隣の座席で腕を組んでいた頑固そうなドワーフの老人──ガインが、鼻を鳴らした。
ルークは深く追求するのをやめた。商人としての防衛本能が、これ以上は踏み込むなと告げていた。
「ちょうどいい。お腹も空いたでしょうし、お昼にしましょう」
アルトがコテージから持ってきた包みを開けた。
「何じゃそれは」ガインが覗き込む。
「クロックムッシュです。パンに、ガインさんが作ったチーズと魔魚の燻製を挟んで焼いておきました」
ガインは二日前、コテージの裏をうろついていた獰猛な野生の魔牛を力尽くで組み伏せ、絞り出した濃厚なミルクでチーズを自作していた。
アルトは「職人は行動力が違うな」と深く考えずにそれを使って、出発前にコテージの竈で焼いておいたのだ。
黄金大麦で焼いたパンは、表面がカリッと黄金色に焦げ、その隙間から濃厚なチーズと魔魚の燻製がとろりと溢れ出ている。仕上げに、魔鉱塩がひとつまみ振られていた。
「ルークさんもどうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
ルークは差し出されたものを見た。
チーズの焦げた暴力的なまでに甘い匂いと、燻製の芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
たまらず、それを手に取ってかじりついた。
──外が、カリッとした。中から、じゅわっとした。
(──な、んだこれは……!?)
ルークは息が止まった。
王都の宮廷料理人が焼く最高級のパンすら、この濃厚な麦の旨味の前には微塵も歯が立たない。さらに、チーズと混ざり合う魚の燻製。脂が舌の上で溶けた瞬間、魔獣に襲われて枯れかけていたルークの魔力が、凄まじい勢いで回復し、満ち溢れていくのが分かった。
(まさか、神話に聞く深海魔魚……!? なぜそんなものが、ただのパンに挟まれているんだ!?)
塩気が完璧なバランスで旨味を爆発させ、麦の甘みが全てを優しく包み込む。
飲み込んだ。もう一口かじった。止まらなかった。気づいた時には、手元の包みは空になっていた。
「今日のは特にええな。冷めてもチーズのコクが落ちとらん」
ガインが豪快に笑う。
「ドームの中が温かいおかげですね」
アルトが平然とお茶をすする。
ルークは震える手で水を一口読み、ようやく声を絞り出した。
「アルトさん……これは、毎日食べているのですか」
「大体こんな感じですね。材料はそのへんで採れたものですし」
そのへん、の意味がルークにはもう分からなかった。世界がひっくり返るような衝撃の連続に、脳が完全に焼き切れていた。
やがて、ドームが静かに停止した。
窓の外には、辺境の町の頑丈な石壁と正門が見えていた。どうやら無事に到着したらしい。
アルトが足元に置いていた大きな袋をゴソゴソと漁り、中から不思議な光沢を持つ布を取り出して、座席の上に広げた。
「ルークさん、あなたは商人なんですよね。ついでに聞きたいんですが、これってこの町で売れますかね? 倉庫を圧迫していて」
ルークはそれを受け取り、広げた。
白と黒と縞が混ざり合った布。光の当たり方で玉虫色に輝き、触れれば絹より滑らかで、羊毛より圧倒的に温かい。
「これは……何の素材ですか」
「猫の抜け毛です。毎朝のブラッシングで出るやつを、ガインさんが糸にして、僕が魔法で仕立てました」
ルークの手が完全に止まった。
「猫の、抜け毛」
「はい。あと、これも邪魔で」
アルトが座席に置いたのは、真っ白な結晶の塩と、このドームの床下にある「動力」と同じ輝きを持つ魔石の塊だった。
ルークは塩をひとつまみ舐めた。雑味が一切ない、旨味の塊。
魔石を手に取った。指の隙間から、国家を揺るがすほどの魔力が漏れ出す。
ルークの脳内で、二十年培った商人としての勘が、火を噴くほどの速度で計算を始めた。
猫の抜け毛。市場に存在しない塩。国宝級の魔石。そして、あの神がかった料理。
──この少年を、絶対に手放してはならない。
ルークは座席から滑り落ちるように床に膝をつき、深く頭を下げた。
「アルトさん。折り入って、命懸けのお願いがあります」
アルトが不思議そうに首を傾げる。
「これらを、全て私に販売させてください。独占でなくて構いません、窓口を私に一本化させてください。我が商会の全財産を賭けた条件を出します」
ルークの目が、冷徹な大商人のそれへと変わる。
「現在、私どもはエドガー公爵領と大規模な取引を行っていますが、あそこはもう終わりです。あんな傲慢なだけの領地との契約は、今すぐ全て白紙に戻します。これまでに貸し付けている莫大な資金も、法律の裏をかいて来月末までに一括で強制回収してやります。その全てのリソースを、あなたとの取引に注ぎ込みたい」
アルトは少し考えた。
「猫の抜け毛と、ただの塩と重りですよ? 邪魔なので売れるなら助かりますが……いくらになりますか」
「この布一反で、王都の大商会が一年間で動かす総資産を超えます。塩は価格設定すら不可能。魔石は……国家予算、と言えば信じていただけますか」
アルトはまた首を傾げた。
「じゃあ、お願いします。倉庫がいっぱいなので」
ルークは深く、深く頭を下げた。床につくほどに。
ドームの窓の外では、ミィちゃんが満足そうに喉を鳴らした。
ゴロゴロゴロゴロ。
その夜。
町の宿屋の一室で、ルークは震える手で日誌にペンを走らせていた。
今日出会ったもの。国家予算を重りと呼ぶ少年。世界を滅ぼせる神獣を「猫」と呼び、その抜け毛で天下無双の布を作る異常。
ルークは日誌を閉じ、不敵に笑った。
明日、契約書を作る。
エドガー公爵家を完全に破滅させ、我が商会を世界の頂点へと押し上げる、歴史上最も冷酷で、最も恐ろしい契約書を。




