第10話:破滅の序曲
公爵邸の朝は静かだった。
静かすぎた。
以前は廊下に使用人の気配があったが、今は足音がしなかった。
給金の遅れが続いて、今月だけで三人が辞めた。料理人も一人いなくなって、食卓の品数が減った。
カイルは執務室の椅子に座り、書類の山を睨んでいた。
数字が合わなかった。
麦の収穫量が例年の三割を下回った。
魔獣の被害で南側の村が二つ、住民が避難した。騎士団の装備の修繕費が跳ね上がっていた。どこを削っても足りなかった。
執事が入ってきた。顔色が悪かった。
「カイル様。ルーク商会より書状が届いております」
「ちょうどいい」
カイルは手を伸ばした。
「来月の穀物の前払いを交渉しようと思っていた」
封を切った。読んだ。
再び読み返した。
拝啓、エドガー公爵閣下。
諸般の事情により、また当商会が今後最優先すべき新たな取引先との出会いがありましたため、ルーク商会は貴公爵家との取引を本状をもって全面停止いたします。
なお過去の貸付金については、来月末までに全額一括でご返済くださいますよう。
「……新たな取引先」
カイルは立ち上がった。廊下を早足で歩いた。父の執務室の扉を叩かずに開けた。
「父上、これを」
エドガーが手に取った。読んだ。
顔から表情が消えた。
「全額一括。来月末に」カイルが言った。
「今の領地収入の三年分だ。しかもルークほどの商人が公爵家を切り捨てるほどの『新たな取引先』とは何だ」
エドガーは答えなかった。
二人とも、同じことを考えていた。
一ヶ月前、コールドランドから戻った偵察兵の報告を思い出していた。震える声で、床に這いつくばりながら言っていた言葉を。
荒野が大豊作の地になっていました。
温泉が湧き、石造りの立派なお住まいに。
天災級の魔獣が複数、おりました。
「まさか」カイルが呟いた。
「いや、あの無能にそんなことが」
そのとき、別の使いが飛び込んできた。
「緊急の報告です。魔力観測所より。北のコールドランドで観測史上最大規模の魔力反応が常時観測されております。発生源はコールドランド中心部。複数の上位魔獣が集結している可能性が」
書状が二枚、机の上に並んだ。
ルークからの絶縁状と、魔力観測所からの急報。
カイルは二枚を交互に見た。
新たな取引先。天災級の魔獣。観測史上最大の魔力反応。
全部が一つに繋がっていった。繋がってほしくなかったが、繋がった。
「あの無能が」声が上擦った。
「猫しか懐かせられなかった、あの無能が」
エドガーは窓の外を見た。
灰色の空の下、農夫たちが枯れた作物を前に立ち尽くしていた。
何も言わなかった。
言えることが、なかった。




