第5話:その頃、公爵家では
公爵邸の廊下は、いつも通り静かだった。
カイルは執務室へ向かいながら、すれ違った騎士の顔色の悪さに気づいた。最近こういう顔をした人間が多かった。使用人も、領地の役人も。
「どうした」
「カイル様。東側の麦畑が一区画、立ち枯れていまして。それと昨夜、南の柵の内側に魔獣の足跡が」
「冬だからだろう」
「時期にしては早く、しかも先週から立て続けに」
「騎士団の管轄だ。適切に処理しろ」
カイルは歩みを止めなかった。
些細なことだ、と思った。
毎年冬になれば多少の不具合は出る。
アルトがいなくなって清々した公爵家に、水を差すような話を持ち込むな。
そう思った。思うようにしていた。
執務室に入り、椅子に座り、書類を開いた。
数字を見た。
先月より収入が減っていた。カイルはその数字を少し眺めてから、次の書類をめくった。
同じ頃、騎士団の詰め所でグレアムは地図を前に立っていた。
赤い印が七つあった。
一週間前は二つだった。
「増えるペースが上がっています」
副団長が言った。
「このままでは来月、南の村に直接被害が出ます」
グレアムは答えなかった。
印を一つずつ指でなぞった。
南の外れ。東の街道沿い。中央部の農地の近く。どれも、一ヶ月前まで魔獣など出なかった場所だった。
二十年、この領地で騎士をやってきて、こんな速度で状況が悪化したことはなかった。
「結界の強度は」
「魔法省の計測で、先月比で三割落ちています。原因は特定できていないと」
原因。
グレアムには分かっていた。分かっていて、口にできなかった。
アルト様が追放されたのは、ちょうど一ヶ月前だった。
「巡回の頻度を上げろ。南側の村に騎士を常駐させる」
「それだけでは、いずれ」
「今できることをやる」グレアムは地図から目を離した。
「それと、非公式に頼みたいことがある。信頼できる者を一人、北へやれるか」
副団長が少し間を置いた。
「コールドランドへ、ですか」
「私個人の確認だ。公爵家には報告しない」
副団長は黙って頷いた。
詰め所の外で風が鳴った。
南の方角から、魔獣の遠吠えが聞こえた。昼間に聞こえるようになったのは、今月からだった。
夕刻、公爵執務室に二人の人間が転がり込んできた。
転がり込む、というのは比喩ではなかった。
扉を開けた瞬間、二人は本当に床に転がった。革鎧は泥と引っかき傷で覆われていて、片方は髪の毛が半分逆立っていた。もう片方は靴が片方なかった。
コールドランドへ送った偵察の二人だった。
エドガーが書類から目を上げた。
「何事だ」
「も、申し上げます」
靴のない方が、震える声で言った。
「コールドランドを確認してまいりました」
「それで。野垂れ死んでいたか」
二人が同時に首を振った。激しく振った。
「……生きていたか」
「生きて、おられます。それどころか」
逆立った髪の方が、床に手をついたまま続けた。
「荒野が、大豊作の地になっていました。麦畑がコテージの周囲一面に。温泉も出ていて、石造りの立派なお住まいに」
沈黙があった。
「天災級の魔獣も、複数おりました。私どもが近づいたところ取り囲まれまして、それ以上は記憶が」
「記憶が?」
「かなり曖昧で」
扉の外から足音が近づいてきた。カイルが書状を手に持って入ってきた。
「父上。魔力観測所から急報が届きました」
書状をエドガーの机に置いた。
エドガーが手に取って読んだ。
読む速度が途中から遅くなった。
「北のコールドランドで観測史上最大規模の魔力反応が……発生源はコールドランド中心部……複数の上位魔獣が集結している可能性が」
カイルが読むのを止めた。
床の二人を見た。二人は静かに目を逸らした。
「あの無能が」カイルの声が上擦った。
「そんな力を持っているはずが」
エドガーは書状を机に置いた。
窓の外を見た。公爵領の空は灰色に曇っていた。
遠くの畑で農夫たちが動けずに立っていた。
立ち枯れた作物を前に。
何も言わなかった。
暖炉の火が小さく揺れた。




