第4話:ここは極寒の地、のはずだった
朝になると、猫たちはまだいた。
岩の上や地面のくぼみや、アルトの足元や。思い思いの場所で丸くなって眠っていた。昨夜あれだけ騒がしかったのに、今は静かだった。ゴロゴロという低い音が、重なり合いながらどこかから聞こえてくるくらいで。
アルトが体を起こすと、胸の上でミィちゃんが目を覚ました。
ミィ。
「おはよう」
ミィちゃんはアルトの顔をじっと見てから、あくびをして、自分から膝に移動した。起こされたことへの文句なのか挨拶なのか、よく分からなかった。
昨夜もらった贈り物が、岩の前に積んであった。
魚。光る石。金色の草。深い赤の結晶。
現実だった。夢ではなかった。
アルトはとりあえず魚を手に取った。冷気の中でよく締まっていて、鮮度は申し分ない。こんな立派な魚を食べるのは、公爵家にいた頃でも年に数回あるかないかだった。
「今日は何を作ろうか」
ゴロゴロゴロ。
猫たちが数匹、目を覚ましてアルトを見ていた。
「まあ、その前に小屋でも建てないとな。さすがに野宿は寒い」
前世の記憶を思い出しても、石を積んだことは一度もなかった。
しかし考えながらやれば何とかなるだろうと思った。アルトはそういうところがあった。不安より先に手が動く。
周囲の岩を調べると、平たく割れやすい石が多くあり、積むのに向いている形だった。
一方で、昨夜もらった光る石も何個かあった。握り拳大で、見た目は綺麗だが、重さもある。
「風除けの重りに使えるな」
アルトは光る石を土台の四隅に置いた。
見た目が綺麗なので角に使うとちょうどいい気がした。残りも壁の下の方に混ぜて積んでいった。青や赤や白の光が、石の隙間からちらちらと覗いた。
壁が腰の高さまで来たあたりで、魔石たちが一斉に光り始めた。
アルトは手を止めた。
光は石の隙間から漏れるのではなく、石全体から放たれていた。それが隣の石に伝わり、また次の石へ伝わり、気がつくと積んだ石が全部同じ光を帯びていた。
地面が揺れた。
揺れというより、締まる感覚だった。
土台が固まり、積んだ石が互いに引き合うようにぴたりと合わさった。隙間が消えた。
壁が厚みを持った。屋根になる石が重力を無視するようにゆっくりと持ち上がり、壁の上に乗った。
全部で一分もかからなかった。
アルトの前に、石造りのコテージが建っていた。
扉を開けると、中は温かかった。床から熱が伝わってくる。壁に隙間はなく、外の風が全く聞こえなかった。
「……DIYの才能、あったんだな僕」
ゴロゴロゴロ。
ミィちゃんが中に入って、床に寝転がった。満足そうだった。
中に入ると温かいのに、何もない箱だった。
アルトは腕を組んだ。猫たちが中をうろうろしながら床の匂いを嗅いでいた。
「キャットタワーがいるな」
近くの林から手頃な丸太を何本か切り出してきた。表面を削って角を取り、魔力で繋ぎ合わせた。高さを変えながら段を作って、一番上を広めの台にした。麻縄を巻いた柱も立てた。
最初に乗ったのはミィちゃんだった。一番上の台を確かめてから、すとんと座った。
他の猫たちが殺到した。
取り合いが始まった。
「落ち着け。台は広くしたから全員乗れる」
実際、乗れた。ぎゅうぎゅうではあったが、全員何とか収まって、コテージの中がゴロゴロ音で満たされた。
次に、温水を引けないかと考えた。
猫たちが体を温められる場所があると良かった。水が好きな個体もいるだろうと思う。
コテージの裏を掘ってみると、三十センチほどで土が温かくなってきた。
もう少し掘った。
湯気が出てきた。
「温泉だ」
声に出すと、何匹かが覗きに来た。
石で縁を作り、底を平らにした。湯が溜まるのを待った。コテージ裏の小さな温泉だったが、深さは十分あった。
最初に入ったのもミィちゃんだった。端に前足をかけて温度を確かめてから、ゆっくりと入った。目が細くなった。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
他の猫たちも次々と入り始めた。肩まで浸かって、目を閉じて、動かなくなった。
「ここの猫は水好きなの?」
アルトは空を見上げた。
雲が割れていた。
さっきまで一面灰色だったコールドランドの空に、巨大な青色が広がっていた。円形に雲が押しのけられて、真昼の青空が覗いている。その中心がちょうどコテージの真上だった。
太陽の光が、まっすぐ差し込んできた。
「晴れた」
温泉の中でミィちゃんが鳴いた。
ミィ。
何でもないような声だった。
もらった種を見た。
黄金色の粒で、大麦に似ていた。猫草にちょうどいいかもしれないと思って、コテージの周りに筋を引いて植えた。
土を被せて水を打った。
次の瞬間、地面が温かくなった。
いくつかの猫が地面に腹をつけて、目を閉じた。何をしているのかと思って見ていると、猫たちの体の下から、緑の芽が出てきた。ぐんぐんと伸びた。茎が太くなり、葉が広がり、穂が出た。穂が膨らんで、黄金色に変わった。
全部で一分もかからなかった。
コテージの周りが、黄金色の麦畑になっていた。
「……早い。肥料が良かったのかな」
猫たちが一斉に立ち上がって、満足そうに毛繕いを始めた。
アルトは穂を一本摘んで、実を指でこすり出した。粒がぷっくりと膨らんでいた。重みがあった。
「これ、製粉できるな」
平たい石を二枚組み合わせて、臼を作った。
麦をすり潰して粉にして、水と塩で練った。生地がまとまるまでこねて、丸く伸ばしてから石を積んで窯を作り、コテージ裏の地熱で温めた。温度が上がるのを待って、生地を入れた。
待つあいだ、魚の下処理をした。
猫たちが昨夜咥えてきた黒光りする魔魚で、脂が皮の下にたっぷりと乗っていた。ウロコを取り、内臓を抜き、魔鉱塩をまぶしてしばらく置いた。塩が馴染んだところで、コテージの周りで拾った固い木を組んで燻製台を作った。火をつけて、煙が出始めたところに魚を吊した。
煙が細く上がった。
香りが出てきた。
脂が煙に乗って、甘くて香ばしい匂いがコールドランドの冷たい空気に溶けていった。鼻の奥に届く匂いで、胃が鳴った。
窯からも匂いが来た。
石の隙間からほんのりと甘い匂いが漏れ始めて、少しして焦げる手前の香ばしさに変わった。
アルトは窯を開けた。
ふっくらと膨らんだパンが、黄金色に焼けていた。底を叩くと、コンと乾いた音がした。
取り出して、手で割った。
湯気が出た。
じゅわっと音がした。
かぶりついた。
外はカリッとしていて、中がふわっとしていた。麦の甘みが舌の上に広がって、塩気がちょうど後から来た。
アルトはしばらく動かなかった。
「……美味い」
声が少し、かすれた。
公爵家の食卓は豪華だった。
料理人が何人もいて、毎食何品も並んだ。
でも食卓は冷えていて、誰も喋らなくて、食べても何も感じなかった。
こんな味を、食事でもたらされたことはなかった。
燻製が仕上がった。
皮がしっとりとして、箸で割ると中から白い身がほぐれた。塩と煙の香りが染みていて、脂がじゅわっと溶けた。パンと合わせて食べると、頭が白くなるくらい美味かった。
「冷めた贅沢品より、百倍美味い……」
誰に言うでもなく呟いた。
猫たちの分を作った。
魚をほぐして、骨を一本ずつ取り除いた。細かいところまで丁寧に確かめた。
温めた石の上に並べて、少し冷めてから皿代わりの平たい岩に盛った。
「熱いから気をつけろよ」
最初の一匹が近づいて、匂いを嗅いだ。
それから、ふーふーと鼻息で冷ましながらアルトが待っていると、舌をそろりと伸ばして端をひと舐めした。
止まった。
次の瞬間、ガツガツと食べ始めた。
他の猫たちが殺到してきた。我先にと顔を突っ込んで、身をほぐして、夢中で食べた。ゴロゴロ音が大きくなったり小さくなったりしながら続いた。
ミィちゃんは皿を丁寧に食べて、食べ終わると皿をぴかぴかになるまで舐めた。
全部舐め取ってから、アルトを見た。
ゴロゴロゴロゴロ。
「美味かったか」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
「そうか」
アルトも自分の燻製の最後の一切れを口に入れた。今日の夕食は今まで生きてきた中で一番美味かった。
「これなら冬を越せるな」
空には青空が広がっていた。日が傾いて、黄金色の麦畑が夕陽を受けてきらきらと光っていた。コテージの煙突から細い煙が上がって、温泉の湯気と混ざって、透明な空に溶けていった。
その頃。
コールドランドの外れで、馬の足音が止まった。
革鎧を着た男が二人、馬を下りて茂みに隠れた。片方が遠眼鏡を取り出して、光る方角に向けた。
「……確認できるか」
「ちょっと待て」
遠眼鏡の向こうに、コテージが見えた。煙。明かり。麦畑。
「生きてるぞ、あの男」
「馬鹿な。こんな極寒の地で一週間も」
「それどころか……畑まで作ってる。どうなってる」
もう片方が報告書を取り出そうとした。
そのとき。茂みが揺れた。
二人が振り向いた。
目が光っていた。
いくつも。
「な」
言葉が続かなかった。
光る目たちは、声もなく近づいてきた。二人の男は馬に飛び乗ろうとしたが、馬がすでに震えて動かなかった。
次の瞬間、茂みから飛び出してきた何かに、二人は宙を舞った。
コールドランドの夜に、奇妙な悲鳴が響いた。
コテージの中のアルトには、聞こえなかった。
「今日も風が強いな」
ミィちゃんを膝に乗せて、炎を眺めながら呟いた。ゴロゴロという音が、静かに続いた。




