第3話:猫たちが集まってきた
光る目たちが近づいてくる。
アルトは地面に座ったまま、息を止めた。
数えきれないほどの目だった。緑や金や青や琥珀色が、雪の白さの中でゆらゆらと揺れている。音もなく、じりじりと間合いを詰めてくる。
逃げた方がいいのかもしれない。
そう思った次の瞬間だった。
膝の上のミィちゃんが、すっと立ち上がった。
四肢を踏ん張り、背筋を伸ばし、暗闇に向かって。
「シャーッ!!」
小さな体から、信じられない声が出た。
音というより、圧だった。空気が震えるような、耳の奥まで響いてくるような何かだった。アルトは思わず肩をすくめた。
暗闇の目たちが一斉に止まった。
それから。
しゅん、と萎んだ。
大きかった気配が小さくなって、目が一斉に伏せられた。耳が倒れる気配がした。尻尾が下がる気配がした。さっきまでの無言の圧力がきれいに消えて、代わりに漂ってきたのは、どこか所在なさそうな雰囲気だった。
「……何を言ったんだ、ミィちゃん」
ミィちゃんはアルトを一瞥して、またゴロゴロと鳴いた。
その声に促されるように、暗闇の中から最初の一匹が進み出た。
毛色は暗くて夜にはよく見えなかったが、体つきはミィちゃんと同じくらいの子猫だった。毛がぼさぼさに絡まっていて、雪でしっとり濡れていた。岩の手前で止まり、アルトの顔を見た。
それから、アルトの手の中の櫛を見た。
「……ブラッシングしてほしいのか」
子猫は鳴かなかった。ただじっと櫛を見ていた。
アルトは視線を上げて、暗闇を見渡した。光る目たちが全員こちらを見ていた。同じ目をしていた。
「みんなも?」
一斉に目が揺れた。
アルトは少し考えてから、膝を叩いた。
「じゃあ順番に並んで」
並んだ。
本当に並んだ。
一列ではなく、なんとなく固まりながらではあったが、猫たちはアルトの前に順番待ちを作った。先頭の一匹が膝に乗ると、後ろの列がじりじりと前に詰める。アルトがブラッシングを始めると、待っている猫たちは大人しく座って待った。
アルトは一匹ずつ丁寧にやった。
毛の絡まりを指で解してから、流れに沿って櫛を入れる。首の後ろ。耳の裏。脇腹。それから尻尾の付け根。猫ごとに毛質が違った。長い子。短い子。柔らかい子。ごわっとしている子。一匹ずつ確かめながら、力加減を変えた。
猫たちは順番に、とろけた。
目が細くなる。体から力が抜ける。膝の上で横倒しになって、ひげをぴくぴくさせながら喉を鳴らす。さっきまで暗闇に光っていた目が、今は半眼でうっとりしていた。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
音が重なっていった。一匹分の音が二匹になり三匹になり、やがてアルトの周囲全体が低い振動で満たされた。岩が共鳴しているみたいだった。
そのたびに、アルトの体の中に何かが流れ込んできた。
温かいものだった。胸の奥からじわじわと広がって、指先まで届いてくる。魔力が満ちていく感覚は知っていたが、これはその比ではなかった。器に水を注ぐどころではなく、器ごと大きくなっていくような感覚だった。
「なんかポカポカするな」
アルトは焚き火をちらりと見た。
「薪がいい感じに燃えてるのかな」
次の一匹を膝に乗せた。
どのくらい時間が経ったか、アルトには分からなかった。気がつくと、列がなくなっていた。
周囲を見渡すと、猫たちが岩の上や地面にへたり込んでいた。全員が同じ顔をしていた。世界で一番幸せな顔だった。ミィちゃんはアルトの膝の上で完全に眠っていた。
アルトは手を開いたり閉じたりした。疲れていたが、不思議と嫌な疲れではなかった。
と、腹の音がした。
自分のではなかった。
ぐぅ。
また鳴った。今度は別の方向から。
ぐぅぅ。
ぐぅ。
ぐぐぅぅぅ。
アルトは顔を上げた。猫たちが一斉にアルトを見ていた。さっきまでのとろけた顔から一転、切実な顔になっていた。
「……お腹空いたか」
全員の目が輝いた。
アルトは荷物の中を探った。干し肉が少し。乾燥させた芋が二つ。それだけだった。自分一人でも心もとない量だった。
でもアルトは鍋を出した。
雪を溶かして水にして、干し肉を全部入れた。芋も切って入れた。煮詰まらないように火加減を調整して、あとは魔力を少し込めた。旨味が出やすくなるように。食べやすくなるように。
ぐつぐつと煮えてくるにつれて、香りが立ち上がった。
猫たちの鼻がひくひくと動いた。
アルトは味見をした。思っていたよりずっと旨かった。干し肉のだしがよく出ていて、芋が柔らかく溶けかけていた。魔力を込めるとこんなに変わるのかと、アルトは少し驚いた。
浅い岩の窪みに分けて置いてやった。猫たちが恐る恐る近づいて、舌先で舐めた。
次の瞬間、全員が動きを止めた。
それから。
ものすごい勢いで飲み始めた。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
さっきのブラッシング中より大きい音が鳴り響いた。岩が揺れるほどだった。
アルトは自分の分を静かに飲みながらそれを眺めた。貧相なスープのどこがそんなに美味いのかは分からなかったが、喜んでいるなら良かった。
食べ終わった猫たちが、ぞろぞろとどこかへ消えていった。
しばらくして、戻ってきた。
一匹目が咥えてきたのは、淡く光る石だった。握り拳ほどの大きさで、青みがかった光を放っていた。アルトの前にそっと置いて、一歩下がった。
二匹目が咥えてきたのは草だった。金色に輝く細い葉で、触れると指先がほんのり温かくなった。
三匹目が咥えてきたのは魚だった。
巨大だった。猫の体より大きい魚を、なぜか一匹で悠々と咥えていた。鱗が銀色に光って、目が澄んでいた。さっきまで生きていたような新鮮さだった。
続々と置かれていく。
光る石。金色の草。魚。どこで見つけてきたのか分からない木の実。深い赤色の結晶。
アルトはそれを眺めた。
「……これ、僕に?」
全員が鳴いた。
ミィちゃんが膝の上でゴロゴロと鳴いた。
アルトは魚を手に取った。ずっしりと重かった。これ一匹で何日分の食料になるか、すぐに計算できた。光る石は売ればいくらになるか分からないが、見たことのない綺麗さだった。金色の草は、確か何かの薬草に似ていた気がした。
「……明日から大ご馳走では」
思わず声が出た。
猫たちが一斉にゴロゴロと鳴いた。
アルトは魚を大事に抱えながら、積み上がっていくお礼の山を眺めた。焚き火の明かりが、光る石に反射してあちこちにきらきらと散った。
荒野の真ん中で、なぜかアルトの周囲だけが温かかった。




