第2話:白い子猫と手作りの櫛
翌朝、目が覚めると、ミィちゃんがアルトの顔の上に乗っていた。
「……重い」
退けようとしたが、ミィちゃんはびくともしなかった。子猫のくせに、妙に重量感があった。
諦めてしばらくそのままにしていると、やがて自分から退いてくれた。
アルトは起き上がり、空を見上げた。
雪が降っていた。昨夜からずっと降り続けているらしく、周囲の荒野は白く覆われていた。遠くの岩も草の根も、全部雪の下だった。
ただ。
「なんかここだけ降らないな」
アルトの座っている場所だけが、綺麗に雪がなかった。半径で言えば三歩分くらいの円形に、地面が露出していた。
アルトは空を見て、岩壁を見て、また空を見た。
「岩壁の形のせいで風が巻いてるのかな。都合がいいな」
それだけ考えて、朝の支度を始めた。
ミィちゃんが足元でゴロゴロと鳴きながらまとわりついてくるので、踏まないように気をつけながら火を起こした。昨日の残りの肉汁に少し干し肉を足して温める。
半分をミィちゃんの前に置くと、品定めするように匂いを嗅いでから食べ始めた。
「食べるじゃないか」
ゴロゴロ。
「そうか。美味いか」
ゴロゴロゴロ。
アルトも自分の分を食べた。貧相な食事だったが、文句を言う気にもなれなかった。これから何日分持つかを計算する方が先だった。
食べ終わると、ミィちゃんがアルトの膝に乗ってきた。催促するように頭を押しつけてくる。
「ブラッシングか」
ミィ。
「わかった」
アルトは櫛を取り出した。
昨夜よりも毛の状態は良くなっていたが、それでもまだ絡まっている箇所があった。特に首の後ろと、後足の付け根あたりがひどかった。
急がなかった。
時間はたっぷりある。
昨日と同じように、毛の流れを確かめながら少しずつ解いていった。引っかかりを感じたら止まって、指で優しくほぐしてから櫛を入れる。
ミィちゃんは最初のうちこそ大人しくしていたが、しばらくするとだんだん脱力し始めた。四肢がゆっくりと投げ出されていき、腹を上に向けて転がった。
完全に気を抜いた姿だった。
「こら、動くなよ」
ゴロゴロゴロゴロ。
喉の音が大きくなっていた。昨夜よりも明らかに大きかった。岩に反響しているせいかと思ったが、そういうわけでもなさそうだった。ミィちゃん自身から出ている音が、純粋に大きくなっていた。
腹のあたりを軽く撫でると、ミィちゃんの顔がとろけた。
目が細くなって、口元がわずかに緩んで、ひげがぴくぴくと動いた。もう何も考えていない顔だった。世界で一番幸せな生き物の顔だった。
「気持ちよさそうだな」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
アルトは少し笑いながらブラッシングを続けた。
首の後ろ。耳の裏。顎の下。丁寧に丁寧に。毛が整うたびに白さが増して、ミィちゃんがだんだんふわふわになっていった。
と。
荒野の方から音がした。
ガサゴソ。
アルトは手を止めた。
ガサゴソ。ガサゴソ。
複数だった。草の枯れた荒野のどこかで、何かが動いている。風の音ではなかった。
もっと不規則で、生き物らしい音だった。
アルトは静かに立ち上がり、目を細めて暗闇を見た。
日が暮れかけていた。荒野は灰色の闇に沈んでいて、遠くまで見通せなかった。雪の白さだけがぼんやりと広がっていた。
そして。
光があった。
小さな光が一つ。
それがじっとこちらを見ていた。
アルトが息を呑んだ次の瞬間、別の光が現れた。少し離れた場所に二つ。さらに右側に三つ。左に一つ。岩の上に二つ。
どんどん増えた。
緑や金や青や琥珀色の光が、荒野の暗闇の中にいくつも浮かんでいた。対になって並んでいる。全部こちらを向いていた。瞬きをしていた。
目だった。
アルトはゆっくりと数えようとしたが、途中で諦めた。多すぎた。
「……猫か?」
ミィちゃんがアルトの足元で鳴いた。
ミィ。
やけに落ち着いた声だった。
暗闇の中の光る目たちは動かなかった。
逃げもしなかった。ただじっとアルトを見ていた。正確に言えば、アルトの手の中にある櫛を見ていた。
アルトは自分の手を見た。
それから暗闇を見た。
「……もしかして」
ゴロゴロゴロゴロ。
ミィちゃんがアルトの足に頬を擦りつけた。続きをせがむように。
アルトはゆっくりと腰を下ろした。膝の上にミィちゃんを乗せて、ブラッシングを再開した。
暗闇の目たちが、じりじりと近づいてきた。




