第1話:追放されたので、北の荒野へ行きます
「アルト。お前を公爵家から追放する」
父の声は、まるで今日の天気を告げるように淡々としていた。
大広間の暖炉が赤々と燃えている。
その明かりの中で、アルトは静かに目を伏せた。
驚きはなかった。
むしろ、やっと言われたか、という気持ちの方が大きかった。
「異存はないな」
父が続ける。
隣に立つ兄のカイルは、薄く笑いながら爪を眺めていた。この場に似つかわしくない、のんびりとした仕草だった。
「ございません」
アルトが答えると、父は書類をテーブルに投げた。
「北のコールドランドの領有権だ。お前にくれてやる。せいぜい猫でも追いかけて余生を過ごせ」
カイルが小さく笑った。
それを咎める者は誰もいなかった。
アルトは書類を拾い上げ、一礼して大広間を出た。
廊下に出た瞬間、頬に当たる空気がひんやりとした。屋敷の中なのに、どこかから隙間風が吹いているのだろう。アルトは歩きながら手の中の書類を見た。
コールドランド。北の果ての不毛地帯。常に吹雪が吹き荒れ、人が住めないとされている土地。
その領有権が自分に与えられた「餞別」だった。
十七年間、この屋敷で生きてきた。
魔法の訓練をした。剣も学んだ。
それでも最後に残ったのは、自分のギフトが「テイマー」でありながら、懐いてくれるのが猫だけだという事実だった。
凶暴な魔獣には一切通じない。威圧しようとすると猫が来る。誘惑の魔力を放つと猫が来る。テイムの呪文を唱えると猫が来る。
どこからともなく。いつでも。
役に立たないギフトだった。少なくとも、公爵家にとっては。
アルトは自室に戻り、荷物をまとめた。
大したものはなかった。着替えと、わずかな食料と、木を削って作った手製の櫛。それだけだった。
翌朝、誰に見送られることもなく、屋敷の門をくぐった。
コールドランドへの道は長かった。
馬車を使う金もなく、街道を北へ北へと歩いた。
日が経つにつれて空気が変わっていった。草の緑が失われ、木々がまばらになり、やがて地面が白く凍り始めた。
吹く風が鋭くなった。
耳が痛い。指先の感覚が薄れていく。
アルトは外套をかき合わせながら歩き続けた。
持ってきた食料は半分以下になっていた。
「……着いた」
声に出してみると、白い息が風に散った。
目の前に広がるのは、灰色の荒野だった。遠くまで見渡しても、建物一つない。
枯れ果てた草が風に揺れているだけだった。
空は重く曇り、今にも雪が降り出しそうだった。
ここが自分の領地だった。
アルトはしばらくそれを眺めた。
何か感情が動くかと思ったが、特に何も来なかった。ただ寒かった。
とりあえず風を凌げる場所を探そうと歩き始めたとき、足元に何かが見えた。
岩の陰に、白い塊があった。
近づいて屈み込む。汚れた白い毛。
小さな体。子猫だった。
子猫が一匹、丸くなって倒れていた。
毛はぼさぼさで、泥や氷がこびりついていた。
体が小さく震えているのが見えた。
アルトは手を伸ばし、触れた。
冷たかった。
「……生きてるな」
かすかに胸が動いていた。
アルトは迷わず子猫を抱き上げ、外套の中に入れた。自分の体温で温めながら、風を避けられる岩壁の裏へ回った。
震える手で火打ち石を打って小さな火を起こし、懐の食料から干し肉を一切れ取り出した。柔らかくなるまで手で揉んで、細かくほぐす。魔力をわずかに使って水を温め、そこに溶かした。
できたものはとても料理と呼べるものではなかった。ただの薄い肉汁だ。
でもアルトは子猫の口元にそっと近づけた。
反応がなかった。しばらく待つ。
それからゆっくりと、小さな舌が動いた。
その夜、子猫は目を開けた。
薄い青の瞳だった。宝石みたいな色だと、アルトは思った。
子猫はアルトをじっと見た。
逃げようとしなかった。ただ見ていた。
「ミィ」
小さな声で鳴いた。
「……ミィちゃんって呼んでいいか」
子猫はまた一度鳴いて、それからアルトの膝の上に顎を乗せた。
アルトは木製の手製の櫛を取り出した。刃物を削って作った粗末なものだったが、一応使えた。こびりついた泥や絡まった毛を、ゆっくりと丁寧に解いていった。
急がなかった。引っ張らないように。
痛くないように。毛の流れに沿って、少しずつ。
子猫の体が、だんだん柔らかくなっていくのが分かった。最初は少し強張っていた筋肉が、ほどけていくような感覚だった。
やがてミィちゃんの喉から、低い音が鳴り始めた。
ゴロゴロゴロ。
「気持ちいいか」
ゴロゴロゴロゴロ。
アルトは少し笑った。
今日初めて笑った気がした。
追放されて、荒野に立って、凍えて。
それでも今この瞬間は、なぜか悪くなかった。
膝の上の温かさが、じわじわと手のひらに伝わってきた。
空からは、とうとう雪が降り始めた。
しかし不思議なことに、アルトたちの周囲だけ、雪が積もらなかった。




