第43話:バルド長官
王都を出発する前夜、バルドは胃薬を飲んだ。
念のため多めに持っていくことにした。
報告書も持っていくことにした。視察中も仕事はできる。現地で指示を出せる。
そういう形にしておけば、長官が一週間コールドランドにいても、王都の行政は止まらない。
合理的な判断だった。
それだけだった。
コタツアイスを自分も食べたい、などとは一切思っていなかった。
翌朝、バルドはセルジュ率いる精鋭十二名を従えて王都を出た。
「長官、装備は」
「問題ない」
「防寒は」
「してある」
「胃薬は」
「余計なことを言わなくていい」
セルジュは前を向いた。口元が少し動いていたが、何も言わなかった。
後ろの精鋭たちも前を向いていた。全員の口元が同じように動いていたが、何も言わなかった。
三日かかった。
吹雪が強い日だった。風が横から来た。防寒外套を押さえながら進んだ。
バルドは馬の上で書類を読もうとしたが、風で飛ぶので諦めた。
「もう少しです」セルジュが言った。
「分かっている」
長官として、どんな局面でも動じたことはなかった。観測史上最大の魔力反応も、ドラゴンの庭番も、すべて報告書で受け取って冷静に対処してきた。
現地でも同じようにできる。
一歩、踏み込んだ。
吹雪が、止まった。
バルドは馬の上で動きを止めた。
風が消えた。温かい空気が来た。芝草が現れた。空が、真上だけ青かった。
左右はまだ吹雪いていた。それなのに、ここだけ別の季節だった。
「……」
バルドは何も言えなかった。
やっと戻って来た。その思いだけだった。
精鋭たちが馬から降り始めていた。全員の表情が緩んでいた。
「帰ってきた……」一人が言った。
「お前たちは視察ではなく里帰りのような顔をしているぞ」バルドが言った。
「そんなことはありません」
「そうか」
「里帰りというより、もはや本帰還のような気持ちですが」
「帰ってきた場所が王都だと思いなさい」
庭に入ると、ミィちゃんがいた。
ミィちゃんの目が、バルドを見ていた。
それから、ゴロゴロゴロゴロと鳴いた。
「……」
久しぶりに聞いた可愛い声だった。
足元に、藍色の小型ドラゴンが来ていた。いつの間にか来ていた。バルドの馬の横で、静かに座っていた。
「フシュー」
冷気が出た。
バルドの手が、少しひんやりした。
そのとき、コテージの扉が開いた。
「あ、バルドさん」
エプロン姿の若い男が出てきた。
笑顔だった。
「本当に来てくださったんですね。遠いところをありがとうございます」
バルドは馬から降りた。
「……現場の状況を、直接確認せねばならんと判断した」
「そうですか。ちょうどよかったです」
「何がちょうどよかったのか」
「コタツをまた出していたので」アルトが言った。
「春になったら一緒に食べましょうと言っていた、コタツアイスの準備が整っていますよ」
バルドは表情を動かさなかった。
「そうか」
「どうぞ中へ」
コテージの中は温かかった。
居間にコタツがあった。
大きなテーブルに、神獣毛の布団がかかっていた。白と黒と縞が混ざった、不思議な色合いの布団だった。
ルークが出てきた。
「長官、ちょうどよかったです。局所的温冷干渉システムの準備が整っております」
バルドは止まった。
噂の超兵器だ、とバルドは思った。
「準備を見せてもらえるか」
「どうぞ、こちらへ」
コタツに案内された。
ルークが布団をめくった。
「足を入れてください」
「……入るのか」
「そうです。局所的温冷干渉システムの体験は、実際に足を入れていただくことで初めて効果が分かります」
バルドは足を入れた。
熱が来た。じわっと来た。足の先から、膝へ、腰へ。
「……温かい」
「神獣毛の布団と、ゴロゴロ共鳴熱源です」ルークが言った。
「腰から下の温度が安定化します」
ミィちゃんが布団の中に入ってきた。
バルドの足に触れた。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
振動が来た。
熱が、脈打ち始めた。ゴロゴロ音の周期に合わせて、ゆっくりと揺れていた。
「これが」バルドが言った。
「神獣の共鳴です」
キースが横で手帳に書きながら言った。
「長官の精神弛緩を試算します」
「試算しなくていい」
「承知しました」
アルトが台所から出てきた。
手に器を持っていた。
「コタツアイスです」アルトが言った。
「どうぞ」
イチゴのアイスクリームだった。赤くて、冷たそうだった。
バルドは器を受け取った。
一口食べた。足が温かかった。
ゴロゴロ音が脈打っていた。そこに、冷たくて甘いアイスが口に入ってきた。
「……あ」
声が出た。胃が、温かかった。ずっと痛かった胃が、じわっと温かくなった。
もう一口食べた。
「……」
また食べた。
キースが手帳に書いた。静かに書いた。
バルドは気づかなかった。
「どうですか」アルトが言った。
「美味しいですか」
バルドはしばらく何も言わなかった。
「……悪くない」
アルトが笑った。
「よかったです」
一時間後。
バルドはコタツに入ったまま、通信石を取り出した。
「副長官か」
「はい、長官。現地の状況は」
「問題ない」
「視察は終わりましたか」
「……続行中だ」
「いつ頃ご帰還の予定ですか」
バルドはコタツの温かさを感じながら、窓の外を見た。外の吹雪の音が、遠くに聞こえていた。
「来週の報告会は延期しろ。当面、ここから指示を出す」
しばらく間があった。
「……承知しました」
「以上だ」
通信が切れた。
ミィちゃんが布団から出てきて、バルドの膝に乗った。
重かったが、温かかった。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
「……成長したな」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
バルドは少し間を置いてから、ミィちゃんの頭に手を置いた。
撫でた。
ゴロゴロ音が大きくなった。
「アルト伯爵」バルドが言った。
「はい」
「アイスのおかわりはあるか」
「あります」
「……頼む」
コテージの居間では、全員がコタツに入っていた。
ガイン、バルカン、キース、ルーク、セルジュ、精鋭たちも何人か入っていた。外はまだ吹雪いていた。
アルトがアイスを配って回った。
バルドは二つ目のアイスを食べながら、窓の外を見た。
胃が痛くなかった。
「今日も平和ですね」アルトが言った。
ゴロゴロゴロゴロ。
ミィちゃんがバルドの膝で答えた。
ゴロロロ。
ドラゴンが足元で答えた。
コールドランドの外の吹雪は、今日も続いていた。




