第36話:ドラゴンの温風
水音がした。
朝、コテージの裏手から、サラサラという音が聞こえてきた。
アルトは耳を澄ませた。
風ではなかった。もっと一定の、柔らかい音だった。
裏に回ってみると、岩場の間から澄んだ水がコンコンと湧き出ていた。
聖域の暖かさで解けた雪が地中に染み込み、コテージの裏手に小さな「湧き水」を作っていた。
水は透き通っていて、底の丸い石がはっきりと見えた。
その湧き水の溜まりを覗き込むと、影が動いた。
魚だった。
一匹ではなく、数十匹の銀色の魚が、湧き出る冷たい水に向かって元気に泳いでいた。
コールドランドが凍りつく前から地底の水脈で眠っていた古代の冷水魚が、聖域の暖かさに誘われて湧き水とともに顔を出したようだった。
「綺麗な湧き水ですね。魚まで戻ってきました」
ミィちゃんが隣に来た。川面を覗き込み魚を見た。鼻をひくひくさせた。
前足を水面ぎりぎりまで下げた。
「冷たいですよ」
ゴロゴロゴロゴロ。
気にしていないようだった。
ガインが籠を作った。
細い木の枝を編んで、口が広くて底が細い形にした。流れの中に沈めて、魚が入ったら引き上げる仕組みだった。
ミィちゃんたちが川岸に並んだ。
一列に並んで、水面を見ていた。
「手伝ってくれますか」
全員が川面に前足を向けた。
魚が通った。
ピシャッ。
ピシャッ。ピシャッ。
三匹が同時に跳ね上がった。
籠の中に落ちた。
「すごいですね」アルトが言った。
ゴロゴロゴロゴロ。
得意そうだった。
それから一時間、猫たちと交代しながら魚を獲った。籠が満杯になった。鱗が光っていた。
「燻製にして保存しましょうか」アルトが言った。
ガインが頷いた。
「燻製窯を出すか。ただ、弱火で長くかけるのは手間だな」
ドラゴンが元の大きさに戻り、燻製窯の前まで来た。
「ふーっ」
細い息だった。炎ではなかった。温かい風だった。
窯の温度計を見た。動いていなかった。
「ガインさん、ちょうどいい温度ですか」アルトが聞いた。
ガインが確認した。
「……微動だにしない。ぴったりだ」
ドラゴンが鼻息を鳴らした。フシュー、という音だった。
「器用なトカゲだな」ガインが言った。
ドラゴンがまた鼻息を鳴らした。フシュー。
「褒めてますよ」アルトが言った。
ドラゴンの尻尾がゆっくりと左右に振れた。
燻製が仕上がるまで、ルークが書類を片付けていた。
バルドからの定期通信が来て、ルークが受け取った。
「貢ぎ物の肉二十トンは届いたか。ドラゴンに異常はないか」
「届いています。ドラゴンは問題ありません」
「詳しく教えてくれ。何をしているか」
ルークは燻製窯を見た。
ドラゴンが窯に向かって「ふーっ」と温風を吹いていた。
ルークは少し考えてから言った。
「現在ドラゴンは、当コテージの熱源および水流管理要員として配置されています。湧き水の完全制御および火炎エネルギーの微細加工実験を行っております」
間があった。
「熱源……水流管理」
「ええ。一息吹きかけるだけで、周囲の熱量がミリ単位で調整されております」
「湧き水の完全制御だと」
「はい。コテージ周辺の水資源は概ね把握できている状況です」
長い沈黙があった。
「……分かった。報告ご苦労だった」
通信が切れた。
キースが手帳を持ったまま言った。
「ルーク殿、今のは」
「事実だけ述べました」
「事実ですが、伝え方が」
「正確な報告です」ルークは書類に戻った。
「解釈は長官にお任せします」
燻製が完成したのは夕方だった。
木の香りが充満していた。
引き上げると、魚の表面が飴色になっていた。皮がしっとりしていた。指で割ると、白い身がほぐれた。
縁側に全員で集まった。冷たいお茶を出した。
一口食べた。
皮がパリッとした。身がしっとりしていた。木の香りが鼻を抜けた。塩気が後から来た。
「美味いですね」ガインが言った。
「ドラゴンのおかげで温度が安定しました」アルトが言った。
大型犬サイズになったドラゴンも聞いていた。
「あなたにも」
アルトが大きな燻製魚を三本まとめてドラゴンに差し出した。
ドラゴンが口を開けて、一本ずつ食べた。
「ゴロロロロ」
弱めの地響きだった。
「気に入りましたか」
「ゴロロロロロ」
「よかった」
ミィちゃんがデッキでお茶の横に座っていた。自分の燻製を食べ終わって、毛繕いをしていた。
「バルドさんにも送りましょうか」アルトが言った。
「日持ちもしますし。遠くてもちゃんと届きますよね、ルークさん」
「届きます」
「じゃあ少し余分に作りましょう。せっかくドラゴンが手伝ってくれましたし」
ルークは書類に何か書き始めた。
王都に燻製魚が届いたのは、四日後だった。
木の箱に入っていた。蓋を開けると、香りが出た。
バルドが受け取った。
一本取り出した。
見た。
飴色だった。
割ってみた。白い身がほぐれた。
一口食べた。止まった。
皮がパリッとしていた。身がしっとりしていた。木の香りと塩気が混ざって、後から旨味が来た。
「……うまい」
もう一口食べた。
「美味すぎる」
副長官が横にいた。
「長官、次回は水資源の権利金として献上金を増やしますか」
バルドは燻製を食べながら少し考えた。
「これがドラゴンを熱源として使った男の燻製か」
「そうなります」
「倍で頼む」
「献上金をですか」
「燻製を。あと献上金も倍で」バルドは言った。
「胃が痛い」
副長官が退出した。
バルドは窓の外を見た。
王都の空が、春から初夏に変わりかけていた。
また一口、燻製を食べた。
美味かった。
胃は痛かった。




