第34話:神獣の成体
三日後の朝だった。
バルドからの通信石が、いつもより強く光った。
「アルト伯爵、聞こえるか。緊急だ」
「聞こえますよ」
「聖域の東方向、かつてこの地に封印されていた古代魔獣が、雪解けとともに目覚めた模様だ」
バルドの声が速かった。
「規模は観測史上最大。直ちに避難を」
「古代魔獣」
「ドラゴンの原型に近い存在だ。過去に王都の騎士団が総動員しても倒せなかった記録がある。今すぐ」
「分かりました」アルトが言った。
「教えてくれてありがとうございます」
通信が切れた。
ガインが鑿を置いた。バルカンが機織り機から立った。キースが手帳を閉じた。ルークが書類を置いた。
全員が顔を見合わせた。
「どうするか」ガインが聞いた。
アルトが答える前だった。
ミィちゃんが、アルトの膝からすっと降りた。
音がなかった。庭に向かって歩いた。ゆっくりとした歩調だった。急いでいなかった。それなのに、一歩ごとに何かが変わっていった。
空気が変わった。
風が止まった。
庭に出たミィちゃんが、立ち止まった。
尾がゆっくりと一度振れた。
その瞬間、全身から光が滲んだ。金色と銀色が混ざった光だった。毛の一本一本が輝いていた。
百匹の猫たちが、音もなく整列し、後ろに並んで、頭を垂れた。
東の方角から、地面が揺れた。重い足音だった。遠くて、しかし着実に近づいていた。
木々の向こうに、影が見えた。
巨大だった。
鱗が黒くて、翼が広がっていた。目が赤かった。地面を踏むたびに土が沈んだ。
古代魔獣が、コテージの庭に入ってきた。
ミィちゃんを見た。
止まった。
ミィちゃんが古代魔獣を見た。
青い目だった。
何も変わらない目だった。
古代魔獣の全身が、微かに震えた。翼が折れた。首が下がった。膝が折れた。
音を立てて、地面に伏せた。
「グルニャ」
ミィちゃんが一言鳴いた。低くて、短い声だった。古代魔獣が、頭を地面にこすりつけた。それだけだった。
キースが手帳を開いた。ペンを持ったが、何も書けなかった。
「書くことが多すぎて、どこから書けばいいか」キースが呟いた。
ガインが庭を見た。
「デカいトカゲが来たな」
「ドラゴンの原型だそうです」ルークが言った。
「トカゲだ」
古代魔獣が庭で伏せていた。ミィちゃんがその頭の上に乗った。前足で一度踏んでから、座った。
古代魔獣は動かなかった。
「あの魔獣も仲間になりましたね」アルトが言った。
「なりましたね」ルークが言った。
目が少し遠かった。
「庭が狭くなりますかね」
「なりますね」
「奥の方を少し広げましょうか」
「広げましょうか、と言いますが」ルークは古代魔獣のサイズを確認した。
「コテージより大きいんですが」
「工夫すれば何とかなりますよ」
ガインが腕を組んだ。
「まあ、なるだろう」
ひとしきりして、ミィちゃんが古代魔獣の頭から降りてきた。
くるりと振り向いて、コテージへ歩いてきた。ゆっくりとした歩調だった。さっきまでの光は消えていた。白くて丸い猫だった。
アルトの足元まで来た。
頭をアルトの脛に押しつけた。
それから膝の上に、ズサッと乗ってきた。
重かった。
「重いですよ、ミィちゃん」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
「でも、やっぱり僕のミィちゃんですね」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
膝からはみ出ていた。後足が垂れていた。それでもミィちゃんは収まる気でいた。アルトも抱え込む気でいた。
春の風が吹いた。
庭では古代魔獣が伏せていた。百匹の猫たちが思い思いの場所に散っていた。
「今日も平和ですね、ミィちゃん」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
コールドランドの午後は、穏やかに過ぎていった。
王都では、バルドが副長官からの報告を聞いていた。
「聖域からの続報です。古代魔獣は現在、コテージの庭で伏せている模様です。制圧されたと思われます」
「誰が制圧したんだ」
「ミィちゃんが、一鳴きしただけだと」
バルドは手で顔を覆った。
「それと」副長官が続けた。
「聖域の主が成体になり、神話級の魔獣を庭番にした、という情報が」
「庭番」
「はい。コテージの庭の見張り役として、古代魔獣が配置された模様で」
バルドは椅子に深く沈んだ。
「今、アルト伯爵は何をしているか分かるか」
副長官は通信石に確認を入れた。
「ミィちゃんを抱っこしてお昼寝中だそうです」
バルドはしばらく何も言わなかった。
「そうか」
「何か対応を」
「何もしなくていい」バルドは目を閉じた。
「起こすな」
副長官が退出した。
バルドは天井を見た。
古代魔獣が庭番。神話級の神獣の頂点が成体に。王国が総動員しても倒せなかった存在が一鳴きで平伏。
そのすべての主が、今は猫を抱っこして昼寝をしている。
「胃が痛い」
誰もいない執務室で、バルドは呟いた。




