第30話:足りないもの
王都の宮廷工房で、バルドが腕を組んでいた。
目の前に、コタツがあった。
マホガニー材の天板だった。脚が四本で、建付けが完璧だった。軍用の第三世代魔導コアが熱源に組み込まれていた。布団は王都最高の職人が仕立てた極上の羽毛布団だった。
全部、アルトの図面通りだった。
「入ってみましょうか」
バルドとフォルクス公爵と副長官が、揃って足を入れた。
温かかった。
「温かいですね」副長官が言った。
「温かい」バルドが言った。
「温かいのだが」フォルクスが言った。
「なんか、違う」
沈黙があった。
全員が同じことを思っていた。
温かかった。それだけだった。あのスープを飲んだときの、魂がほどけるような感覚が、まったくなかった。コタツに入っているのに、書類のことが頭にあった。夜会のことが頭にあった。明日の会議のことが頭にあった。
「術式は図面通りです」魔導師が言った。「出力も温度も完璧に再現しています」
「建付けも寸分違いません」宮廷職人が言った。
「材料は聖域のものより上質なものを使っています」
バルドはコタツから足を出した。
「何かが足りない」
「何でしょうか」
「分からん。だが決定的に足りない」
フォルクスがコタツから出た。眉間に皺が戻っていた。コテージで羽織ったあの外套を触っていたときは消えていた皺が、今は完全に戻っていた。
「ルーク商会に連絡する」バルドが言った。
コールドランドのコテージでは、アルトが団子を丸めていた。
コタツの天板の上に、小麦粉と水を混ぜたものがあった。親指くらいの大きさに丸めて、並べていた。
「みたらし団子です」アルトが言った。
「王都から届いた黒蜜と醤油があったので」
「コタツから出ないのか」ガインが聞いた。
「出ません」
「作業は」
「天板の上で全部できます」
ガインは少し考えてから、コタツの布団をめくって炭を持ってきた。小さな七輪を天板の上に置いた。炭を熾した。
網を乗せた。
「焼けるな」
「焼けますね」
アルトが団子を串に刺して、網の上に乗せた。
しばらくすると、焦げた匂いがしてきた。醤油の甘辛い匂いが混ざった。黒蜜の甘さが後から来た。
キースが手帳を持ったまま顔を上げた。
「焼けましたか」
「もう少しです」
「もう少しとは何秒ですか」
「見て判断します」
キースは手帳を閉じた。判断を待った。
団子が膨らんできた。表面に焦げ目がついた。アルトが串を回した。反対側にも焦げ目がついた。
「できました」
アルトが醤油と黒蜜を合わせたタレを塗った。
じゅっと音がした。
匂いが強くなった。
バルカンが作業場から走ってきた。
扉を開けた瞬間、匂いに当たった。
止まった。
「今から作業の区切りをつけます」バルカンが言った。
「どうぞ」
バルカンがコタツに入った。
全員で団子を食べた。熱かった。
外側がカリッとして、中がもちっとしていた。タレの甘辛さが舌に広がって、黒蜜の深みが後から来た。
「ハフハフする」ガインが言った。
「熱いですからね」アルトが言った。
「ハフハフしながら食べるのが良い」
「そうですね」
ルークが書類を手に持っていたが、団子を受け取るために書類を布団の上に置いた。一口食べた。
「コタツの上で完結する食文化が」ルークが言った。
「この一週間で信じられないスピードで」
「美味しいですか」
「非常に」
ゴロゴロゴロゴロ。
ミィちゃんが団子の匂いに釣られてアルトの膝に乗ってきた。
「ミィちゃんには甘いものはあまりよくないですよ」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
「それよりブラッシングしますか」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
アルトは片手で団子を食べながら、もう片方の手でブラッシングを始めた。
そのとき、魔導通信の石が光った。
ルークが受け取ると、バルドの声が出た。いつもより少し緊張していた。
「ルーク商会、緊急の発注がある」
「はい」ルークは団子を飲み込んでから言った。
「王都でコタツを作った。図面通りに、国家予算を使って、最高の職人と魔導師で作った」
「それは良かったです」
「ただの温かい机にしかならなかった」
「なるほど」
「聖域のコタツには、何か決定的に違うものがある。それを至急送ってほしい。価格は問わない。国家予算から出す」
ルークは団子の串を置いてキースを見た。
キースは手帳を開いた。
「当然です」キースが言った。
バルドが「誰だ今の声は」と言った。
「キース・ド・アルバンです。長官、お久しぶりです」
しばらく間があった。
「キース。お前、まだそこにいるのか」
「います」
「いつ戻る気だ」
「未定です」
「……それは後で話す。聖域のコタツに何が足りないか、説明しろ」
キースは手帳を見た。
「二つあります」
「言え」
「一つ目。布団がバルカンの織った神獣毛の布団ではないこと。王都の羽毛がどれだけ上質でも、ミィちゃんたちの冬毛が持つ魔導共鳴と断熱性は再現できません」
「猫の毛か」
「二つ目。熱源にミィちゃんのゴロゴロ音の固有振動数が組み込まれていないこと。この多幸感の核がなければ、温かいだけの机です」
沈黙があった。
「猫の毛と」バルドが言った。
「猫のゴロゴロ音だと」
「はい」
「繊維は送れるとして」バルドの声が変わった。
「音をどうやって送るのだ。音は物ではないぞ」
アルトが顔を上げた。
「あ、それなら」
「アルト伯爵か」
「ミィちゃんのゴロゴロ音を、魔導コアに記憶させて送ればいいんじゃないですか」アルトは膝のミィちゃんを見た。
「ちょうど今、大きな声で鳴いていますし」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
「今聞こえているのは」バルドが言った。
「ミィちゃんです。団子の匂いが気に入ったみたいで」
「団子」
「コタツの上で焼いていました」
また沈黙があった。
「コタツの上で団子を焼いていたのか」
「七輪を使えばできますよ」
「……至急、その音を送ってくれ。それと布団も。価格は言い値でいい」
「分かりました」
通信が切れた。
アルトは余っていた魔導コアを一つ取り出した。ミィちゃんに向けた。
「ちょっとだけ声を入れさせてくれな、ミィちゃん」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
「ありがとう」
魔力をコアに流した。ミィちゃんのゴロゴロ音の波動が、そのままコアの中に定着した。コアが、微かに温かくなった。
ルークが手帳を開いた。
「王都への追加輸出が確定しました」ルークが書きながら言った。
「商品名、聖域の神毛布団および、ミィ様ゴロゴロ魔導コア。価格は言い値」
「ゴロゴロ魔導コアというのは、なかなか不思議な商品名ですね」アルトが言った。
「他に何と書けばいいですか」
「ミィちゃんの声、ではどうでしょう」
「それはそれで不思議ですが、まあいいです」
バルカンが布団を織るために立ち上がった。
唯一コタツから出た人間だった。
「ミィちゃんの毛で最高の布団を織ってやる」バルカンは作業場に向かいながら言った。
「王都の連中に、本物を教えてやる」
数日後。
王都の宮廷工房で、バルドとフォルクスが再びコタツの前に立っていた。
布団が変わっていた。
白と黒と縞が混ざった布団だった。触れると指が沈んだ。
熱源コアも変わっていた。
足を入れた。
「……あ」
フォルクスが言った。それだけだった。
眉間の皺が消えた。バルドは何も言わなかった。言う必要がなかった。
熱が、脈打っていた。ゴロゴロ音の周期に合わせて、ゆっくりと揺れていた。魂がほどけるような感覚が、足先から来た。
ゴロゴロゴロゴロ。
コアの中から、低い音が聞こえた。
「これだ」フォルクスが言った。
「そうですね」バルドが言った。
「なぜこんなに」
「猫の毛と、猫の声だからです」
フォルクスは布団を撫でた。
「猫が、ここまでのものを作るのか」
「正確にはアルト伯爵が猫を愛しているから、です」
フォルクスは何も言わなかった。コタツから出る気になれなかった。
コールドランドのコテージでは、アルトが七輪に炭を足していた。団子がまだ残っていた。
「お団子、まだ余ってますよ」
全員がコタツから手を出した。ミィちゃんがアルトの膝でゴロゴロと鳴っていた。
窓の外では猛吹雪が続いていた。
コテージの中は、今日も温かかった。




