第29話:救世主
コタツが完成してから一週間が経った。
アルトは把握していた。
把握していたが、特に問題ないと思っていた。
コテージの居間では、全員がコタツに入ったままだった。
ガインは右側で横になっていた。
バルカンは左側で機織りの設計図を書こうとして途中で止まっていた。
キースは手帳を胸の上に乗せたまま、コタツ内の最適な睡眠角度を研究していた。
研究の結果として、今は四十五度の角度で壁に背中を預けていた。
ルークだけが書類を手に持っていた。持っているだけで、読んでいなかった。
「ルークさん、書類は大丈夫ですか」アルトが聞いた。
「大丈夫です」
「読んでいますか」
「読もうとしています」
「読めていますか」
ルークは少し間を置いた。
「文字が温かく見えます」
アルトは頷いた。そういうこともあるかと思った。
ミィちゃんがコタツの中心部でゴロゴロと鳴っていた。熱波がゆっくりと脈打っていた。
窓の外は吹雪になっていた。
通信が来たのは、その日の昼過ぎだった。
魔導通信の受信石が光った。アルトがコタツから手を伸ばして取った。コタツから出なかった。
石が光ったまま、バルドの声が出た。
「ルーク商会、至急連絡されたし」
いつもより平坦な声だった。抑えた声だった。
「王都の社交界が崩壊寸前である。先日流通したゼリーと外套の影響で、貴族たちが次の聖域の品を求めて深刻な状態になっている。夜会では、コールドランドの品を持たざる者は人にあらずという謎の序列が形成されており、利権争いで決闘が三件発生した」
全員がコタツの中で目を開けた。
「このままでは冬の間に王都の中枢が内側から崩壊する。何か、何でもいいから市場に品を出してほしい。商品の種類は問わない。量も問わない。ただ、コールドランドから来たものであれば」
バルドは一瞬止まった。
「食べた方が楽なのだ。以上」
通信が切れた。
居間が静かになった。
ゴロゴロゴロゴロ。
「決闘が三件」ガインが天井を見ながら言った。
「ゼリーと外套のせいで」バルカンが言った。
「人間というのは不思議なものですね」アルトが言った。
ルークがコタツから顎だけ出した。
「自業自得ですね」
「そうですね」
「放っておきましょう。外は寒いですし」
「そうですね」アルトは同意した。
「ただ、内戦は物騒ですね」
「物騒ですが、コタツから出たくないですし」
「出なくてもいいかもしれないです」
「どういう意味ですか」
アルトは居間を見渡した。コタツの上に、王都から届いた荷物の一部が置かれたままだった。スパイスの瓶が数本。それから台所には、ガインの干し肉の端切れと乾燥野菜の袋があった。
「王都から届いたスパイスと、ガインさんの干し肉の端切れと、乾燥野菜が余っていますよね」
「余っていますね」
「これを全部一緒に煮詰めて、キースさんの魔法でぎゅっと固めたら、お湯に溶かすだけでスープになりませんか」
キースが手帳を持ったまま半分起き上がった。
「スープの素ですね」
「そうです。四角く固めたら持ち運びやすくて、お湯があればどこでも飲めます」
「技術的には可能です」キースは眼鏡を押し上げた。
「魔力圧縮で旨味成分を固体化する術式は、薬の錠剤を作るものを応用すれば」
「それをコタツの上で作れますか」
「コタツの上で」
「外に出なくていいように」
キースは少し考えた。
「やります」
バルカンが布団の中から呟いた。
「旨味を四角く圧縮して閉じ込める。スープの織物だな。繊維の密度と同じ原理だ。悪くない」
「じゃあやりましょうか」アルトが言った。
ルークだけが黙っていた。
「ルークさん、どうかしましたか」
「今、コタツの上で内職をしながら王都の内戦を止めようとしている状況を、冷静に把握しようとしています」
「把握できましたか」
「できましたが、受け入れるのに少し時間が」
「ゆっくりどうぞ」
作業は全員コタツに入ったままだった。
アルトがコタツの天板の上に材料を並べた。スパイスの瓶を開けた。干し肉を細かく刻んだ。乾燥野菜を手で崩した。小鍋に水を入れて、コタツの熱源に直接かけた。ちょうどいい温度だった。
煮始めると、匂いが出てきた。
スパイスと肉の香りが混ざった。乾燥野菜が戻りながら旨味を出した。
「いい匂いですね」ガインが言った。
「できあがりが楽しみです」バルカンが言った。
キースが鍋を覗き込んだ。
「頃合いですね」
術式を展開した。コタツの熱源コアと連動させて、鍋の中の水分だけを抜いた。旨味が凝縮されていった。だんだん固まってきた。
ミィちゃんがコタツの中からごろりと動いた。鍋の匂いが気になったらしかった。布団の端から鼻だけ出して、ひくひくさせていた。
「ミィちゃん、熱いから気をつけろよ」ガインが言った。
ゴロゴロゴロゴロ。
鍋の中の塊が、少し振動した。
「今、ゴロゴロ音が混ざりましたね」アルトが言った。
「混ざりました」キースが確認した。
「ミィちゃんの固有振動数が、圧縮の過程で旨味成分に定着しています」
「問題ありますか」
「ないです。むしろ多幸感が上乗せされます」
固まった。
茶色い、四角い塊だった。
アルトが一つ取って、お湯を張った椀に入れると、溶けてスープになった。
一口飲んだ。
「美味しいですね」
全員が椀を受け取った。飲んだ。
ガインが目を細めた。バルカンが鼻をすすった。キースが手帳に何か書き始めた。ルークが書類を完全に放り出した。
「これを王都に送れば」ルークがスープを飲みながら言った。
「決闘を止められますね」
「そう思います」
「コタツから一歩も出ずに」
「出なくていいですね」
ルークはスープを飲み干した。
「分かりました。オズワルド殿の流通網を使います。伝書だけ書けばいい」
「お願いします」
ルークは書類を一枚だけコタツの上に引っ張り出して、書いた。
伝書はその日の夕方に出た。
王都に届いたのは翌々日だった。
バルドがオズワルドから受け取ったとき、中身を見て首を傾けた。茶色い四角い塊が、小箱に十二個入っていた。
「これは何だ」
「コールドランドから来たと聞きましたが」
バルドはお湯を頼んで、一つ入れてみた。
溶けた。匂いが広がった。
バルドは椀を持ったまま、しばらく動かなかった。
それから一口飲んだ。
「……分かった」
副長官に配れと言った。それから貴族街に流せと言った。量が足りなければオズワルドに追加を頼めと言った。
全部事務的な口調で言った。
翌日、王都の貴族街に聖域の救済物資という名目でスープキューブが配られた。
銀の器にお湯を注いで溶かすと、濃厚な旨味の匂いが館中に広がった。決闘の準備をしていた貴族が、剣を持ったまま止まった。一口飲んだ。
止まった。もう一口飲んだ。
「おお」声が出た。
「おお、温まる」
「身体の芯から」
「争っていた場合ではなかった」
「そうだ。血を流して手に入れるものなど、この世にあるはずがない」
「その通りだ」
決闘の約束が三件、その日のうちに取り下げられた。
王都の夜が静かになった。
翌朝、バルドから通信が来た。
アルトがコタツから手だけ出して受け取った。
「救われた」バルドが言った。
「貴族たちは全員スープを飲んで、自室で丸くなっている。王都は平和だ」
「よかったです」
「ありがとう。それと、一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「そのスープから、微かに振動を感じるのだが」バルドの声が少し変わった。
「猫が喉を鳴らすような振動だ。気のせいか」
「あ」アルトが言った。
「コタツの中で作ったので、ミィちゃんのゴロゴロ音が混ざったみたいです」
しばらく間があった。
「コタツ」バルドが言った。
「ええ」
「コタツとは何だ」
「大きなテーブルの下に熱源を入れて、布団をかけて、足を入れて温まるものです」
また間があった。
「今、全員そこに入っているのか」
「入っています。外が寒いので」
「ルークも」
「書類を放り出しています」
「キースも」
「最適睡眠角度を研究しています」
「猫も」
「ミィちゃんが中心にいます」
バルドは黙った。長い沈黙だった。
「ずるいぞ」バルドが言った。
「え」
「自分たちだけ温まりおって」バルドの声が、初めて平静を失っていた。
「コタツなどという聖域の結界を、自分たちだけで」
「結界ではないですよ、ただのテーブルで」
「図面を送れ。王都にも作る」
「作り方を書きますね」
「頼む」バルドの声がまた戻った。
「以上だ」
通信が切れた。
居間がまた静かになった。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
「バルド長官がコタツを欲しがっていました」アルトが言った。
「そうですか」ルークが言った。コタツから顎だけ出した顔で。
「図面を送ります」
「それはいいことですね」
「みんなが温かいのはいいことですし」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
コタツの中心部から、重低音が続いた。
コールドランドの外では、吹雪が鳴っていた。
中は今日も温かかった。




