第27話:王都のギルド長
王都の商人ギルド本部は、石造りの重厚な建物だった。
ギルド長のオズワルドは、その最上階で地図を広げていた。七十二歳。王都の商業流通を四十年支配してきた男だった。目が細くて、笑うときに目が笑わないことで有名だった。
「コールドランドの件を報告しろ」
部下が書類を並べた。
「はい。まず外套の件ですが、先日のオークションでフォルクス公爵が国家予算の三割を提示した後、さらに競りが進みまして」
「金額は聞いていない。流通経路を報告しろ」
「ルーク商会が独占しています。産地との契約は口頭のみで、書面の証拠がなく」
「つまり差し押さえが難しい」
「はい。それと乾燥野菜の件ですが、王都の最高級市場で干し大根と干し人参が」
オズワルドは手を上げた。
「干し大根が何だと言った」
「魔石以上の高値で取引されています」
沈黙があった。
「干し大根が」
「はい」
「魔石以上の値で」
「はい。コールドランド産というだけで」
オズワルドは書類を置いた。
四十年、商売をしてきた。珍しい品を見てきた。価格が狂った市場も見てきた。しかし干し大根が魔石より高くなるのは、見たことがなかった。
「ルークという男のことを調べろ」
「調べました。もと辺境の商会の若手で、三ヶ月前から急激に頭角を現しています。コールドランドの辺境伯と独占的な関係にあるようです」
「辺境伯は何者だ」
「アルト・ド・ファルクという十七歳の男性です。王家から全税免除の保護を受けています。特使団が調査に入りましたが、報告書の内容が」
「内容が」
部下は少し間を置いた。
「猫のゴロゴロ音についての考察で終わっていました」
オズワルドは目を細めた。
「私が直接行く」
「しかし辺境伯は王家の保護下にあります。下手に動くと」
「脅しに行くのではない」
オズワルドは立ち上がった。
「視察だ。利権の交渉だ。そのくらいは商人として当然の行動だ」
「はあ」
「ただし」オズワルドは窓の外を見た。
「私兵を十名連れていく。念のためだ」
六日後。
オズワルドは馬車でコールドランドへの道を進んでいた。
隣に私兵の長が座っていた。後続の馬に私兵が九名ついていた。
「コールドランドは極寒の地と聞いたが」オズワルドが言った。
「はい。防寒の準備は万全です」
「向こうには特級魔導士がいるという話だったな」
「はい。ただその魔導士が、猫用の掃除機を作っているという報告で」
「それは別人の話だろう」
「同一人物です」
オズワルドは窓の外を見た。雪が増えてきていた。
「干し大根を魔石以上の値にした男が、どんな手を使っているのか見てやる」
馬車が進むと、コテージが見えてきた。
気温が上がってきた。
「あの」私兵の長が言った。
「暑くないですか」
「気のせいだ」
「暑いです」
「気のせいだと言っている」
緑が見えてくると、オズワルドは目を細めた。
馬車を止めて降りた。
コテージの前の芝草に、大小様々な猫が転がっていた。隣の小屋から機織り機の音がしていた。コテージの窓から、誰かが魔力を細かく調整している気配がした。
「ここが」オズワルドは見渡した。
「王都の経済を揺るがしている場所か」
見た目は、ただのコテージだった。
温泉の湯気が上がっていた。
匂いが来た。チーズの、濃厚な匂いだった。温かくて、香ばしくて、乳の甘みが混ざっていた。
オズワルドは鼻を動かした。
四十年、食にも気を使ってきた。王都の最高級の料理人を何人も知っていた。しかしこの匂いは、それとは別の種類の匂いだった。もっと根本的な何かに訴えてきた。
「集中しろ」オズワルドは自分に言った。
「商売だ」
扉を開けた。
コテージの中を見た。
眼鏡をかけた若い男が、木の筒に向かって魔力を流していた。真剣な顔だった。精密な作業らしかった。
「精神干渉の陣か」オズワルドが呟いた。
「音波の調整です」男が顔を上げた。
「掃除機のノイズが猫の不快周波数に少し被っていたので」
「掃除機」
「猫の抜け毛取りです。何かご用ですか」
「コテージの主に会いたい」
「アルト伯爵なら台所にいます」
奥から声がした。
「あ、お客様ですか。ちょうどいいところに」
茶色い髪の若い男が出てきた。エプロンをしていた。鍋を持っていた。
「フォンデュができたところで。よかったらどうぞ」
オズワルドは男を見た。
これが、王都の経済を揺るがしている辺境伯か。エプロンをしていた。
「私はオズワルド。王都の商人ギルド長だ」
「そうですか。遠くからありがとうございます。座ってください」
「座る前に話がある。貴殿の流通について、ギルドとして看過できない部分があって」
「熱いうちに食べた方がいいですよ」アルトは鍋をテーブルに置いた。
「チーズが固まってしまうので」
「話を聞いてくれ」
「聞きながらでも食べられますよ」
オズワルドは鍋を見た。
チーズが溶けていた。とろとろに溶けて、湯気が上がっていた。パンが小さく切って並んでいた。野菜も串に刺してあった。
私兵の長がオズワルドの隣で鼻を動かした。
「フォンデュというのは」オズワルドが言った。
「チーズを溶かして、パンや野菜を付けて食べるものです」アルトは串を一本渡した。
「ガインさんが三ヶ月熟成させたチーズなので、よかったら」
オズワルドは串を受け取った。
受け取ってから、なぜ受け取ったのかと思った。しかし鍋が目の前にあった。チーズが湯気を上げていた。
「一口だけ」
オズワルドは串をチーズに沈めた。引き上げると、チーズが糸を引いた。
かじった。思考が停止した。
チーズの塩気が広がった。パンの麦の甘みと混ざった。熟成チーズの複雑な旨味が後から来た。
「……」
もう一口行った。止まらなかった。
「美味い」声が出た。
「なんだこれは。チーズが」
「三ヶ月熟成です」
「それだけか」
「あとはアルトが魔力を込めて煮ました」
キースが作業しながら言った。
「魔力を込めると旨味の抽出効率が上がります」
「魔力を込めたチーズか」オズワルドは串を持ち直した。
「王都の最高級チーズより」
「上ですか」キースが聞いた。
オズワルドは答えなかった。
答えの代わりに、次の串を取った。
そのとき、足元で何かが動いた。見ると、白い球体が来ていた。丸くて、ふわふわしていた。オズワルドの足に頬を擦りつけた。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
オズワルドは下を見た。
「なんだこれは」
「ミィちゃんです」アルトが言った。
「気に入られたようですね」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
音が大きくなった。
オズワルドは四十年、商売をしてきた。人を見る目があった。値踏みする目があった。弱みを探す目があった。
その目が、白い球体の前で機能しなかった。
「触っていいか」
「どうぞ」
オズワルドは手を伸ばした。指が冬毛に沈んだ。
「……柔らかい」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
重低音が床から来た。骨に響いた。
オズワルドは動けなくなった。チーズが美味かった。猫が温かかった。
コテージが穏やかだった。四十年、何のために利権を積み上げてきたのか、という考えが、どこからか来た。
「私は」オズワルドが言った。
声が少し変わっていた。
「今まで何を汚い金のために争っていたんだ」
キースが手帳を出した。
「計測終了。二十八分四秒です」
ガインが作業台から顔を上げた。
「今回は早かったな」
「欲の深い人間ほど、聖域の純粋さに当てられた際の拒絶反応が激しい傾向があります」
キースは手帳に書いた。
「崩壊が速いというデータが得られました」
私兵たちがフォンデュに群がっていた。全員がチーズを付けたパンを食べていた。誰も警備をしていなかった。
ルークが書類から顔を上げた。
「またですか」
「またです」キースが言った。
ルークは冷めたお茶を一口飲んだ。
オズワルドはミィちゃんを撫でながら、呆然とした顔をしていた。
「アルト伯爵」オズワルドが言った。
「はい」
「一つ聞かせてくれ」
「どうぞ」
「このチーズは、どこで仕入れている」
「ガインさんが作っています。余ったミルクで」
「余ったミルクで三ヶ月熟成させたものが」オズワルドは鍋を見た。
「これになるのか」
「なりました」
オズワルドはしばらく黙っていた。
ゴロゴロゴロゴロ。
ミィちゃんが膝に乗ってきた。オズワルドの膝に、白い球体がすとんと収まった。
「ルークという男と」オズワルドが言った。「話をしたい」
「私ですか」ルークが立ち上がった。
「ギルドの流通網を、コールドランドのために使わせてほしい。条件は向こうが決めていい」
ルークは少し間を置いた。
「先ほどまで、利権をむしり取りに来たのではないんですか」
「忘れた」
「忘れたんですか」
「ミィちゃんを撫でていたら忘れた」
ルークはオズワルドを見た。膝に白い球体を乗せて、とろけた顔をしている老人を見た。
四十年、王都の商業を支配してきた男が、猫を撫でながら「条件は向こうが決めていい」と言っていた。
「承知しました」ルークは椅子に座り直した。
「では、いくつか条件を」
「何でも聞く」
ルークは書類を取り出した。こんな交渉は、十年商売をしていて一度もなかった。
夜になった。
オズワルドと私兵たちは、温泉に入ってから帰ることになった。私兵の長が「ぜひ」と言い出したからだった。
キースが手帳を閉じた。
「本日の記録です。商人ギルド長の精神崩壊まで二十八分四秒。フォンデュによる味覚攻撃が第一段階、ミィちゃんによる音波攻撃が第二段階。完全陥落の指標として、利権放棄の宣言を確認しました」
アルトは洗い物をしながら聞いていた。
「攻撃ではないですよ」
「客観的な記録としては、攻撃に分類されます」
「ただ食べてもらっただけで」
「それが攻撃です」
アルトは首を傾けた。よく分からなかった。ミィちゃんがアルトの足元に来た。
ゴロゴロゴロゴロ。
「今日も大勢来ましたね、ミィちゃん」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
「みんな帰るときは楽しそうだったし、よかったですね」
ルークがお茶を飲みながら言った。
「また王都の巨頭が一人、猫の前に平伏しました」
「そうですか」
「これで王都の商流が、完全にコールドランド寄りになります」
「それはよかったですね」
「よかったですね、じゃないんですが」
ルークはお茶を置いた。
「まあ、よかったんですが」
窓の外で、温泉から笑い声がした。私兵たちが楽しそうだった。
コールドランドの夜は、今日も穏やかだった。




