第26話:夜会の共鳴
ルークが出発の朝、アルトが台所に立っていた。
「お弁当を作っています」
「お弁当」
「道中お腹が空くでしょうから」
ルークは革の旅行鞄を持っていた。中には、バルカンが三日かけて織り上げた外套が一着、白い布に包んで入っていた。これから王都に持っていく。それだけで国家予算が動く可能性があった。
アルトは土鍋に蓋をして、風呂敷に包んだ。
「ガインさんのチーズと、乾燥野菜のグラタンです。魔導容器に入れてあるので、冷めても温め直せます」
「ありがとうございます」
「それと」アルトは小さな袋を出した。
「ゼリーも少し。移動で疲れたときに」
ルークは弁当と袋を受け取った。
キースが懐中時計を出した。
「グラタンの熱量とカロリー、および旅人の幸福度への寄与を試算します」
「試算しなくていいです」
「承知しました」キースはしまった。
「道中お気をつけて」
「ありがとうございます」
ルークは馬に乗った。振り返ると、コテージの前でアルトが手を振っていた。足元でミィちゃんが転がっていた。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
ルークは王都へ向かった。
馬上で弁当を開けたのは、昼過ぎだった。
土鍋の蓋を外すと、湯気が出た。
チーズが表面でとろけていた。乾燥野菜が柔らかくなって、底に沈んでいた。魔導容器のおかげで、出発から四時間経っても出来立ての温度だった。
一口食べた。固まった。
チーズが糸を引いた。野菜の甘みとチーズの塩気が混ざった。底から旨味が染み出してきた。
「……アルトさんは」
ルークは馬上で独り言を言った。
「なぜ余り物でこういうものを作れるんだ」
もう一口食べた。王都に着く前に、脳が現実から逃げ出しそうだった。
王都の限定夜会は、上流階級だけに声がかかるものだった。
公爵家が四家、侯爵家が六家、それから王家御用達の大商会の代表が数名。全員が同じ噂を聞いていた。コールドランドの辺境伯領から、特別な品が出るらしいと。
会場は王都の高級宿の最上階だった。シャンデリアが灯っていた。暖炉が二台あったが、夜会の熱気で必要なかった。
ルークが到着したとき、全員の視線が集まった。
「お待たせしました」
ルークは革鞄を台の上に置いた。
「本日は一点のみです」
白い布の包みを取り出した。
ほどいた。外套が現れた。
白と黒と縞模様の混ざった色合いだった。光の当たり方によって変わった。バルカンの織りが、繊維に光の動きを閉じ込めていた。
「コールドランド辺境伯領の限定一着です」ルークが言った。
「他に存在しません」
貴族の一人が鼻を鳴らした。
「ただの毛皮の外套ではないか。我が家の衣装部屋にも同程度のものが」
「お触りになりますか」ルークが言った。
「品定めくらいしてやろう」
手を伸ばした。触れた。止まった。
「……」
指が、引っ込まなかった。
「どうかなさいましたか」隣の貴族が聞いた。
「……柔らかい」
「それだけですか」
「いや、柔らかいのではなく」貴族は首を傾けた。
「なんか、落ち着く」
「落ち着く」
「ゴロゴロしたい気持ちになる」
「は?」
会場がざわめいた。
その場で最も格上の人間は、フォルクス公爵だった。
七十代で、眉間の皺が永久固定されていた。王都で最も気難しいと言われていた。昨年、お気に入りの料理人がゼリーを作れなかったという理由で屋敷を変えたという話があった。
「私が品定めしよう」
フォルクスが外套を手に取った。羽織った。止まった。
会場が静かになった。
フォルクスは動かなかった。
十秒経った。
「……あ」
声が出た。
フォルクスの顔から、眉間の皺が消えた。
永久固定のはずだった皺が、するすると消えた。目が細くなった。口元が緩んだ。肩が下がった。
「温かい」フォルクスが言った。
「いや、温かいのではない。これは」
会場の全員が息を飲んだ。
「抱かれている」
「公爵閣下?」
「猫に」
フォルクスは恍惚とした顔で言った。
「猫に抱かれているような」
「公爵閣下!」
フォルクスの喉から、低い音が鳴り始めた。
ゴロゴロゴロゴロ。
会場がパニックになった。
「公爵閣下が鳴っている!」
「なぜ!」
「外套のせいか!」
「外套を脱がせろ!」
「嫌だ!」
フォルクスが叫んだ。七十年生きてきて初めて聞くような声だった。
「この服は渡さん! 国家予算の二割出す! いや三割だ! 誰も触るな!」
フォルクスは外套を抱えたまま、床に転がった。ヘソ天だった。
公爵が、夜会の床でヘソ天になっていた。
「閣下!」
「触るな! ゴロゴロ!」
ルークは会場を見渡した。
パニックになっている貴族たち。床で転がっているフォルクス公爵。外套に集まる視線の数々。
ルークは心の中で呟いた。
キースのデータ通りだった。王都の人間も、一瞬で陥落した。
「皆様」ルークは声を上げた。
「本日は一着のみの出品です。ご希望の方はご提示額を」
全員が一斉に叫び始めた。
コテージでは、夕食の準備が進んでいた。
グラタンの残りを温め直した。バルカンがチーズを追加で削った。ガインが焼き立てのパンを持ってきた。
「今日はこれだけですか」アルトが聞いた。
「十分じゃ」ガインが言った。
「余ったチーズで作ったわりに美味しいですね」
「失礼な」ガインが鼻を鳴らした。
「わしのチーズが美味くないはずがない」
「そうですね。すみません」
バルカンが小屋から出てきた。
「飯の匂いがした」
「どうぞ」
バルカンはグラタンを受け取って、一口食べた。
「美味い」
「ミィちゃんも起きましたよ」
もみもみベッドの上で溶けていたミィちゃんが、グラタンの匂いにつられて顔を上げた。鼻をひくひくさせていた。
「ミィちゃんの分も作りましたよ」
アルトはチーズを抜いた小さな皿を出した。
「猫にはチーズは多すぎるので、野菜だけですが」
ミィちゃんが起き上がって近づいた。匂いを嗅いで、一口食べた。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
「気に入ったか」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
バルカンが「ミィちゃん様のゴロゴロが今日は特に共鳴している」と言いながら、急いで小屋に戻った。夜のうちに織れるだけ織るつもりらしかった。
夜遅くに、馬の蹄の音がした。ルークが帰ってきた。
顔が疲れていた。しかし目に、普通ではない光があった。大仕事をした人間の顔だった。
「おかえりなさい」アルトが言った。
「お弁当、足りましたか」
ルークは黙って馬から降りた。
鞄を開けた。
書類を取り出した。
土地の権利書が三枚。魔石の目録が一冊。
金貨の引換証が束になっていた。
それをコテージの机にドサッと置いた。
アルトが覗き込んだ。
「これは」
「外套一着の売上です」ルークが言った。
声が平静だった。
「諸々の手数料を引いた後の分です」
アルトは書類を見た。
「随分多いですね」
「フォルクス公爵が三割を提示して、そこから競りが始まりましたので」
「フォルクス公爵というのは」
「王都で最も気難しいと言われている方です」ルークは椅子に座った。
「外套を羽織った瞬間にゴロゴロと鳴き始めて、床で転がりました」
「大丈夫でしたか」
「本人は大変幸せそうでした」
ルークは手で顔を覆った。
「アルトさん。グラタンは残っていますか」
「温めますね」
「お願いします」
ルークは机の上の書類を少し脇によけた。
「今すぐ脳を現実から逃避させたいです」
「そんなに大変でしたか」
「大変というか」ルークは天井を見た。
「猫の毛皮のせいで公爵閣下がゴロゴロしながら床に転がるのを見て、それが普通の光景に思えてきた自分が怖いです」
アルトはグラタンを温め直した。熱々のチーズがとろけた。湯気が上がった。
ルークの前に置いた。
「どうぞ」
ルークは一口食べた。止まった後に目が細くなった。
「……美味い」
「余ったチーズで作ったので」
「余り物で」ルークはもう一口食べた。
「脳が現実に戻ってくる。ありがとうございます」
ミィちゃんがルークの足元に来た。頬を擦りつけた。
ゴロゴロゴロゴロ。
ルークは下を見た。
「……ただいま、ミィちゃん」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
ルークはグラタンを食べ続けた。書類は明日見ることにした。
コールドランドの夜は、今日も温かかった。




