第25話:職人の至高品
バルカンが機織り機を設置するのに、半日かかった。
ガインの作業場の隣に、簡易的な小屋を建てた。ガインが柱を打って、キースが魔法で壁を固めた。屋根はアルトが魔力で仕上げた。昼過ぎには小屋が完成して、バルカンが機織り機を運び込んだ。
問題は機織り機の向きだった。
バルカンが機織り機を置いては動かし、動かしては首を傾けた。三回移動させてから、また少し回転させた。
「何をしているんですか」アルトが聞いた。
「角度を合わせている」
「何の角度ですか」
「ミィ様が見える角度だ」
バルカンは壁に小窓を開けた。コテージのもみもみベッドの方角に向いていた。
「ここから毛の主が見える。ゴロゴロ音の振動を感じながら織ると、糸のテンションが完璧になる」
「そうなんですか」
「理論だ」
アルトは特に疑問を持たなかった。
キースが手帳に書いた。
「移住後二十四時間。職人の精神は完全にコールドランド仕様に書き換わりました」
「書き換わったって、どういうことですか」
「要するに、もう王都には戻れないということです」
バルカンは機織り機の前に座った。満足そうな顔をした。窓から、コテージの中でミィちゃんが溶けているのが見えた。
「完璧だ」
ゴロゴロゴロゴロ。
「ああ、聞こえる。今日も最高の振動だ」
バルカンが糸を張り始めた。
翌日の昼前、バルカンが「できた」と言った。
全員が小屋に集まった。
機織り機の前に、布が広がっていた。
白と黒と縞が混ざった、不思議な色合いだった。光の当たり方によって色が変わった。しかしガインが最初に作ったものとは、明らかに違った。
密度が違った。糸の並び方が違った。光の吸い方が違った。
「触っていいですか」アルトが聞いた。
「どうぞ」
アルトが指を置いた。
「柔らかいですね」
「それだけか」バルカンが言った。
「あと、温かい」
「他には」
アルトは少し考えた。
「なんか、落ち着きます」
「そうだ」バルカンは腕を組んだ。
「ミィ様のゴロゴロ音の振動を、織りの過程で糸に閉じ込めた。触れると共鳴する。理論的には、着た人間が自然とゴロゴロしたくなる」
「ゴロゴロ」
「多幸感の共鳴だ。職人として説明するなら、そういうことだ」
ルークが布を手に取った。広げた。
両手で持って、光にかざした。
黙った。しばらく黙ったままだった。
「ルークさん、どうかしましたか」アルトが聞いた。
「……バルカンさん」ルークがゆっくり言った。
「何だ」
「これを王都の夜会に出したら」
ルークは布を持ったまま、どこか遠くを見た。
「貴族たちが奪い合いで戦争を起こします」
「そうか。それほどか」
「国家予算の一割どころか」ルークは布を畳んだ。
「領土問題が解決するレベルです。複数国が国境を譲り合う代わりにこれを求めてくる可能性があります」
「ただのミィちゃんの抜け毛ですが」アルトが言った。
「ただの、とは言わないでください」
「余っていた分ですし」
「余っていても」
「倉庫にまだ二箱あるので」
ルークは目を閉じた。
「アルトさん。値段のことは私に任せてください」
「はい、お任せします」
ルークは布を抱えたまま、コテージへ戻っていった。背中が少し丸くなっていた。
同じ頃、王都の宮廷では。
エリナが小さな試食会を開いていた。
招いたのは五人だけだった。バルド長官。騎士団長。それから情報管理に信頼できる重鎮が三人。全員、コールドランドの件を知っている人間だった。
「これを食べていただきたいと思いまして」
テーブルに、小さな器が並んだ。
橙色のゼリーだった。ぷるぷるしていた。夏みかんの香りがした。
「コールドランドのレシピです。アルト辺境伯に教えていただきました」
重鎮の一人が、スプーンで一口すくった。
食べた。止まった。
「……」
もう一口食べた。
「殿下」
「はい」
「これが」重鎮はゼリーを見た。
「聖域の料理ですか」
「そうです」
「我が国の菓子職人は」
重鎮はもう一口食べた。
「全員廃業です」
「そこまでは」
「廃業です」重鎮は断言した。
「比べる気にもなれない。これは何が入っているんですか」
「夏みかんと、固める粉と、お砂糖です」
「それだけで」
「それだけです」
重鎮はゼリーを食べ続けた。
バルドが三つ目の器を静かに受け取った。
「長官」エリナが言った。
「先ほどから無言ですが」
「食べています」
「表情が変わりませんが」
「三つ目なので」
バルドはゼリーを一口食べた。
「慣れてきました」
「慣れるものなんですか」
「慣れません。ただ、コールドランドのものは初回が一番衝撃が大きい。二つ目からは、美味いという事実を静かに受け入れるフェーズに入ります」
「経験者のお言葉ですね」
「行きましたので」バルドはゼリーを食べ続けた。「食べた方が楽です。何事も」
試食会が終わった後、重鎮たちが帰り際にエリナに言った。
「殿下。このレシピ、もう少し広めてもよいでしょうか」
「どのくらいの範囲で」
「信頼できる料理人に限りますが」
エリナは少し考えた。
「アルト辺境伯からは、欲しい人に分けてあげてください、と言われていますので」
「では、遠慮なく」
翌日から、王都の一部の料理人のあいだでレシピが広まった。三日後には貴族の館でゼリーが出た。一週間後には、社交界でゼリーを出せる料理人のいる館が「格が高い」という話になっていた。
コールドランドの奇跡の果実、という噂が広がった。実際は夏みかんだった。
コールドランドのコテージでは、バルカンがミィちゃんの前にひざまずいていた。
ブラシを持っていた。
「ミィちゃん様。次のブラッシングの時間でしたら、俺がやらせていただいてもよろしいでしょうか」
ミィちゃんはヘソ天で溶けていた。
ゴロゴロゴロゴロ。
「返事がない。寝ているのか。でも毛が輝いている。ああ、この輝きを布地に閉じ込めたい」
「バルカンさん」アルトが言った。
「ブラッシングは僕がやるので、抜け毛は後でお渡ししますよ」
「そうか。それまで待つ」バルカンはその場に座り込んだ。
「何時間でも待つ」
「食事にしましょうか」
「食事より毛が」
「食べないと力が出ませんよ」
バルカンは渋々立ち上がった。食事の匂いが来ると、足が自然に動いた。
ルークが書類を見ながらアルトに言った。
「アルトさん。王都でゼリーが流行り始めているようです」
「そうなんですか」
「レシピを広めることを許可したのが良かったです。ただ」
ルークは書類を一枚持ち上げた。
「材料の夏みかんが、王都で品薄になっているようで」
「じゃあ、送りましょうか。ガインさんが育てているのが余っているので」
「余っている、を言い始めたら止まらないのが」ルークは遠い目をした。
「あなたの恐ろしいところです」
「あと、スープのベースになる乾燥野菜も余っていて」アルトは続けた。
「これも送ったら、王都で使ってもらえますかね」
ルークは書類を置いた。
「また王都の食文化が」
「余り物なので」
「余り物で」ルークは天井を見た。
「王都が変わっていく」
「そんなに大げさな」
「大げさではありません」
バルカンがスープを飲みながら「美味い」と言った。
ガインが「わしのチーズも余っているぞ」と言った。
キースが「チーズと乾燥野菜を組み合わせた場合の王都での市場価値を試算します」と手帳を開いた。
アルトはミィちゃんのブラッシングを始めた。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
バルカンが素早く小屋に戻った。窓から振動を感じながら織るためだった。
「今日も平和ですね」アルトが言った。
誰も否定しなかった。
コールドランドの昼下がりは、今日も穏やかに過ぎていった。




