第24話:職人の矜持
出発の朝、キースが懐中時計を取り出した。
「これより計測を開始します」
「何を計測するんですか」ガインが聞いた。
「バルカン殿の陥落までの時間です。前例から算出した理論値は三十七分です」
「陥落前提で計測するのか」
「前例が三件あります。全員陥落しています」
ガインは何か言いかけてやめた。
アルトは背中の抱っこ紐を確認した。ミィちゃんが前抱っこされていた。自分から紐の中に入ってきたのだ。外出と気づいたらしかった。白い球体が胸の前にあった。短い足がぱたぱたしていた。
「ミィちゃん、寒くないか」
ゴロゴロゴロゴロ。
「そうか」
四人と一匹は、コールドランドの奥地へ向かった。
一時間歩くと、雪が深くなった。
コテージの周囲は常春だったが、少し外れると本来のコールドランドだった。風が鋭くて、岩が白く凍っていた。
ミィちゃんの周囲だけ、雪が解けていた。
アルトの足元に芝草が生えた。歩くたびに芝草がついてきた。
「春が歩いてる」ガインが言った。
「ミィちゃんのおかげですかね」
「間違いなくそうじゃ」
岩山が見えてきた。その中腹に、煙が上がっていた。
「あそこです」ガインが言った。
顔が少し引き締まった。
「覚悟しろよ。本当に口が悪い」
「大丈夫ですよ」アルトが言った。
「大丈夫じゃないかもしれん」
「美味しいものを持ってきたので」
「それがどう関係するんじゃ」
アルトは背嚢を叩いた。
中に鍋と食材が入っていた。
出発前に仕込んできた黄金大麦のスープと、焼き立てのちぎりパン。それからデザートの夏みかんゼリー。
「お腹が空いていたら、まず食べてもらえれば」
「交渉の前に飯を出すのか」
「交渉するつもりはないですが」
ガインは黙った。
工房の扉は、分厚い木でできていた。
ガインが三回叩いた。
しばらく間があった。
「誰だ」
地の底から来るような声だった。
「ガインじゃ」
「ガインのクソジジイか。何の用だ。客なら帰れ、注文なら帰れ、話なら帰れ」
「飯を持ってきた」
「食えるか。俺の飯の方が」
「食ってから言え」
また間があった。
扉が開いた。
出てきたのは、ガインより一回り大きいドワーフだった。白いひげを顎まで伸ばして、腕に筋が浮いていた。目が鋭かった。
アルトを見た。
「人間を連れてきやがった」
「おう」
「言っただろうが。人間は嫌いだ」
「聞こえてなかった」
「嘘をつけ」
バルカンはアルトを上から下まで見た。
「なんだこの若造は。細っこいな。風で飛ぶぞ」
「アルトです。よろしくお願いします」
「よろしくする気はない。帰れ」
「中に入ってもいいですか。スープを温めたいので」
「入るな」
「寒くて」
「知らん」
アルトは少し考えた。
「ミィちゃん、見せてもいいか」
ゴロゴロゴロゴロ。
抱っこ紐から、白い球体が顔を出した。
バルカンが目を向けた。
「なんだそれは」
「猫です」
「猫に見えん」
「冬毛がすごくて」
バルカンは目を細めた。織物師としての目だった。反射的に、繊維を見る目になっていた。
「……入れ」
ガインがアルトに小声で言った。
「お前、最初からそのつもりじゃったのか」
「ミィちゃんを見せたかっただけですが」
「計測開始から七分です」
キースが手帳にチェックを入れた。
「予定より早い」
工房の中は、機織り機が三台あった。
壁に糸が吊るされていた。色とりどりの糸が、整然と並んでいた。棚に布の見本が積まれていた。どれも手触りが良さそうだった。
アルトは鍋を火にかけた。スープを温めた。パンを出した。ゼリーを並べた。
バルカンはその間ずっとミィちゃんを見ていた。
「飯ができましたよ」アルトが言った。
「……ああ」
バルカンはスープを受け取った。一口飲んだ。止まった。
「なんだこれは」
「黄金大麦のスープです」
「黄金大麦なんて、この世に存在したのか」
もう一口飲んだ。
「美味い。なんでこんなに美味い。パンは何でできている」
「同じ大麦です」
バルカンはパンをかじった。目が大きくなった。
「絹みたいに柔らかいぞ。パンが絹のようになるはずがないのに」
「そうですか」
「職人として言わせてもらうが、この食感は均一すぎる。どうやって焼いた」
「普通に窯で」
バルカンはスープを飲み続けた。パンも続きを食べた。デザートのゼリーに手が伸びた。
一口食べた。
「ぷるぷるしている」
「固めるのはキースさんが」
「魔法で瞬時に冷やしています」キースが言った。
「凍土の棺を最小出力で」
「凍土の棺を料理に使っているのか」バルカンは手を止めた。
「お前ら、何者だ」
「猫と暮らしています」アルトが言った。
バルカンはアルトを見た。ミィちゃんを見た。
「その猫、ずっと気になっていたんだが」バルカンは腕を組んだ。
「職人の目で言う。あの毛の質が、おかしい」
「おかしいですか」
「おかしい。均一すぎる。光沢が自然界の繊維じゃない。まるで上質な絹糸が生きているようだ」
バルカンは立ち上がった。
「触っていいか」
「どうぞ」
バルカンが手を伸ばした。
ミィちゃんの冬毛に触れた。
止まった。
「……」
指が、沈んだ。
「……なんだこれは」
声が変わっていた。
「太さが完全に均一で」
バルカンの目が変わった。織物師の目だった。
しかし今は、その目に光が入りすぎていた。
「それでいてこの世のどんな獣毛よりも柔らかく、魔力を帯びて発熱している。絡みがなく、なのに強度がある。これが自然界に存在していい繊維なのか」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
ミィちゃんが喉を鳴らした。
バルカンの手に振動が伝わった。
「この振動は」バルカンが呟いた。
「繊維に魔力が共鳴している。触れているだけで熱量が伝わってくる。こんな糸を、俺は一度も触ったことがない。王都の最高級の絹も、これに比べれば」
声が途切れた。
「ゴミだ」
「そんなことはないと思いますが」アルトが言った。
「ゴミだ」バルカンは繰り返した。
目がどこか遠くを見ていた。
「俺の人生でここまでの繊維を見たことがない。王都が最高だと思っていた。隣国の神獣毛も見た。全部ゴミだった。ここに来るまで」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
「織りたい」バルカンが言った。
「え?」
「この毛を俺に織らせてくれ」バルカンはミィちゃんを見た。
「頼む。この毛を俺の人生にくれ。俺が今まで積み上げてきた全部の技術を、この毛のために使わせてくれ」
目が潤んでいた。アルトは首を傾けた。
「ブラッシングの抜け毛でよければ、毎日たくさん出ますよ」
「本当か」
「倉庫に箱三つ分あります」
バルカンは崩れた。膝をついた。
「俺が悪かった。人間嫌いなどと言って悪かった。頼む。俺をここに置いてくれ。ミィちゃんの毛を、死ぬまで織らせてくれ」
キースが懐中時計をパチンと閉じた。
「計測終了。三十二分十五秒です」
ガインが腕を組んだ。
「わしより早かったな」
「素材への執着を変数に加えた場合、職人は一般人より崩壊が速い傾向があります。今回の結果はほぼ想定通りでした」
「……わしが最初に崩れたのは何分じゃったか」
「記録していません。計測を始めたのはセルジュ殿からですので」
「まあいいが」ガインはバルカンを見た。
「お前、機織り機ごと引っ越す気か」
バルカンはすでに機織り機の解体を始めていた。
「当然だ。ここに来る。早くしないとあの毛が」
「落ち着け」
「落ち着けない。早く織りたい。まず試し織りをして、縦糸と横糸の比率を」
「飯を食い終わってからにしろ」
バルカンはゼリーの最後の一口を食べた。
「美味い」と言った。
それからまた機織り機を解体し始めた。
アルトはそれを見て、微笑んだ。
「職人さんがやる気になってくれて良かったです」
「やる気というか」
キースが手帳に書きながら言った。
「第四段階の完全陥落です」
「同じことじゃないですか」
「……まあ、そうですね」
ミィちゃんが抱っこ紐の中で丸くなった。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
工房の中で機織り機が解体される音と、ゴロゴロ音が重なった。
雪深い岩山の工房が、春の匂いがし始めていた。




