第22話:王都を救うもふもふ
エリナは椅子に座って、スープを飲んでいた。
熱かったし、濃かった。
魚の旨味と野菜の甘みが混ざって、体の芯から温まった。隣ではバルドがちぎりパンを持ったまま動かなくなっていた。騎士団長は二杯目を静かに受け取っていた。
アルトが台所から顔を出した。
「お口に合いましたか」
「とても」エリナは器を置いた。
「アルト辺境伯、実は」
そのとき、足元で何かに触れた。
見ると、床に白いものが広がっていた。
平らだった。液体のように広がっていた。しかし微かに上下していた。
「……これは」
「ミィちゃんです」アルトが言った。
「もみもみベッドが気持ちよすぎて、溶けてしまっていて」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
エリナは手を伸ばした。
触れた。
指が、沈んだ。
「……あ」
「殿下」侍女が囁いた。
「これは」エリナの声が遠くなった。
「天国の雲、というのは、こういうものを」
「殿下」
「国のことなんてどうでも……いえ、よくありません」
エリナは手を引いた。引きかけて、止まった。
「もう少しだけ」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
「……もう少しだけ」
バルドがちぎりパンをかじった。何も言わなかった。
五分後、エリナは背筋を伸ばした。
「アルト辺境伯。本題に入らせてください」
「どうぞ」
「王都の大魔導炉が、凍結寸前です」エリナは真剣な顔をした。
「大寒波で熱源が限界を超えていて、このままでは三日以内に王都の防壁結界が落ちます。住民への被害が出ます」
「それは大変ですね」
「この外套の技術を、王都に貸していただけないかと思い、伺いました。同等の熱源があれば、魔導炉を救えるかもしれません」
アルトは外套を見た。
「猫の抜け毛で作ったものですが」
「その魔術的構造が、通常の魔導技術を大幅に上回っています」エリナは膝の上で手を組んだ。
「魔法省の解析では、熱量が王都最高級の魔石の数倍に相当するとのことで」
「そうなんですか」
「もみもみベッドの技術でも構いません。キース殿に聞いたところ、似たような構造だとのことで」
キースがカチッと眼鏡を押し上げた。
「殿下、それは不可能です」
「なぜですか」
「このベッドの術式は、ミィ様が発するゴロゴロ音の固有振動数に百パーセント最適化しています」キースは淡々と言った。
「ミィ様がここにいる以上、別の場所では連動しません。王都の炉に置いても、ただの板です」
エリナは止まった。
「では」
「ミィ様を王都へ連れていく、という選択肢もありますが」
「それは」
エリナはミィちゃんを見た。
液体のまま溶けていた。
「できません。ミィちゃんをここから動かすわけには」
「でしょう」キースが頷いた。
「私も反対します」
エリナはバルドを見た。バルドはちぎりパンを持ったまま、遠い目をしていた。
「……長官」
「はい」
「何かありませんか」
「今は何も思いつきません。パンが美味しすぎて」
「長官」
「申し訳ありません」
沈黙が落ちた。
アルトが首を傾けた。
「あの」
全員がアルトを見た。
「昨日、キースさんと掃除機を使ったんですが」
「はい」
「その中身、まだ捨てていないんです」
アルトが倉庫から木箱を持ってきた。
掃除機のゴミタンクだった。蓋を開けると、中に白い塊があった。
丸かった。ふわふわしていた。コテージ中から吸い取った猫の冬毛が、キースの圧縮魔法によってぎゅっと固まっていた。
「これを、魔導炉にくべたら温かくなりませんか」アルトが言った。
「たくさんありますよ、まだ」
キースが覗き込んだ。
止まった。
眼鏡を外して、毛玉を近づけて見た。また眼鏡をかけた。
「……待ってください」
「どうかしましたか」
「この毛玉は」キースの声が変わった。
「吸引の際に私の術式で魔力が付与されています。さらにもみもみベッドの魔導共鳴を二十四時間浴び続けたミィ様の冬毛が、超高密度で圧縮されている」
「掃除のゴミですが」
「ゴミではありません」キースは毛玉を持ち上げた。
「これは永久に熱を放ち続ける超高濃度魔力塊です。理論値で言えば、王都の魔石換算で」
キースは計算を始めた。指を折った。また折った。眼鏡を押し上げた。
「……国家予算の魔石備蓄量を超えます」
バルドがちぎりパンを落とした。
「これを」バルドは毛玉を見た。
「魔導炉に」
「くべれば動くと思いますよ」アルトが言った。
「たくさんあるので、全部持っていってください。倉庫に箱が三つあります」
バルドは毛玉を見た。アルトを見た。ミィちゃんを見た。
ミィちゃんが床で溶けていた。
ゴロゴロゴロゴロ。
「王都の数百年をかけた魔導炉を」バルドは呟いた。
「聖獣の抜け毛で」
「掃除のゴミですが」アルトが言った。
「動かせと」
「温まると思いますよ」
バルドはしばらく動かなかった。
「……随行魔導士を呼べ」
随行魔導士三人が、木箱を受け取った。
一人が箱を開けて、毛玉を手に取った。
「温かい」
「当然です」キースが言った。
「これが聖獣様の」
「抜け毛の掃除ゴミです」
「……承知しました」魔導士は箱を抱えた。「転移魔法で王都へ直行します」
「魔導炉の投入口は北側です」バルドが言った。
「炉管理局の局長に渡せ。私の名前を出せば分かる」
「はい」
「それと」バルドは一瞬止まった。
「聖獣様の抜け毛だということは、言わなくていい」
「は」
「言わなくていい。ただ高品質の魔力素材だと言え」
「……承知しました」
三人が転移魔法の術式を展開した。光が広がった。消えた。コテージが静かになった。
王都の大魔導炉管理室では、炉管理局長のヘンリーが壁際で震えていた。
炉の温度計が、限界ラインの手前で止まっていた。じりじりと、一時間ごとに下がっていた。
扉が開いた。
魔導士三人が木箱を抱えて入ってきた。
「バルド長官からです。これを炉に」
「これは何ですか」
「高品質の魔力素材です」
ヘンリーは箱を開けた。白い毛玉が入っていた。温かかった。手に取ると、指が沈んだ。
「……柔らかいですね」
「高品質ですので」
ヘンリーは炉の投入口を開けた。
毛玉を一つ、入れた。
炉が、音を立てた。
ゴロゴロゴロゴロ。
「何の音ですか」
「高品質の魔力が活性化している音です」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
温度計が動いた。上がった。
みるみる上がった。
「え」ヘンリーが計器を叩いた。
「壊れましたか」
「壊れていません」
魔導士が計器を確認した。
「全部正常です」
「なぜこんなに」
「高品質ですので」
炉がゴロゴロと鳴り続けた。熱が出力管を通って、王都の暖房網へ流れた。防壁結界が、みるみる安定した。
ヘンリーは外の窓を見た。
吹雪が、止んでいた。
王都の空に、雲の切れ間から光が差し込んでいた。
街路の人々が空を見上げていた。
「暖かい」誰かが言った。
「神の奇跡だ」別の誰かが言った。
炉管理室では、ゴロゴロ音が続いていた。
コールドランドのコテージでは、アルトがゼリーを切り分けていた。
「皇女殿下、おかわりはいかがですか」
「ください」
エリナはミィちゃんを抱えたまま答えた。
温かい冬毛が腕の中にあった。ゴロゴロ音が胸に響いた。王都の危機が解決したかどうかは、まだ分からなかった。でも今は、それより先に考えるべきことがあった。
「もう一つ、ください」
「どうぞ」
バルドがスープのおかわりを受け取った。ちぎりパンも三つ目に入っていた。
騎士団長は温泉に向かっていた。
キースは新しい術式を設計していた。猫用の自動ゼリー成形機の設計図らしかった。
ルークは帳簿を開いていたが、目がどこか遠くを向いていた。
「ルークさん、大丈夫ですか」アルトが聞いた。
「……王都の最高権力者まで」
ルークは呟いた。
「聖獣のおやつマシーンに」
「何か言いましたか」
「何でもありません」
ミィちゃんがエリナの腕の中でゴロゴロと鳴った。
エリナはゼリーを一口食べて、目を細めた。
コールドランドの午後は、今日も穏やかに過ぎていった。




