第20話:国家の危機①
王都の魔法省に、報告書が届いたのは六日後だった。
バルドは封を切った。キースの筆跡だった。整然としていた。さすが特級魔導士だと思ったのは最初の三行だけだった。
コールドランド調査報告。当地の魔力反応について調査した結果、発生源は複数の猫であることが確認された。敵の精神干渉は極めて強力であり、特級防魔護符は一切通用しない。味覚を経由した攻撃の破壊力は甚大であり、対策なし。特筆すべき事項として、白い球体(コードネーム:ミィ)の腹部は世界で最も柔らかく、かつ保温性が高い。魔法省は速やかに猫用おやつの研究開発に着手すべきであると愚考する。以上。
追伸:予算が許すなら、王都の魔導警備予算を猫のブラッシング効率化に回すべきである。
バルドは報告書を机に置いた。
立ち上がった。窓の外を見た。
王都の冬の空が、灰色に広がっていた。
「キース」バルドは呟いた。
「お前まで」
副長官が恐る恐る入ってきた。
「長官。報告書の内容は」
「読むな」
「しかし」
「読まなくていい」バルドは椅子に戻った。
「コールドランドには、人間の脳を猫に変える禁忌の精神呪詛がある。それだけ分かれば十分だ」
「では追加の調査を」
「誰を送る気だ。送った人間が全員帰ってこなくなる。正確には帰ってくるが、猫のおやつ予算の請願書を書いてくる」
副長官は黙った。
「セルジュは今どうしている」
「毎朝、コールドランドの方角に向かって黙祷しているそうです」
「キースは」
「まだ現地におります」
「戻ってくる気配は」
「……ありません」
バルドは額に手を当てた。
「もういい。下がれ」
副長官が出ていった。
バルドは報告書をもう一度手に取った。
猫のブラッシング効率化に回すべきである。
「魔法省始まって以来の天才が」
バルドは机に突っ伏した。
「四日で」返事はなかった。
コールドランドのコテージでは、キースが真剣な顔で宙を睨んでいた。
眼鏡をかけていた。背筋が伸びていた。指を組んで考え込んでいた。傍目には王都の精鋭魔導士に見えた。
「問題は吸引ベクトルの安定化だ」
「何の話ですか」アルトが聞いた。
「掃除機です」
「掃除機」
「魔導式の自動毛取り集塵機です」
キースは立ち上がった。
「アルト伯爵、本日の朝のブラッシング中に気づいたのですが、冬毛の飛散量が相当なものになっています。ガイン殿の作業台にも毛が舞っていました。このままでは作業精度に影響が出ます」
「そうなんですよね」
アルトは少し困った顔をした。
「掃除してもすぐ毛が舞って」
「解決できます」
キースはカチッと眼鏡を押し上げた。
「魔法省が開発した広範囲空間強制吸引の陣を応用します。本来は敵の毒ガスや追尾魔法を無効化する術式ですが、出力と吸引ベクトルを調整すれば、毛だけを選択的に吸い込める装置が作れます」
「猫たちに音がうるさくないといいんですが」
キースの目が輝いた。
「それも考慮済みです。猫の可聴域を計測して、不快な周波数帯を完全に除外します。むしろ猫たちが心地よく感じる周波数に調整できます」
「すごいですね」
「当然です」キースは設計図を取り出した。
「ガイン殿に筒の部分を作っていただければ、あとは術式の組み込みだけです」
ガインが作業台から顔を上げた。
「どんな筒じゃ」
「長さ三十センチ、内径五センチ。木製で構いません」
「そのくらいならすぐ作れる」
「お願いします。魔石を一個使用します」
アルトが棚を開けた。
「重りの箱から出しますね」
キースの眉が一瞬ピクッとしたが、何も言わなかった。慣れてきていた。
二時間後、魔導式自動毛取り集塵機が完成した。
ガインが作った木の筒に、キースが術式を刻んだ魔石を組み込んだ。先端に吸引口、後端に排気口。起動用の簡単な魔力スイッチをつけた。
「では、起動します」
キースが魔力を流した。
音がした。
低くて、柔らかい音だった。風が鳴るような、耳に優しい音だった。
コテージの中に舞っていた冬毛が、ふわりと動いた。一本、また一本。そろそろと吸引口に向かって流れ始めた。猫たちは振り向いて匂いを嗅いだが、特に気にしなかった。
ミィちゃんが興味深そうに吸引口を見て、前足で一度触れてから、また丸くなった。
「完璧だ」キースが言った。
五分で、コテージの床と棚の毛が全部集まった。
「すごいですね」アルトが言った。
「当然です」
「猫たちも嫌がらなかった」
「周波数の調整に力を入れましたので」
「キースさんって、猫のことをよく考えてくれますね」
「……当然のことを言わないでください」
キースは眼鏡を押し上げた。目が少し泳いだ。
「ここの衛生環境を整えることが、任務ですので」
「任務なんですか」
「そうです」
「王都から調査に来たんじゃないんですか」
「……今は、こちらが優先事項です」
アルトは素直に頷いた。
ガインが集塵機を手に取って、裏返したり回したりして確かめた。
「これ、毛を集める以外にも使えるな」
「何に使いますか」
「鉄屑とか、細かい削りカスとか」
「調整すれば可能です」
「やってくれるか」
「……構いません」
キースはまた設計図を広げた。こういう作業のときが一番楽しそうだと、アルトは思った。
夕方になった頃、キースがまた何かを作っていた。
「これは何ですか」アルトが覗き込んだ。
「もみもみベッドです」
「もみもみ」
「ブラッシング中の振動を魔導波に変換して、猫の血行を促進する床暖房型のベッドです。ブラッシングと同等の効果を継続的に提供できます」
「猫たちが寝ているあいだも気持ちよくなれるということですか」
「そうです」
キースは術式を刻みながら答えた。
「ブラッシングはアルト伯爵が手動でやっているので時間に限りがありますが、これがあれば二十四時間継続できます」
「それはミィちゃんたちが喜びますね」
「そのために作っています」
ガインが横で腕を組んでいた。
「なあキース」
「何ですか」
「それ、王都の魔導技術か」
「応用したものですが」
「国家の秘術じゃないのか」
「出力を絞って民生用に転換しています。問題ありません」
「猫のために国家秘術を転換して問題ないのか」
「問題ありません」
ガインは何か言いかけてやめた。
夜、ルークがコテージに戻ってきた。
取引の報告を持ってきていたが、扉を開けた瞬間に止まった。
コテージの中が変わっていた。
床の一角に、薄い板が敷いてあった。その上にミィちゃんが寝ていた。目が半眼だった。喉の音が、いつもより一段低かった。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
壁から集塵機が生えていた。起動していた。
空気が綺麗だった。毛が舞っていなかった。
「キース様」ルークは集塵機を見た。
「これは何ですか」
「魔導掃除機です」
「掃除機」
「毛を自動で回収します」
「これは、もしかして」
ルークは術式を確認した。
「広範囲空間強制吸引の陣、ですか」
「応用したものです」
「これは王都の防衛魔法の中核をなす術式では」
「出力を絞りました」
「そしてこちらの板は」
「もみもみベッドです」
キースは眼鏡を押し上げた。
「猫の血行を促進します」
ルークはミィちゃんを見た。ミィちゃんが極上の顔で溶けていた。
「この術式は」ルークは板を覗き込んだ。
「まさか魔導共鳴増幅陣ですか。王都が二百年かけて開発した」
「猫用に調整しました」
「猫用に」
「ミィ様の体格と体重に合わせて最適化しています」
ルークはしばらく黙っていた。
「キース様」
「何ですか」
「あなた、国を滅ぼせるレベルの防御術式を、猫の抜け毛取りに使ったんですか」
キースはカチッと眼鏡を押し上げた。
「ルーク殿、言葉を慎みなさい。猫の衛生環境を守ることは、この聖域の最優先事項です」
ルークは額に手を当てた。
アルトが台所から顔を出した。
「キースさんのおかげで掃除が楽になりました。浮いた時間で、新しいスープでも作りましょうか」
「ぜひお願いします、アルト伯爵」
キースが嬉しそうに答えた。
ルークは取引の報告書を持ったまま、しばらくその場に立っていた。
「バルド長官に、何を報告すればいいんだ」
誰も聞いていなかった。
深夜、コテージが静かになった頃。
もみもみベッドの上で、ミィちゃんが眠っていた。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
魔導ベッドと共鳴して、音が部屋に広がった。壁が微かに震えた。
アルトはそれを聞きながら、お茶を飲んだ。
「今日も平和ですね、ミィちゃん」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
過去最大の重低音だった。
窓の外の空に、星が多かった。




