第19話:もふもふの被害者②
コテージに足を踏み入れた瞬間、キースは立ち止まった。
温かかった。
外とは全く別の温度があった。床から熱が伝わってくる。壁に隙間はなく、外の風が遮断されていた。
そしてゴロゴロ音が、四方から来た。
低かった。重かった。空気ごと振動しているような音だった。
キャットタワーの各段に猫がいた。冬毛で膨らんだ猫たちが、それぞれ喉を鳴らしていた。音が重なって、部屋全体が共鳴していた。
キースは護符を確認した。
三枚とも、光が弱くなっていた。
「バカな」
キースは思わず声に出した。
「私の特級防御結界が、これほど容易く」
「あ、護符がパチパチ言ってますね」アルトが言った。
「精神干渉の兆候です。この部屋には未知の瘴気が」
「静電気が起きやすい時期なので」
アルトは棚から霧吹きを取り出した。
「どうぞ」
キースは霧吹きを受け取った。
受け取ってから、今何をしているんだと思った。
「まず聞かせてください」
キースは姿勢を正した。
「あなたがアルト・ド・ファルク辺境伯ですか」
「そうですが」
「この地の魔力反応について、調査に参りました。魔法省のキース・ド・アルバンと申します」
「そうですか。遠くからご苦労様でした」
アルトは竈の方へ向かった。
「ちょうどパンとスープができるところなので、食べながら話しましょう」
「いえ、まず調査を」
「食べながらの方が話しやすいですよ」
「しかし毒見も」
「ガインさんとルークさんが先ほど食べましたので」
奥からガインが手を上げた。
「美味いぞ」
ルークが書類から顔を上げて、静かに頷いた。
キースは二人を見た。生きていた。顔色も良かった。
「……では」
テーブルに置かれたのは、丸いちぎりパンだった。
ふわふわに膨らんでいて、表面がうっすら焼き色になっていた。隣に深い器があった。白いスープで、湯気が上がっていた。
「クラムチャウダーです」アルトが言った。
「ルークさんが持ってきてくれた牛乳と、魔魚のむき身で」
匂いが来た。
バターと、牛乳と、魚の旨味が混ざった、濃厚な匂いだった。
キースの胃袋が、音を立てた。
四日間の道中、携帯食料しか食べていなかった。
「毒が、入っている可能性が」
キースはスプーンを持ちながら言った。
「高度な術者ならば、味覚を通じて精神に」
一口食べた。止まった。
熱かった。濃かった。魚の旨味が牛乳に溶けて、舌の上でとろけた。ちぎりパンを浸して食べると、パンが汁を吸って、また違う味になった。
「美味すぎる」キースは呟いた。
「いや、これは味覚中枢を麻痺させる魔薬の類が……! 負けん、私は負けんぞ……!」
スプーンが止まらなかった。
「おかわりありますよ」ルークが言った。
商人の目で、静かに微笑んでいた。
キースはスプーンを動かしながら、ルークを見た。
「……なぜそんな顔をしているんですか」
「いえ、何でも」
器が空になっていた。
「……おかわりを」
「どうぞ」
キースは二杯目を受け取った。今度は抵抗しなかった。
食後、アルトが言った。
「長旅でお疲れでしょう。温泉へどうぞ。特使の皆さんも気に入ってくれましたよ」
「温泉」キースは眼鏡を押し上げた。
「それは、呪術的な儀式を行う泉の類ではないですか」
「ただのお湯ですよ」
「しかし」
「肩が凝っていませんか」
「……凝っています」
「温まると楽になりますよ」
キースはしばらく考えた。頭を冷やす必要があった。状況を整理する必要があった。護符の効果が弱まっている今、一度落ち着いて冷静に判断しなければならなかった。
「分かりました。一度、気を整えるために」
タオルを受け取って、コテージの裏に向かった。
温泉は石で縁を作った小さなものだった。
湯気が上がっていた。入ってみると、じわじわと体の芯まで温まった。
キースは護符を外した。装備を外した。眼鏡を縁に置いた。湯に肩まで浸かった。
「……あ」
声が出た。
肩の力が抜けた。背中が伸びた。四日間の馬旅の疲れが、じわじわと溶けていった。湯気が顔にかかった。遠くで鳥が鳴いた。
初めて、コールドランドの静けさが聞こえた。
「これは、確かに呪術的な効能が」キースは呟いた。
「いや、待て。これは純粋に、温泉の効果だ。普通の温泉だ。落ち着け。冷静に」
気づいたら、目を閉じていた。
いつの間にか、縁に何かが乗っていた。
白かった。丸かった。湯気でさらにふわふわに膨らんでいた。
ミィちゃんだった。
縁の上に座って、キースを見ていた。
キースはミィちゃんを見た。
「君は、ミィという名の白い球体か」
ミィ。
「そうか」
ミィちゃんがごろんと転がった。縁の上で仰向けになって、短い足を上に向けた。お腹が、もちもちと露出した。
キースは動かなかった。
「これが……腹部の露出による無防備アピール……精神的な油断を誘う高度な戦術……」
手が伸びていた。
「待て。私の手が」
指先が、白いお腹に触れた。
「……柔らかい」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
最大出力だった。温泉の湯が、微かに震えた。
「冷え切っていた指先が」
キースの声が、遠くなっていった。
「信じられない熱量で……鉄の意志が……私の鉄の意志が……」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
「……溶ける」
キースはそのまま、ミィちゃんのお腹を撫で続けた。
湯気の中で、眼鏡が縁の上にあった。誰も拾わなかった。
翌朝。
キースはコテージの机でペンを握っていた。
昨夜は温泉から上がった後、アルトが出してくれた夕食を食べた。魔魚のジャーキーと焼き野菜と、黄金大麦のスープだった。食べながら、ミィちゃんが膝に乗ってきた。動けなかった。結果的にそのまま夜になった。
今、ペンを持っていた。
報告書を書かなければならなかった。
眼鏡を指で押し上げた。手帳を開いた。
一文字ずつ、大真面目に書いた。
コールドランド調査報告。当地の魔力反応について調査した結果、発生源は複数の猫であることが確認された。敵の精神干渉は極めて強力であり、特級防魔護符は一切通用しない。味覚を経由した攻撃の破壊力は甚大であり、対策なし。
特筆すべき事項として、白い球体(コードネーム:ミィ)の腹部は世界で最も柔らかく、かつ保温性が高い。魔法省は速やかに猫用おやつの研究開発に着手すべきであると愚考する。以上、報告とする。
ペンを置いた。
眼鏡を押し上げた。
「完璧な報告書だ」
「キースさん、お茶が入りましたよ」
アルトの声がした。
「今行きます、アルト伯爵」
キースは立ち上がった。膝にミィちゃんがいた。温泉から上がった後、ずっとそこにいた。
「ミィちゃん、行くぞ」
ゴロゴロゴロゴロ。
キースはミィちゃんを小脇に抱えて、台所へ向かった。
ガインが作業台から顔を上げた。
「昨日来た眼鏡の若いの、すっかり馴染んどるな」
「そうですね」
アルトはお茶を注ぎながら言った。
「真面目な方ですね」
「真面目かどうかはともかく」
ルークが書類から顔を上げた。
「報告書の内容が心配です」
「どんな内容でしたか」
「猫用おやつの研究開発を速やかに始めるべき、と書いていました」
アルトは少し考えた。
「それは良いことだと思いますよ」
「魔法省への報告書に、ですが」
「猫にとっては良いことじゃないですか」
キースがお茶を受け取って、ミィちゃんを膝に乗せなおした。
ゴロゴロゴロゴロ。
コールドランドの朝は、今日も穏やかだった。




