第18話:もふもふの被害者①
朝のブラッシングを始めて最初の五分で、アルトは問題に気づいた。
ミィちゃんが、どこにいるか分からなかった。
キャットタワーの一番上を見た。いない。
温泉の縁を見た。いない。
コテージの隅を見た。いない。
「ミィちゃん」
ゴロゴロゴロゴロ。
声はするのに、姿が見えなかった。
アルトは声のした方向を見た。
丸いものがあった。
白い、完全な球体だった。
コテージの床の上に、ぽてっと置いてあった。微かに上下していた。
「……ミィちゃん?」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
球体が転がった。アルトの足元まで来て、止まった。短い足がぱたぱたしていた。どこかに足があるということは、猫だった。
「冬毛が」アルトは球体を見た。
「すごいことになってるな」
ゴロゴロゴロゴロ。
「ブラッシングしようにも、どこから手をつけたらいいか」
アルトはとりあえず球体を持ち上げた。ずっしりと重かった。どっちが頭か少し迷ってから、光っている側が目だと気づいた。青い目が半眼になっていた。
「これ、自分で歩けているか」
ゴロゴロゴロゴロ。
返事は上機嫌だった。
ブラッシングを一時間やって、ルークが来た。
書類を抱えていた。いつもより少し多かった。
「アルトさん。いくつかご報告があります」
「どうぞ」
アルトはミィちゃんを膝に乗せたまま聞く体勢になった。ミィちゃんは球体のままだった。
「まず、エドガー公爵領の没収手続きが完了しました。王家の管理下に移っています」
「そうですか」
「次に」
ルークは書類を一枚出した。
「王家より、アルトさんへ正式な爵位の授与があります。コールドランドの辺境伯として認定されました」
「へんきょうはく」
「ええ」
「僕が?」
「あなたが」
アルトはミィちゃんを撫でながら考えた。
「税金とかが増えますか」
「逆です。全額免除です」
「内政に口を出されますか」
「一切の干渉なし、とのことです」
「じゃあ、今まで通り猫たちとここで暮らしていていいんですね」
「……はい」
「よかった」
アルトはブラッシングを再開した。ルークは何か言いかけてやめた。こういうことには慣れてきていた。
ガインが作業台から顔を上げた。
「アルト。お前、辺境伯になったのか」
「なったみたいです」
「感想は」
「今まで通りでいいそうなので、特に」
ガインは鑿《のみ》を置いた。
「普通はもっと喜ぶもんじゃないのか」
「ミィちゃんのブラッシングが終わったら考えます」
ゴロゴロゴロゴロ。
ミィちゃんが喉を鳴らした。
ガインは何か言おうとして、やめて、鑿を持ち直した。
その頃、王都の魔法省では。
キース・ド・アルバンが地図を前に立っていた。
二十六歳。特級魔導士。魔法省始まって以来の若さで特級に昇格し、眼鏡をかけて常に背筋が伸びていた男だった。
書類の整理はいつも完璧だった。
日付順、優先度順、案件別の三重管理。
「コールドランドの報告書を読みました」
バルドが向かいに座っていた。疲れた顔をしていた。
「読んだか」
「読みました」
キースは報告書をバルドの机に置いた。
「所見を申し上げます。セルジュ騎士団長補佐は精神魔法により判断力を著しく損なわれています。この報告書の内容は信用できません」
「猫のゴロゴロ音、という部分か」
「特にその部分です。観測史上最大の魔力反応が、猫の喉の音で発生するはずがない。何か別の原因があるはずです。アルト・ド・ファルクという人物が、意図的に情報を撹乱している可能性が高い」
バルドは黙った。
「私が直接調査に行きます」
「キース」
「セルジュが引っかかった精神魔法も、私の鉄の意志の前では通用しません。特級魔導士として、必ず真実を明らかにします」
バルドはしばらくキースを見てから、言った。
「防寒はしっかりしていくように」
「もちろんです」
「厚着を」
「極寒の地ですので」
「いや、そういう意味では」
バルドは何か言いかけてやめた。
「気をつけて行きなさい」
「承知しました」
キースは一礼して、部屋を出た。
バルドは天井を見た。
「……また外套が増える」
誰もいない部屋で、呟いた。
四日後。
キースはコールドランドへの街道を馬で進んでいた。
防魔結界の護符を三枚重ねて首から下げていた。精神干渉を遮断する耳栓型の魔道具も持ってきた。感情を一時的に抑制する薬も携帯していた。
セルジュの報告書には「気温が上がり始めたら警戒せよ」と書いてあった。正確には書いていなかったが、そう読めた。
「精神魔法の入り口は感覚の変容だ」
キースは馬上で独り言を言った。
「温度の変化を感じたら即座に護符を起動する。冷静さを保て。いかなる事象にも動じるな」
街道の北へ向かった。
木が減った。雪が増えた。風が鋭くなった。
「よし、正常だ。感覚は正常だ」
さらに進んだ。
「……暖かくなってきた」
キースは馬を止めた。
護符を三枚とも起動した。精神干渉遮断、魔力感知、結界展開。全部同時だった。
「来た。これが入り口だ。冷静に。冷静に」
深呼吸をした。気温が上がっていた。馬が首を振った。
「動じない。これは罠だ。あたたかさは幻だ」
さらに進んだ。
「あたたかい」
「幻だ」
「あたたかい」
「幻だ」
「かなりあたたかい」
「幻……かなり精巧な幻だ。流石は観測史上最大の魔力反応の主だ」
緑が見えた。
芝草だった。
「幻」
青い空が見えた。
「幻」
温泉の湯気が上がっていた。
「幻」
石造りのコテージから、焼けた麦の香りが漂ってきた。
「……罠だ。嗅覚への干渉まで行っているとは。高度な術者だ」
馬がコテージの前で止まった。
キースは馬から降りた。護符を確認した。全部正常に動いていた。
コテージの前の芝草に、丸いものたちがいた。
黒いの、縞のの、茶色いの。大小様々な丸いものが、芝草の上に転がったり、伸びたりしていた。
キースは目を細めた。
「眷属か。アルトとやらが使役する魔獣の類いか。近づくな。距離を保て。いかなる挑発にも」
一番大きな白い球体が、ころころとキースの方へ転がってきた。
「来た。挑発だ。動じるな」
白い球体がキースの足元で止まった。
見上げてきた。
青い目だった。
「……」
短い足がぱたぱたした。
「……」
ゴロゴロゴロゴロ。
「……これが」
キースは声が出にくくなっているのに気づいた。
「これが……精神干渉の……」
白い球体が、足にごろんと頭を押しつけてきた。
キースの視線が、白い球体のもちもちした腹部に固定された。
「抗え。抗え。私は特級魔導士だ。鉄の意志だ。このくらいの精神干渉で」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
「ゴロゴロ音波兵器……直撃……」
コテージの扉が開いた。
茶色い髪の、線の細い青年が出てきた。エプロンをしていた。手に木の板を持っていた。
「あ、こんにちは」
穏やかな声だった。
「ミィちゃん、お客さんのところに転がっていったのか。驚かせてしまいましたか」
キースは青年を見た。
この青年が、アルト・ド・ファルクか。
観測史上最大の魔力反応の主か。
王都の精鋭特使団を骨抜きにした術者か。
エプロンをしていた。
「驚かせるというか」
キースはなんとか口を開いた。
「この白い、その、球体は」
「ミィちゃんです。冬毛がすごいことになってしまって」
アルトは白い球体を見た。
「ミィちゃん、この方が怖がっているじゃないか」
ミィちゃんがキースを見上げた。
ゴロゴロゴロゴロ。
「怖がって、いません」
キースは言った。
言ってしまってから、少し後悔した。
「そうですか。じゃあよかった」とアルトが言った。
「中へどうぞ。ちょうどパンが焼けるところです」
キースは断ろうとした。
ミィちゃんが足に頭を押しつけてきた。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
「……」
「ミィちゃんも中に入ってほしいみたいですね」とアルトが言った。
キースは護符を確認した。正常に動いていた。
「少しだけ」キースは言った。
「調査のために、少しだけ伺います。任務ですので」
「どうぞ」
キースはコテージに向かって歩き出した。
足元で、白い球体がころころとついてきた。
キースは前を向いたまま、視線だけ下に落とした。
もちもちしていた。
「抗え」キースは小声で言った。
「抗え抗え抗え」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
コテージの扉が、キースを迎えた。




