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役立たず猫テイマーの辺境もふもふ開拓記  作者: ゆもニャ
第三章 激動の冬毛

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第15話:兄、来る

 ミィちゃんの右前足の爪が、少し伸びていた。

 アルトは爪切りを持って、慎重に角度を確かめた。切りすぎると痛い。ギリギリを攻めすぎても良くない。適切な長さというものがある。

 

 ミィちゃんは膝の上で大人しくしていた。爪切りの時間は嫌いではないらしかった。されるがままにしていた。

 

「もう少しだけ」

 

 ゴロゴロゴロゴロ。

 

「動かないでくれよ」


 ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。

 

 外は春の気配が近かった。暖かい風が窓の隙間から入ってきて、コテージの中は穏やかだった。


 そのとき、扉が蹴り開けられた。

 

 アルトは顔を上げた。

 カイルが立っていた。

 

 公爵家の礼服を着ていた。以前より痩せていた。目の下に隈があった。目だけが以前より尖っていた。後ろに私兵が三人いた。全員が靴のまま土間に立っていた。

 

「おいアルト」カイルが言った。


「見つけたぞ」


 アルトはカイルを一秒見た。

 ミィちゃんの爪切りに戻った。

 

「靴は脱いでください。床が汚れます」

「何だその態度は」

「爪切りの最中なので、少し待ってください」

「待て? 私がお前を待つと思っているのか」


 カイルは中に入った。靴のままだった。


「いいか、感謝しろ。父上と相談して、特別にお前を公爵家に戻してやることにした。跡継ぎの座を用意してやったぞ」

 

 アルトは爪切りを一回入れた。

 

「要りません」

「は?」

「跡継ぎは要りません。僕ここで猫のブラッシングと爪切りで忙しいので」


 カイルの顔が赤くなった。

 

「忙しい? 猫の爪切りが? 貴様、公爵家の跡継ぎと猫の爪切りを秤にかけているのか」

「秤にかけるまでもなく、爪切りの方が今は大事なので」アルトはミィちゃんの左前足に移った。


「あと靴を脱いでください。さっきも言いましたよ」

 

「靴など」カイルは言いかけて、止まった。

 自分でも靴のことを言われ続けることが想定外だったらしかった。


「靴より大事な話があると言っているんだ。聞け。領地で少々魔獣の被害が出ている。お前が結界の補修をすれば済む話だ。感謝しろ、父上と相談してわざわざ迎えに来てやったんだぞ」

 

「結界というのは」

 

「昔からあった公爵領の結界だ。なぜか最近弱まってきているが、お前が何かしていたのだろう。戻って直せ」

 

 アルトは少し首を傾けた。

 

「僕が何かしていたかどうかは分かりませんが、戻る気はないです。ここの方が居心地がいいので」

 

「居心地がいい」カイルは声を荒らげた。


「居心地の問題ではない。公爵家が破滅しかけているんだ。魔獣が領内に入り込んで、作物も育たない。このままでは」カイルは口を閉じた。


 言いすぎたと思ったらしかった。しかしもう遅かった。


「とにかく戻れ。お前しかいないんだ、結界を直せるのは」


「それは困りましたね」アルトは言った。


「でも、僕には関係のないことなので」


 カイルの顔が赤から紫に変わった。

 

「関係がない? 実家だぞ。血を分けた家族だぞ。それが関係ないとは何事だ」


「追放されたので」


「それは」カイルは一瞬詰まった。


「それは当時のやむを得ない判断だった。今は事情が変わった。だからこうして迎えに来ているんだ。感謝こそすれ、文句を言う筋合いはない」

 

 アルトはミィちゃんの右後足を持った。

 

「追放されたことへの謝罪がなければ、話を続けても仕方がないと思います」


「謝罪? 私が? お前に?」


「ええ」


 カイルの目が細くなった。

 

「調子に乗るな」声が低くなった。


「追放されたゴミの分際で、誰かに拾われたからといって口が利けるようになったか。いいか、今でも公爵家はお前を取り戻してやる気があるんだ。それを断るなら、ここで持っているもの全部置いていけ。技術も、猫どもも、この土地も、全部だ。もともと公爵家の名で手配したものだろう」

 

「違いますよ」アルトは言った。


「王家から直接認定を受けた辺境伯領です。公爵家は関係ありません」

 

「うるさい」カイルは剣に手をかけた。


「もう十分話した。力ずくで連れ帰る。嫌なら技術だけ置いていけ。猫どもは残してもいい。どうせ役に立たないんだろうから」

 

 アルトは爪切りを置いた。

 カイルを見た。

 

「ミィちゃん、ちょっと待ってくれ。もう少しで終わるから」


「その猫に話しかけるな」カイルが怒鳴った。


「今すぐ立て。剣を抜かれたくなければ」

 

『────シャーッ!!!!!』


 音が来た。

 音というより圧だった。


 コテージの屋根から、窓際から、庭から、部屋の隅から、一斉に声が来た。


 百匹超える目が、黄金色に光った。

 空気の密度が変わった。

 

 重力が増したような、押しつぶされるような何かが、部屋全体に満ちた。音もなく、熱もなく、ただ圧力だけがあった。息が吸いにくく、立っているのが難しかった。

 

 私兵の一人が膝をついた。もう一人が壁に手をついた。三人目がその場に座り込んだ。全員の顔が白かった。

 

 カイルは剣の柄を掴んだまま、動けなかった。

 足が震えていた。ガタガタと震えていた。手も震えていた。剣を抜く気力が、どこかへ消えていた。

 

「ひ」

 声が出た。

 

「ひぃ」

 また出た。

 

 股間の辺りが、じわっと温かくなった。

 

「あ、ミィちゃんダメですよ」アルトが言った。


「そんなに威嚇したら、兄上が怖がってしまいます」


 ミィちゃんがカイルを見た。

 

「グルル」

 

 一声だった。低かった。

 カイルは白目を剥いた。

 膝から崩れ床に倒れ動かくなかった。


 アルトはそれを見てから、ミィちゃんの爪切りの続きを始めた。

 

「驚かせてしまいましたね」


 ゴロゴロゴロゴロ。

 

「もう少しで終わりますよ」

 

 ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。


 コテージの外で、一部始終を見ていた男がいた。


 オズワルドの手下だった。今日はコテージへの荷物の確認で来ていた。

 手下は震える手で手帳を開いた。

 見たものを全部書き、書き終わって、帰った。


 報告を受けたオズワルドは、珍しく顔色が変わった。

 

「公爵家の嫡男が、あのお方に剣を向けただと」


「向けようとしました。実際には抜けていませんでしたが」


「抜けていなかったから良かったものを」オズワルドは立ち上がった。


「一歩間違えれば、王都まで巻き込んで全滅していたぞ」


「そこまでになりますか」


「考えてみろ」オズワルドは窓の外を見た。


「ミィちゃんが威嚇しただけで、私兵三人が気絶した。本気で怒ったら、この王都ごと。いや、この国ごと」


 部下は黙った。

 

「あのお方が不快だと一言呟くだけで、我が国は一夜で消える」


 オズワルドは通信石を取り出した。


「バルド長官に繋げ。今すぐだ」


 バルド長官のもとに通信が届いたのは、翌朝だった。

 内容を聞いた。


 椅子に座ったまま、しばらく何も言わなかった。

 副長官が恐る恐る聞いた。

 

「長官。いかがなさいますか」

「公爵家の解体手続きを始めろ」

 

 副長官が止まった。

 

「よろしいんですか。公爵家は由緒ある」


「王国最大の聖域に対して、力で脅しをかけた」バルドは立ち上がった。


「それだけで十分だ。だが理由はそれだけではない」


「他に何が」


「あのお方が不快だと呟くだけで、我が国は一夜で滅ぶ」バルドは副長官を見た。


「それが分からない馬鹿を、このまま公爵として置いておけるか。次に何をするか分からない。領地没収、爵位剥奪、全員平民に降格。速やかに執行しろ」

「承知しました」

 

 バルドは窓の外を見た。

 王都の空が、春になっていた。

 

「辺境伯には報告するのですか」


「しなくていい」バルドは言った。


「どうせブラッシングをしているだろう」


 コールドランドのコテージでは、アルトがミィちゃんの爪切りを終えていた。


 爪切りの後、ブラッシングもした。

 ミィちゃんがきれいになった。

 

「変な人が来ましたね」アルトが言った。


 ゴロゴロゴロゴロ。

 

「まあ、帰ったのでよかったです」

 

 ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。

 

 アルトはミィちゃんを膝に乗せたまま、横になった。


 昼寝の時間だった。

 窓から春の風が入ってきた。

 

 ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。

 

 音が続いた。


 コールドランドの昼は、穏やかだった。

 

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