第15話:兄、来る
ミィちゃんの右前足の爪が、少し伸びていた。
アルトは爪切りを持って、慎重に角度を確かめた。切りすぎると痛い。ギリギリを攻めすぎても良くない。適切な長さというものがある。
ミィちゃんは膝の上で大人しくしていた。爪切りの時間は嫌いではないらしかった。されるがままにしていた。
「もう少しだけ」
ゴロゴロゴロゴロ。
「動かないでくれよ」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
外は春の気配が近かった。暖かい風が窓の隙間から入ってきて、コテージの中は穏やかだった。
そのとき、扉が蹴り開けられた。
アルトは顔を上げた。
カイルが立っていた。
公爵家の礼服を着ていた。以前より痩せていた。目の下に隈があった。目だけが以前より尖っていた。後ろに私兵が三人いた。全員が靴のまま土間に立っていた。
「おいアルト」カイルが言った。
「見つけたぞ」
アルトはカイルを一秒見た。
ミィちゃんの爪切りに戻った。
「靴は脱いでください。床が汚れます」
「何だその態度は」
「爪切りの最中なので、少し待ってください」
「待て? 私がお前を待つと思っているのか」
カイルは中に入った。靴のままだった。
「いいか、感謝しろ。父上と相談して、特別にお前を公爵家に戻してやることにした。跡継ぎの座を用意してやったぞ」
アルトは爪切りを一回入れた。
「要りません」
「は?」
「跡継ぎは要りません。僕ここで猫のブラッシングと爪切りで忙しいので」
カイルの顔が赤くなった。
「忙しい? 猫の爪切りが? 貴様、公爵家の跡継ぎと猫の爪切りを秤にかけているのか」
「秤にかけるまでもなく、爪切りの方が今は大事なので」アルトはミィちゃんの左前足に移った。
「あと靴を脱いでください。さっきも言いましたよ」
「靴など」カイルは言いかけて、止まった。
自分でも靴のことを言われ続けることが想定外だったらしかった。
「靴より大事な話があると言っているんだ。聞け。領地で少々魔獣の被害が出ている。お前が結界の補修をすれば済む話だ。感謝しろ、父上と相談してわざわざ迎えに来てやったんだぞ」
「結界というのは」
「昔からあった公爵領の結界だ。なぜか最近弱まってきているが、お前が何かしていたのだろう。戻って直せ」
アルトは少し首を傾けた。
「僕が何かしていたかどうかは分かりませんが、戻る気はないです。ここの方が居心地がいいので」
「居心地がいい」カイルは声を荒らげた。
「居心地の問題ではない。公爵家が破滅しかけているんだ。魔獣が領内に入り込んで、作物も育たない。このままでは」カイルは口を閉じた。
言いすぎたと思ったらしかった。しかしもう遅かった。
「とにかく戻れ。お前しかいないんだ、結界を直せるのは」
「それは困りましたね」アルトは言った。
「でも、僕には関係のないことなので」
カイルの顔が赤から紫に変わった。
「関係がない? 実家だぞ。血を分けた家族だぞ。それが関係ないとは何事だ」
「追放されたので」
「それは」カイルは一瞬詰まった。
「それは当時のやむを得ない判断だった。今は事情が変わった。だからこうして迎えに来ているんだ。感謝こそすれ、文句を言う筋合いはない」
アルトはミィちゃんの右後足を持った。
「追放されたことへの謝罪がなければ、話を続けても仕方がないと思います」
「謝罪? 私が? お前に?」
「ええ」
カイルの目が細くなった。
「調子に乗るな」声が低くなった。
「追放されたゴミの分際で、誰かに拾われたからといって口が利けるようになったか。いいか、今でも公爵家はお前を取り戻してやる気があるんだ。それを断るなら、ここで持っているもの全部置いていけ。技術も、猫どもも、この土地も、全部だ。もともと公爵家の名で手配したものだろう」
「違いますよ」アルトは言った。
「王家から直接認定を受けた辺境伯領です。公爵家は関係ありません」
「うるさい」カイルは剣に手をかけた。
「もう十分話した。力ずくで連れ帰る。嫌なら技術だけ置いていけ。猫どもは残してもいい。どうせ役に立たないんだろうから」
アルトは爪切りを置いた。
カイルを見た。
「ミィちゃん、ちょっと待ってくれ。もう少しで終わるから」
「その猫に話しかけるな」カイルが怒鳴った。
「今すぐ立て。剣を抜かれたくなければ」
『────シャーッ!!!!!』
音が来た。
音というより圧だった。
コテージの屋根から、窓際から、庭から、部屋の隅から、一斉に声が来た。
百匹超える目が、黄金色に光った。
空気の密度が変わった。
重力が増したような、押しつぶされるような何かが、部屋全体に満ちた。音もなく、熱もなく、ただ圧力だけがあった。息が吸いにくく、立っているのが難しかった。
私兵の一人が膝をついた。もう一人が壁に手をついた。三人目がその場に座り込んだ。全員の顔が白かった。
カイルは剣の柄を掴んだまま、動けなかった。
足が震えていた。ガタガタと震えていた。手も震えていた。剣を抜く気力が、どこかへ消えていた。
「ひ」
声が出た。
「ひぃ」
また出た。
股間の辺りが、じわっと温かくなった。
「あ、ミィちゃんダメですよ」アルトが言った。
「そんなに威嚇したら、兄上が怖がってしまいます」
ミィちゃんがカイルを見た。
「グルル」
一声だった。低かった。
カイルは白目を剥いた。
膝から崩れ床に倒れ動かくなかった。
アルトはそれを見てから、ミィちゃんの爪切りの続きを始めた。
「驚かせてしまいましたね」
ゴロゴロゴロゴロ。
「もう少しで終わりますよ」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
コテージの外で、一部始終を見ていた男がいた。
オズワルドの手下だった。今日はコテージへの荷物の確認で来ていた。
手下は震える手で手帳を開いた。
見たものを全部書き、書き終わって、帰った。
報告を受けたオズワルドは、珍しく顔色が変わった。
「公爵家の嫡男が、あのお方に剣を向けただと」
「向けようとしました。実際には抜けていませんでしたが」
「抜けていなかったから良かったものを」オズワルドは立ち上がった。
「一歩間違えれば、王都まで巻き込んで全滅していたぞ」
「そこまでになりますか」
「考えてみろ」オズワルドは窓の外を見た。
「ミィちゃんが威嚇しただけで、私兵三人が気絶した。本気で怒ったら、この王都ごと。いや、この国ごと」
部下は黙った。
「あのお方が不快だと一言呟くだけで、我が国は一夜で消える」
オズワルドは通信石を取り出した。
「バルド長官に繋げ。今すぐだ」
バルド長官のもとに通信が届いたのは、翌朝だった。
内容を聞いた。
椅子に座ったまま、しばらく何も言わなかった。
副長官が恐る恐る聞いた。
「長官。いかがなさいますか」
「公爵家の解体手続きを始めろ」
副長官が止まった。
「よろしいんですか。公爵家は由緒ある」
「王国最大の聖域に対して、力で脅しをかけた」バルドは立ち上がった。
「それだけで十分だ。だが理由はそれだけではない」
「他に何が」
「あのお方が不快だと呟くだけで、我が国は一夜で滅ぶ」バルドは副長官を見た。
「それが分からない馬鹿を、このまま公爵として置いておけるか。次に何をするか分からない。領地没収、爵位剥奪、全員平民に降格。速やかに執行しろ」
「承知しました」
バルドは窓の外を見た。
王都の空が、春になっていた。
「辺境伯には報告するのですか」
「しなくていい」バルドは言った。
「どうせブラッシングをしているだろう」
コールドランドのコテージでは、アルトがミィちゃんの爪切りを終えていた。
爪切りの後、ブラッシングもした。
ミィちゃんがきれいになった。
「変な人が来ましたね」アルトが言った。
ゴロゴロゴロゴロ。
「まあ、帰ったのでよかったです」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
アルトはミィちゃんを膝に乗せたまま、横になった。
昼寝の時間だった。
窓から春の風が入ってきた。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
音が続いた。
コールドランドの昼は、穏やかだった。




