第13話:王都の精鋭
王都を出発する前夜、騎士団長補佐のセルジュは地図を広げて部下たちに言い渡した。
「コールドランドは極寒の不毛地帯だ。常時観測されている魔力反応の規模は、王国観測史上最大。魔法省の試算では、上位魔獣が十体以上集結した場合に匹敵する数値が出ている」
部下の騎士四人と魔導士二人が、神妙な顔で頷いた。
「任務は二つ。一つ、現状の調査と魔力反応の原因特定。二つ、皇女殿下の命による国賓級の礼をアルト・ド・ファルク殿へお伝えすること」
魔導士のエルドが手を上げた。
「魔力反応への対処は」
「護符を常時着用。魔力遮断の結界を展開しながら進む。何かあれば即座に撤退。いいな」
「はっ」
「繰り返す。観測史上最大の魔力反応だ。気を抜いた者から死ぬと思え」
全員の顔が引き締まった。
七人は翌朝、完全武装で馬に乗って北へ向かった。
三日後。
コールドランドに入った瞬間、セルジュは手を上げて全員を止めた。
「止まれ」
全員が馬を止めた。武器に手がかかった。
「……気温が上がっている」
「はい」
エルドが護符を握りしめた。
「魔力反応も急激に強くなっています。何かの結界に入った可能性が」
「熱線魔法の罠か」
「あるいは精神を攪乱する幻惑結界かと。体に異常は」
全員が自分の体を確認した。
「手足の感覚は正常です」
「思考は」
「今のところ」
「油断するな。幻惑系は気づかないうちに侵食する」
セルジュは剣の柄に手をかけたまま、ゆっくりと馬を進めた。
「前を見ろ。罠があるとすれば」
前を見た。
緑があった。
芝草だった。
「……幻か」
「幻にしては鮮明すぎます」
エルドが震える声で言った。
「隊長、魔力反応がさらに強くなっています。発生源はあのコテージの方角から」
石造りのコテージがあった。煙突から煙が出ていた。周囲に芝草が広がっていた。温泉の湯気が白く上がっていた。
そして。
コテージの前の芝草に、白い丸いものがいた。
「……あれは何だ」
「分かりません」
「生き物か」
「動いています」
白い丸いものが、芝草の上でごろごろと転がっていた。足をぱたぱたさせていた。その周囲にも、黒いのや縞のや、大小様々な丸いものが点在していた。
「隊長」
エルドの声が低くなった。
「あれです。あれが魔力反応の発生源です」
「……あの丸いものが」
「はい。間違いありません」
全員が丸いものを見た。丸いものが転がっていた。足をぱたぱたさせていた。
「撤退するか」
と誰かが言った。
「するか」
とセルジュが言った。
「我々は王家の特使だ。丸いものを前に逃げ帰れるか」
「でも隊長、あの丸さは」
「見るな。惑わされるな」
「でも」
「見るなと言った」
セルジュは自分も見ないようにしながら、馬を進めた。
コテージの扉が開いて、若い男が出てきた。
茶色い髪の、線の細い男だった。手に木の板を持っていた。エプロンをしていた。
「こんにちは」
穏やかな声だった。完全武装の特使七人を見て、特に驚いた様子がなかった。
セルジュは馬から降りて、姿勢を正した。
「アルト・ド・ファルク殿でしょうか」
「そうですが」
「王家よりの特使、セルジュ・ド・マルクと申します」
セルジュは一礼してから、懐から書状を取り出した。
「皇女エリナ殿下より、国賓級の礼として、こちらをお受け取りいただきたい」
書状を両手で差し出した。
王家の紋章が入った、金箔押しの封筒だった。中には王国全土における税の永久免除と、辺境開発の全権委任状と、国家予算の一割に相当する報奨金の目録が入っていた。
魔法省の精鋭が護衛についた国賓待遇の証明書もあった。
アルトは受け取った。
開けた。
ざっと見た。
「そこに置いておいていいですか」
セルジュの手が、止まった。
「……は」
「パンをこねていたので、粉がついてしまうと申し訳なくて」
アルトはコテージの入り口の棚の上に書状を置いた。ミィちゃんの爪研ぎ板の隣に、無造作に。
セルジュは棚を見た。国家予算の一割の目録が、猫の爪研ぎ板と並んでいた。
後ろで誰かが小さく息を飲んだ。
「中へどうぞ」
アルトが言った。
「ちょうどパンが焼けるところです」
「いえ、まず調査を」
セルジュは踏みとどまった。
「この地の魔力反応について、確認したいことが」
「中の方が話しやすいですよ」
「しかし」
「立ち話も何ですし」
セルジュは部下を見た。部下たちが頷いた。
エルドが「中の方が魔力反応を詳しく計測できます」と言った。
「……失礼します」
コテージの中は温かかった。
床から熱が伝わってくる。壁に隙間はなく、外の風が全く聞こえなかった。
キャットタワーがあった。
各段に猫が乗っていた。冬毛でそれぞれが二回りほど大きくなっていて、タワー全体がもふもふした塊のようになっていた。
全員がタワーを見た。
タワーの猫たちが全員、こちらを見た。目が光っていた。緑や金や青や琥珀色の目が、一斉にこちらを向いた。
エルドが護符を両手で握りしめた。
「隊長」
囁き声だった。
「あれです。発生源はあのタワーの猫たちです」
「……猫が」
「猫です。ただ、これだけの魔力が」
エルドの声が震えた。
「隊長、あれは普通の猫じゃない。下手な上位魔獣より、ずっと」
「分かっている」
セルジュは視線を猫から外さなかった。
「エルド、結界は」
「展開中ですが……なんか、じわじわ溶けていく気がします」
「精神攪乱か」
「いや、そういう感じでもなくて。なんというか」
エルドは言葉を選んだ。
「温かい、感じが」
「惑わされるな」
「はい」
「絶対に惑わされるな」
「はい」
アルトがパンを持ってきた。
黄金色だった。湯気が出ていた。焼けた麦の香りがした。
「調査の前に、どうぞ」
セルジュは受け取った。
任務中に食事を摂るのは本来ならば手順を踏むべきだった。毒見も必要だった。
しかしアルトの手からパンを受け取った瞬間、香りが鼻に届いて、気づいたらかじっていた。
外がカリッとした。
中がふわっとした。
「っ」
セルジュは飲み込んだ。もう一口かじった。止まらなかった。
後ろで部下たちも黙って食べていた。コテージの中が静かになった。ゴロゴロ音だけが、あちこちから聞こえていた。
「……このパンには何が」
セルジュはなんとか口を開いた。
「何か入っていますか。秘薬か何か」
「黄金大麦と塩と水です」
「なぜこんなに」
「窯の具合が最近良くて」
セルジュはパンを見た。残り一口だった。いつの間にここまで食べていたか分からなかった。
「調査を続けます」
セルジュは立ち上がろうとした。
「魔力反応の原因について、まず」
そのとき。
膝に何かが乗った。
重かった。温かかった。
見ると、白い猫がいた。冬毛でまん丸に膨らんでいた。セルジュの膝の上で、青い目でこちらを見上げていた。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
「……ミィちゃんです」
アルトが言った。
「気に入られたようですね」
セルジュは動けなかった。
動いたら、この重さと温かさが消える気がした。
「隊長」
エルドが囁いた。
「調査は」
「……少し待て」
「でも」
「少し待てと言った」
セルジュは自分の手が動いているのに気づいた。気づいたときには、ミィちゃんの頭を撫でていた。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
音が大きくなった。
セルジュの思考から、何かがゆっくりと抜けていった。任務。報告書。観測史上最大の魔力反応。全部が遠くなった。
「おのれ」
セルジュは呟いた。
「これが神獣の……これが」
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
「抗えん」
後ろでエルドが短く叫んだ。
振り向くと、縞模様の猫がエルドの肩に乗っていた。エルドの手が震えながら、縞猫の背中を撫でていた。
「エルド」
「わ、分かっています隊長。これは神獣の魔力による精神干渉で、私は今確実に影響を受けていて、本来ならば護符で」
ゴロゴロゴロゴロ。
「護符で……あ」
「エルド」
「隊長、この子、喉の音が」
ゴロゴロゴロゴロ。
「隊長、喉の音が、すごく」
「エルド、しっかりしろ」
「……温かいです」
エルドの護符が、ポケットに落ちた。
セルジュは前を向いた。膝の上のミィちゃんが目を細めていた。
「アルト殿」
「はい」
「一つだけ聞かせてください」
セルジュはなんとか声を出した。
「この魔力反応の正体は、何ですか」
「猫たちのゴロゴロ音です」
「……ゴロゴロ音が」
「冬毛の時期なので、最近特に機嫌が良くて」
セルジュは手帳を取り出した。書こうとした。
手が動かなかった。
ミィちゃんが手帳に頭を押しつけてきた。
ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。
「……観測史上最大の魔力反応の正体」
セルジュは呟いた。
「冬毛の猫のゴロゴロ音」
手帳を閉じた。
閉じてから、もう一度開いた。書かなければならなかった。これを王都に送らなければならなかった。
でも今は、ミィちゃんが膝にいた。
「報告書は」
セルジュは遠い目をした。
「明日書く」
「隊長っ」
エルドが叫んだ。叫びながら縞猫を撫でていた。
「任務が」
「明日だ」
「しかし」
「明日と言った」
ゴロゴロゴロゴロ。
コテージの中が、重なった音で満たされた。
セルジュは膝のミィちゃんを撫でながら、窓の外を見た。青い空だった。温泉の湯気が白く上がっていた。
王都の冬の灰色の空とは、全然違う空だった。
「アルト殿」
「はい」
「温泉は、入っても構いませんか」
「どうぞ。タオルは棚にあります」
セルジュはミィちゃんをそっと膝から下ろして、立ち上がった。
後ろでエルドが「あ、猫が。猫が行ってしまった。戻ってきてくれ」と言っていた。
コールドランドの午後は、穏やかに過ぎていった。




