第12話:皇女の外套
冬毛というものがある、とアルトが気づいたのは、ブラッシングの時間が倍になってからだった。
毎朝、いつも通り順番に並んだ猫たちに櫛を入れると、抜け毛の量が明らかに違った。
一匹あたり、先月の倍以上出た。
しかも毛質が変わっていた。夏毛より細くて、密度が高くて、空気を含んでいた。指でつまむと、綿菓子みたいにふわりと広がった。
籠が一時間で満杯になった。
「ガインさん、今日も籠がいっぱいになりました」
「またか」ガインが覗き込んだ。
「冬毛じゃな。夏毛より断然質がいい。紡いでも良いか」
「どうぞ」
ガインが紡ぎ始めた。
アルトは次の猫のブラッシングを続けた。
籠が二つ目も満杯になった。
「……毎日これが続くのか」ガインが呟いた。
「しばらくは続くかと」
「わしの腕が追いつかん」
「紡ぎきれない分は袋に入れておきましょうか」
「もったいなくて袋に入れられん」
ガインは腕まくりをして、紡ぐ速度を上げた。ドワーフの職人魂に火がついたようだった。
三日後、ルークがコテージを訪ねてきた。
定期的な荷の確認と、取引の報告のためだった。コテージに入ってすぐ、山積みになった大きな袋に気づいた。
「これは」
「猫の冬毛です。ガインさんが全部紡いでくれました」
ルークは袋を一つ開けた。糸を取り出して、指に巻いた。引っ張った。
目が変わった。大商人の、鋭い目だった。
「アルトさん。これで外套が作れますか」
「外套?」
「防寒用の上着です。今の量があれば、大人一人分は作れそうで」
アルトは首を傾げた。猫たちのためになるものではなかったが、余っているものを使うなら良かった。
「やってみます」
型を取って、裁断して、魔力で仕立てた。
布団を作ったときと同じ要領だったが、今回は形が複雑だった。袖と衿と前合わせ。アルトは何度か魔力の流し方を調整しながら、形を整えた。
できたものを広げた。
白と黒と縞模様の、不思議な光沢を持つ外套だった。持ち上げると、拍子抜けするほど軽かった。羽毛より軽かった。
「着てみていいですか」
ルークが聞いた。
「どうぞ」
ルークが袖を通した。
そして、動かなくなった。
「……温かい」
「ええ」
「温かいんですが、それだけじゃなくて」
ルークは外套を着たまま、何度も深呼吸をした。
「なんか、もの凄く落ち着きます。心の奥がじんわりとするというか、安心感が半端ではないのですが……」
「猫の毛ですからね。あ、一応、魔法で消臭はしたんですけど……かすかに、お日様と甘い匂いが混ざったような『猫の後頭部の匂い』が残っちゃってますね」
「猫の後頭部の匂いだと落ち着くんですか」
「ブラッシング中も落ち着きますよ、みなさん」
ルークは自分の常識を脇に置き、外套を脱いで丁寧に畳んだ。
「アルトさん。これを一着、王都に持っていかせてもらえますか」
「邪魔なので持っていってください」
「邪魔……そうですか。大切に使います」
王都に届くまで、十日かかった。
ルークはこれを、あえて王家御用達の仕立て屋には持ち込まなかった。
いきなり大々的に動かせば、利権に聡い大貴族たちにアルトの存在を嗅ぎつけられ、囲い込まれてしまう危険があったからだ。
ルークは「信頼できる小さな商会」の目利きを挟んだ上で、病弱な皇女への「個人からの極秘の献上物」という形でルートを繋いだ。確実な既成事実を作るための、ルークの冷徹な計算だった。
受け取ったのは第一皇女、エリナだった。
十九歳で、生まれつき体が冷えやすく、冬になると執務室に炉を三台入れても指先が悴むと言っていた。
神獣毛の外套を着せてもらったとき、最初は何も言わなかった。
ただ、目が潤んだ。
「……温かい」
侍女が頷いた。
「しかも」エリナは外套の襟元にそっと顔を寄せ、小さく鼻を鳴らした。
「落ち着く。なぜか、すごく落ち着く。お日様のような、どこか懐かしい香りがして……」
「素材の特性かと」
「猫の毛と聞きましたが」
「はい」
エリナはしばらく黙っていた。外套の袖を撫でていた。白く冷え切っていた彼女の指先に、みるみるうちに健康的な血色が戻っていた。
「これを作った者は」
「コールドランドの……」
「コールドランド?」
侍女が眉を上げた。
「あの不毛地帯の」
「はい。ただ現在は、その、かなり状況が変わっているようで」
エリナは外套を着たまま、立ち上がった。その佇まいには、病弱さを感じさせない皇族としての威厳が満ちていた。
「その者に国賓級の礼をせよ」
「は」
「それと」エリナは窓の外を見た。
王都の冬の空は灰色だった。
「その猫たちにも、よろしく伝えてください。とても素晴らしい毛をありがとう、と」
侍女は返事ができなかった。
その報告がルークのもとに届いたのは、さらに五日後だった。
ルークはコテージの台所で、アルトが白くて丸いパン生地を熱心にこねているのを見ながら、書状を読んだ。
「アルトさん」
「はい」
「王家から、国賓級の礼を、と」
「はあ」
「それと、皇女殿下が猫たちによろしくと」
「伝えておきます。喜びますよ」
「……それだけですか」
「何かありましたか」
ルークは書状を畳んだ。
窓の外で、ミィちゃんが芝草の上に寝転がっていた。冬毛がふわふわに膨らんで、まるで白い小山のようになっていた。
「いえ。何もありません」
アルトがこねていた生地を、猫の頭のように丸くいくつも並べて竈に入れた。
しばらくすると、コテージの中に甘く香ばしい匂いが満ちていった。焼き上がったのは、冬毛の猫たちのようにモコモコと膨らんだ、焼き立ての「ちぎり白パン」だった。
ちぎると、中からふわっと温かい湯気が立ち上る。
「今日のは特にモコモコですね」
「冬毛のイメージじゃな」
ガインが笑いながらパンを頬張る。
アルトが平然とお茶をすする。
ゴロゴロゴロゴロ。
外から音が聞こえてきた。
コールドランドの空は今日も青かった。




