第一話 火竜の鼻先で
「番探しの宴」の銅鑼が鳴った日、王立中央病院の第七診察室に、竜が来た。
その男は震える声で、アイリス・フォッセルを指してこう言った。
「お前だ」
*
その日、アイリスは十二件目の患者の処方箋を書き終えたところだった。窓の外で銅鑼が鳴った。三度、ゆっくりと。
廊下が静まり返った。看護師が祈るような顔で扉を閉めた。エルフォニア王国民にとって、五十年に一度のこの日は、誰かが消える日だった。隣の家のだれかが。あるいは ── 自分が。
アイリスは羽根ペンを置き、白衣の袖口を整えた。怯えても仕方がない。番にされる確率は、計算上、二万分の一以下だ。彼女は確率を信じる女だった。
三度目の銅鑼の残響が消えたとき、扉が音もなく開いた。
先に入ってきたのは、匂いだった。
硫黄。焼けた鉄。雨のあとの岩。診察室の空気がひと呼吸で入れ替わった。棚の消毒液の匂いが押しのけられて、部屋の隅へ追いやられていくのが分かった。
そこに立っていたのは、深紅の長い髪を首の後ろで縛った男だった。背は天井に届きそうで、瞳は溶けた金属の色をしていた。耳の上に小さな角が二本。指の関節は人間より一節多く、爪は黒い。
竜人だ ── と理解した瞬間、男はアイリスのほうに一歩、踏み出していた。
部屋の温度が上がった。比喩ではない。窓のガラスが内側から白く曇りはじめ、机の水差しと飲みかけの黒い茶の水面が、かすかに震えていた。
アイリスは反射的に自分の手首を押さえていた。医師の癖だった。脈、一分間に百二十。頻脈。恐怖の生理反応として正常。
それなのに、頭のほうは奇妙なほど冷えていた。
「お前だ」
声は思いのほか低く、震えていた。震えていたのは、男のほうだった。
「番だ。私の番だ。間違いない」
アイリスは羽根ペンを取り直した。検証癖が顔を出す。
「失礼ですが ── 何を根拠に、私が番だと分かったんですか」
男は目を見開いた。
「……基準など、ない」
「では、どのようにして判定なさったのですか」
「分かるのだ。嗅げば、分かる」
アイリスは書きかけの処方箋を裏返し、その白い面に線を一本引いた。問診票を書くときの手つきだった。
「では確認させてください。私は今朝から酒精と没薬の軟膏を扱い、他人の血に触れています。指にはまだ血の匂いが残っているはずです。あなたが嗅ぎ取ったのは、私ですか。それとも、私に付着した他人ですか」
「お前だ」
「根拠を」
「お前の匂いだからだ」
「それは、答えになっていません」アイリスは静かに言った。「では、たとえば私が今日、高熱を出していたとします。発熱すれば発汗が変わり、体臭も変わる。それでもあなたは、私を番だと判定しましたか」
男は答えなかった。
答えられないのだ、とアイリスは思った。
「変わらん」ややあって、男は言った。「熱があろうと、腐っていようと、骨になっていようと、分かる」
「骨に体臭はありません」
男は牙を見せかけて、やめた。
「では、最後にひとつ」アイリスはペンの先を彼のほうへ向けた。「その匂いは他の獣人にも嗅ぎ取れるのですか。いま廊下にいる衛兵にも、私はあなたと同じように匂いますか」
そのときだけ、男の答えは早かった。
「匂わない」
彼は自分の胸のあたりを、握りつぶすような仕草をした。
「番の匂いは、番にしか届かない。他の獣人にとって、お前はただの人間の匂いでしかない。この世でお前の匂いを知っているのは、私だけだ」
それは、この男にとってはおそらく愛の告白だった。
アイリスにとっては、ただの、根拠のない口説き文句だった。
男がもう一歩、近づいた。
机を挟んで、影が落ちた。彼の体温が、書類の上を渡ってくるのが分かった。焚き火の前に立ったときの、あの感じだった。
「怖くはないのか」
「怖いです」アイリスは正直に答えた。「脈が乱れています。手も、たぶん、震えています」
彼女は自分の右手を見た。震えていた。ペン先が紙の上で小さく踊っていた。
「ですが怖がったところで、あなたは帰らないでしょう」
「帰らん」
「逃げたら」
「追う」
「では逃げません。無駄な体力は使わない主義です」
男は、大きな体を折るようにして、アイリスの目の高さまで身を屈めた。
角の先に、天井の灯りが映っていた。
「名を」
「アイリス・フォッセルです」
彼はその名を、口の中で二度、繰り返した。壊れやすいものを両手で持つような、慎重な言い方だった。
「ヴェルグリム。火竜の王子だ」
「存じません」
「これから知る」
廊下で看護師が何かを取り落とす音がした。誰も拾わなかった。
アイリスは、机の上の処方箋の束を、角を揃えて重ねた。十二枚。今日の分は、これで終わりだった。
明日の分は、たぶん、書かない。
「つまり」と、彼女は言った。「あなたにしか分からなくて、誰にも確かめられなくて、否定もできない。それは、根拠ではありません」
男は、しばらく黙っていた。
それから、生まれて初めて笑うような顔をした。
「お前、面白いな」
その声で、アイリスはようやく恐怖を覚えた。
道理も、計算も、この男には通じない。




