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足手まといの没落貴族を拾ったら、数年後、相棒へと成長した彼から逃げられません  作者: *しおり*


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8

水上都市ヴェネトの湿り気を帯びた潮風は、大河を遡るにつれて、次第に肌を焦がすような熱風へと変わっていった。


結社の精鋭との激戦をくぐり抜けた小型艇の甲板には、夥しい数の空薬莢が転がっている。

「『沈黙の海峡』を抜けるには、今の丸腰に近い装備じゃ自殺行為だ」

ニコはひび割れた唇から乾いた声で告げると、操舵輪を大きく切った。「……少し寄り道をして、腐れ縁の親父のところへ行く」


エンジンの一定の駆動音だけが響く中、ロレンツォは甲板の隅に力なく座り込み、手桶に汲んだ海水で、狂ったように両手を洗い続けていた。


 廃造船所の暗がりで、見張りの男の太ももにナイフを深々と突き立てた感触。大動脈を避けたとはいえ、生きた人間の肉を裂き、噴き出した生温かい血を浴びたのは生まれて初めてのことだった。  いくら冷たい海水で擦っても、掌にこびりついたドロドロとした血の匂いと、刃から伝わった命の重さが落ちない。


『上に立つ者は、弱き者を守り、理不尽な不正を決して許してはならない。それが我がバルディの誇りであり、果たすべき義務だ』


 父から教えられたその貴族の矜持を、ロレンツォは法と正義という美しく清潔な手段で成し遂げるものだとばかり信じていた。


悪は法廷で裁かれ、世界は秩序によって保たれるべきなのだと。  だが、昨夜、理不尽な暴力に蹂躙されそうになったルカやマリアたちを救うために自分が選んだのは、法などではなく、明確で野蛮な『暴力』だった。


 この手で人を刺し、血を流させた。


その事実が、かつて温室で法学書を諳んじていた無垢な自分との、決定的な決別を突きつけてくる。


 もう、二度とあの美しいだけの光の世界には戻れない。


自分の手は永遠に汚れてしまったのだという深い喪失感と倫理的な葛藤が、胃の腑を重く締め上げ、小刻みな震えとなって指先に現れた。  ロレンツォは濡れた顔を両手で覆い、ひゅうと細い息を吐き出した。


その時。


不意に、強い潮風に乗って、前方の操舵輪からあの火薬と機械油、そして安いタバコの匂いが流れてきた。

顔を上げると、そこには背が低く、自分よりも華奢な、ニコの背中があった。  


彼女は、この血なまぐさい痛みをどれほど一人で背負い込んできたのだろうか。


愛する者たちの日常を守るために、自身の幸せすら切り捨てて、自ら進んで泥を被り続けているあの小さな背中。  そして亡き父もまた、法で救えない底辺の世界を守るために、たった一人で裏帳簿という泥を被っていたのだ。


(……美しいだけの清潔な手で、誰かを守れるものか)


 ロレンツォは、赤く擦り切れた自分の両手を見つめ直した。  永遠に血と泥で汚れてしまった醜い手。だが、この手がなければ、昨夜ルカたちを救い出すことはできなかった。


 真の『貴族の矜持』とは、高みの見物で法を説くことではない。理不尽な悪から弱き者を守るために、自らの手を泥と血に染める覚悟のことなのだ。


 ロレンツォは、胸の奥で渦巻いていた葛藤と恐怖を強引に呑み込み、震える指を一本ずつ折りたたむようにして、固く、力強い拳を握りしめた。



両岸から迫る岩肌が視界を覆い尽くした先に現れたのは、切り立った赤茶けた断崖絶壁にへばりつくように作られた山岳の要塞都市だった。


イゾラの眩しい陽光やヴェネトの優雅な水音はない。鉄屑の街の腐臭すらない。そこにあるのは、喉の奥が焼けるような砂埃と、容赦なく水分を奪っていく乾燥した空気、そして剥き出しの、荒涼の中での生存競争の気配だけだった。


照りつける太陽が深い黒の影を落とす、迷路のように入り組んだ岩肌の路地。


二人が足を踏み入れたのは、岩をくり抜いて作られた、ひっそりとした工房だった。


カラン、と無愛想なベルが鳴る。外の暴力的な熱気から一転、店内はひんやりと薄暗く、鼻腔を突くのは古い火薬と、削り出されたばかりの新しい鉄の匂い。


「……よう、不良娘。また厄介ごとを連れてきやがったな」


ギシッ、と重い足音を立てて、店の奥から大柄な影が姿を現した。片足が義足の、初老の男だ。顔には斜めに走る深い刀傷があり、歴戦の傭兵特有の、空間を制圧するような重い威圧感を纏っている。だが、細められた瞳の奥には、裏社会の人間には似つかわしくない、確かな温もりが宿っていた。


「……親父。また無茶なオーダーをしに来たよ。弾薬と、こいつのメンテナンスを頼む」


ニコは挨拶もそこそこに、背中に背負っていた古い機関銃をカウンターにドンと置いた 。血と泥に汚れた革ジャケットはボロボロで、その声には隠しきれない極度の疲労が滲んでいる。

彼女はそのまま、工房の隅に置かれた古びた革のソファへと重い足を引きずり、どっかりと倒れ込んだ。


そして、ロレンツォが目を疑うほどの早さで、スゥ……と、規則的で無防備な寝息を立て始めたのだ。


「……なっ」

ロレンツォは息を呑み、ソファで丸くなる小さな背中を凝視した。

あの鉄屑の街の船でさえ、冷たい鉄の壁に背を預け、手元にあるナイフの柄に指をかけたまま浅い眠りについていた彼女が。少しでも物音がすれば、即座に相手の喉笛を掻き切る獣のように常に張り詰めていた彼女が。

今はまるで、親鳥の羽の中に守られた雛鳥のように、一切の警戒を解いて熟睡している。


(あいつが、こんな見知らぬ場所で、完全に気を抜いている……?)


信じられないものを見るロレンツォの横で、ガルドと呼ばれた初老の男は、義足を引きずりながらカウンターの奥へ向かい、ガラスのコップに冷えた水を注いだ。


ガルドはカウンターの奥へ向かい、ガラスのコップに冷えた水を注いだ。


「……驚いたか、坊主」


トン、と。


結露した冷たいコップが、ロレンツォの前に滑らされる。

ロレンツォが水滴のついたグラスを両手で包み込むと、ガルドはカウンターの下から工具箱を引き出し、自身の右足――ズボンの裾から覗く、無骨な鋼鉄の義足のジョイントに油を差し始めた。


「あいつが俺の前でだけあんなに無防備になるのはな」

ガルドの低い、地の底から響くような声が、火の落ちた薄暗い工房に落ちる。


「俺が、あいつの幼馴染だった『アルド』の元上官で……あいつに、人殺しの術を叩き込んだ張本人だからさ」


その言葉に、ロレンツォの手の中でコップの中の水が、ピクリと小さく揺れた。


「ニコの、過去……」

ロレンツォはグラスの水滴ごと、ごくりと息を呑んだ。


ガルドは油まみれの指でマッチを擦り、古びたパイプに火を点けた。甘ったるい葉巻の匂いが、火薬の匂いと混ざり合って漂う。


「俺とアルドは、共和国の最前線で泥泥を這いずり回る傭兵部隊にいた。……ひどい戦争だったよ。毎日隣で飯を食ってた奴が、次の日にはただの肉片に変わる。俺はこの右足を吹き飛ばされ、アルドは……俺の判断ミスのせいで、帰らぬ人になっちまった」


ガルドは義足の冷たい鉄を太い指で撫でながら、酷く自嘲的に目を伏せた。


「アルドが前線で死に、あいつが生き残るために手を染めていた裏の借金だけが街に残された。組織の連中は、その返済代わりに、アルドの身寄りであるジュリオたちの酒場を差し押さえようとしたんだ」


ガルドは紫煙を細く吐き出し、カウンターの上に置かれた無骨な機関銃へと視線を落とした。


「酒場を……。それじゃあ、ニコは……」

「ああ。あいつは、愛する幼馴染たちの居場所を守るために、死んだアルドの銃とナイフを引っ提げて、たった一人で組織の事務所に乗り込んできた 。……『私がアルドの代わりに汚れ仕事をするから、店には手を出すな』ってな 」


ロレンツォの心臓が、大きく跳ねた。息が詰まりそうになり、手元のグラスをきつく握りしめる。冷たい水滴が、潰れたマメの傷口に染みた。


(ニコも……僕の父上と同じだったんだ)


彼女が好き好んで、血に塗れたバケモノになったわけではない。ジュリオたち、愛する者の日常を守るために、自ら裏社会の泥を被り、闇の底へと身を投げ打ったのだ。


あの鉄屑の街の路地裏で、彼女が自分の手よりも明らかに大きなナイフを無表情に握りしめていた光景が脳裏に蘇る。なぜ彼女が、最新式の銃器が飛び交うこの時代にあえて旧式の機関銃を錨のように背負い、決して手放そうとしないのか。


そのすべての理由が繋がり、ロレンツォの胸をギリリと締め付けた。


「無事に因縁を片付けて戻った時、ジュリオって男の隣には、完璧な嫁さんがいたからな。あいつは誰よりも純情で不器用だから、自分の血に濡れた手じゃ、もうその光の射す特等席には戻れねえと思い込んでる。……自分を罰するように、あえて過酷な戦場ばかりを渡り歩いてるのさ 」


その言葉に、ロレンツォの胸の奥で、じわりと理不尽な熱が広がった。


(彼女が想っているのは、あの酒場の主人か。……だが、あの男は安全な店の中でグラスを磨いているだけじゃないか。ニコの痛切な想いや自己犠牲に気づいていながら、見て見ぬふりをして、彼女だけを泥水の中に歩かせ続けているというのか)


理不尽な怒りに似た苛立ちが、ロレンツォの胸を焦がす。 それは、安全な場所から綺麗事を並べるだけの大人のずるさに対する強烈な嫌悪感だった。


そして同時に、たった一人で過去の呪縛を背負い、決して報われることのない想いを抱え続けるニコへの、初めての純粋な同情——ひどく可哀想だという痛切な思いだった。


(僕は絶対に、あんなずるい大人にはならない)


誰かのために傷つく人間を、あんな風に暗がりへ放置するなど、絶対に間違っている。

ロレンツォは奥歯を強く噛み締め、マメの潰れた手で膝をギュッと握り込んだ。


ガルドはパイプを灰皿に置き、ロレンツォの腰に提げられた物を見た。


白い布でぐるぐる巻きに封印された『バルディ家の装飾剣』 と、ニコが貸し与えた黒ずんだ実戦用ナイフ。


「お前さん、その装飾剣を自ら封印したそうだな 。……だが、ニコの使ってるその無骨なナイフは、お前さんの手には合わねえ。マメが潰れて血だらけじゃねえか 」


ガルドの鋭い指摘に、ロレンツォは己の掌に視線を落とした。傷だらけで、泥が染み付いた不格好な手。だが、もう恥じる気はなかった。


「……それでも、僕は戦う。守られるだけの荷物には、もうならないと決めたんだ 」


ロレンツォが真っ直ぐな瞳で老傭兵を見返すと、ガルドはフッと片側の口角を上げ、義足を引きずりながらカウンターの下から一つの木箱を取り出した。


「いい覚悟だ。あの不良娘が、ただの足手まといの荷物をここまで連れてくるわけがねえ 」


カチャリ、と真鍮の留め具が外され、箱が開かれる。中に収められていたのは、一本の実戦用の短剣だった。ロレンツォの小柄な体格と手のサイズに合わせて調整された、軽量で鋭い刃。無駄な装飾は一切ないが、職人の業が詰まった機能美が、ランプの光を吸い込んで鈍く光っていた。


「持っておけ。ニコの命を拾ってくれた礼だ。……誰かのために泥を被る覚悟があるなら、そいつであいつの死角を守ってやってくれ」


ガルドはロレンツォに短剣を差し出し、その真っ直ぐな瞳を覗き込んだ。

 ロレンツォは新しい武器を手に取った。


 その瞬間、吸い付くように掌に馴染む革の柄の感触に、彼はハッと息を呑んだ。


(……僕の手に、完璧に合っている)


 自分のために極限まで調整された武器のフィット感。それを味わった瞬間、彼の中に一つの残酷な真実が落ちた。

ニコが四年間、肌身離さず使っているあのナイフの柄は、誰か別の大きな掌の形にすり減っていた。


 彼女は、自分の小さな手には全く合わないアルドの遺品を、掌にマメを潰し、指から血を流しながら、無理やり強く握り込み続けてきたのだ。

自分に合わない重い機関銃や大きなナイフを、死んだ幼馴染の身代わりになるために、痛みを押し殺して使い続けている。 その痛々しすぎる自己犠牲の重さが、自分専用に設えられたこの短剣の確かな感触を通して、ロレンツォの胸を抉るように伝わってきた。


「ガルド殿……ありがとう」


吸い付くように掌に馴染む革の柄と、込められた想いの重さに、深く頭を下げた。


「……ただ持ってるだけじゃ、そいつはすぐに使い物にならなくなる。こっちへ来な」


ガルドはカウンターに砥石と油壷を並べ、ロレンツォを手招きした。 ニコの静かな寝息が規則的に響く工房の隅で、ロレンツォの裏特訓が始まった。


これまで、剣とは磨いて美しく飾るものだと教えられてきたロレンツォが、油と鉄粉にまみれながら、実戦用の刃を自らの手で研ぎ澄ましていく作業。

マメの潰れた手に容赦なく痛みが走るが、彼は一度も顔をしかめることなく、真剣な眼差しでガルドの教えを吸収していく。


「いいか。刃ってのは自分の命そのものだ。あいつが毎日狂ったように銃やナイフの手入れをしてるのは、明日も生きて、お前を守るためだ。その意味を忘れるな」

「……はい」


ロレンツォが短く、力強く答えると、ガルドは研ぎ石の音を聞きながら、ソファで無防備に丸くなるニコへと視線を向けた。


「あいつは強がってるが、本当は誰よりも脆くて不器用なガキのままだ。だが、あの酒場のマスターも含め、大人どもはみんな、あいつの強さに甘えて『脆さ』から目を逸らしてる」


シュッ、と刃を滑らせていたロレンツォの手が、ピタリと止まった。


「……お前さんが本気であいつと肩を並べる気なら、いつか、あいつが背負ってる重い荷物を下ろさせてやってくれ。あいつを泥水の中から引き上げられるのは、最初から安全な場所にいるあの男じゃない。泥水の中で共に這いつくばった、お前さんだけかもしれないからな」


その言葉は、老傭兵から若い相棒見習いへの、祈りのような託しだった。 ロレンツォは喉の奥の熱い塊を飲み込み、眠るニコの小さな背中をまっすぐに見つめ返した。今の自分にはまだ彼女と対等に立つ力はない。だが、いつか必ずその域まで辿り着いてみせる。 ロレンツォは無言のまま、深い決意を込めて頷き、再び静かに砥石へ刃を滑らせ始めた。




……が、結局、彼らがこの山岳の要塞都市に滞在する期間は、当初予定していた数時間ではなく、『一ヶ月』に及ぶことになった。


 ガルドの情報網によれば、黒砂結社は最新鋭の艦隊まで動員して『沈黙の海峡』周辺を完全封鎖しているという。ヴェネトでの激戦で消耗しきった今の二人で強行突破すれば、確実に海の藻屑となる。


「頭を冷やせ不良娘。今は網が緩むのを待つ時だ」というガルドの一喝と、ロレンツォの冷静な説得により、ニコは舌打ちをしながらも、渋々工房の奥の空き部屋に転がり込むことを了承したのだ。


 そうして始まった一ヶ月間の潜伏生活は、ロレンツォを戦える戦士として脱皮させるための、過酷だが濃密な時間となった。


 午前中は、ガルドによる容赦のない特訓だ。ニコの見て盗めという野生的な指導とは違い、老傭兵の教えは極めて論理的かつ戦術的だった。


「ニコの戦い方は、攻撃に特化しすぎている。あいつが機関銃で前方を制圧し、突貫した瞬間——右背後に必ず一秒の死角が生まれる。お前の役目は、その一秒間に飛び込んでくる敵の喉笛を、確実に掻き切ることだ」


ガルドの義足の重い蹴りを何度も腹に受け、砂埃にまみれながら、ロレンツォはその一秒の連携を身体に叩き込んでいった。来る日も来る日も短剣を振り抜き、次第にその動きから一切の無駄が削ぎ落としていく。


午後は工房の手伝いだ。

ガルドから命じられ、銃の錆落としやジャンク品の仕分け、火薬の調合を黙々とこなす。かつては鉄の匂いだけで顔をしかめていたロレンツォの爪の間には、今や真っ黒な機械油が染み付き、いくら洗っても落ちなくなっていた。

だが、その汚れは彼にとって自分もこの世界で血を流す覚悟を決めたという、確かな誇りでもあった。


工房での潜伏生活が半月を過ぎた頃。


ガルドの苛烈なナイフの特訓を終え、ロレンツォが滝のような汗を拭っていると、日陰でタバコを吹かしていたニコが、無愛想に水の入った水筒を投げてよこした。


「……少しはマシな動きになったじゃないか、ヒヨッ子」

「ありがとう。……プハッ、生き返る」


ロレンツォが水を煽り、ふと息をついてニコの前に立った、その時だった。

ニコのタバコを持つ手がピタリと止まり、彼女は怪訝そうに眉をひそめた。


「……おい」

「なんだ?」

「お前、イゾラで会った時は私より少し背が低かったはずだろ。なんで目線が同じになってるんだ」


言われてみれば、その通りだった。出会った頃は彼女に見下ろされる形になり、キャンキャンと吠えながら背伸びをしていたロレンツォだが、今は真っ直ぐ前を見るだけで、ニコの漆黒の瞳と完全に視線が交差する。

この数ヶ月の過酷な労働と特訓、そして成長期が重なったことで、彼の身体は一気に少年のそれから青年の骨格へと成長を始めていたのだ。


「……育ち盛りだからな。毎日血反吐はかされているおかげで、無駄な贅肉が落ちて骨格がしっかりしてきたらしい」


ロレンツォが少しだけ誇らしげに胸を張ると、ニコは心底忌々しそうに「チッ」と舌打ちをした。


「まだまだガキのくせに生意気だ。……あーあ、私ももうちょっと背が欲しかったよ」


乱暴に髪を掻き毟りながらこぼしたその言葉には、いつもの悪態とは違う、ひどく切実な本音が混じっていた。

ロレンツォが驚いて目を丸くしていると、ニコは自分の華奢な腕を自嘲気味に見下ろした。


「戦場じゃ、純粋に身体がデカくて重い方が圧倒的に有利だ。どれだけ技術やスピードを磨いて死角に潜り込んでも、接近戦で壁際に追い詰められて純粋な力押しをされれば、私みたいな小柄な体格じゃまず勝ち目がない。……一度でも捕まれば、力でねじ伏せられて終わりだ」


だからこそ、だと。

ニコは無意識に、傍らに立てかけてある使い込まれた旧式の重い機関銃へと視線を向けた。


「だから私は、接近される前にあのバカ重い銃で分厚い弾幕を張って、敵を寄せ付けないようにするしかない。それでも懐に入られたら、力で組み伏せられる前に、ナイフで躊躇なく急所を抉り取る。そうやってバケモノみたいに振る舞わなきゃ、この小さな身体じゃ、愛する奴らの日常を守るどころか、明日のパンすら食えなかったのさ」


淡々と語られるその生存戦略に。

ロレンツォの胸の奥が、ギリッと音を立てて締め付けられた。

鉄屑の街で、彼女が一切の痛痒を感じないかのように自らの肉を縫い合わせていた姿。路地裏で顔色一つ変えずに敵の首を掻き切っていた姿。それらはすべて、彼女が生まれ持った狂気などではない。


小柄な女という圧倒的なハンデを抱えながら理不尽な暴力の世界を生き抜くために、彼女が血の涙を流しながら後天的に身につけた鎧だったのだろう。


「……ニコ」


ロレンツォは、ガルドから授かったばかりの自分の実戦用短剣の柄を、ギュッと強く握りしめた。

まだマメが潰れて痛む手だが、その掌は、出会った頃よりもずっと大きく、分厚くなり始めている。


「なら、僕が早く君の背を追い越す。君が力でねじ伏せられそうになった時は、僕が君の盾になる。……君の右の死角には、もう僕がいるんだからな」


えっへんと真っ直ぐで自信に満ちたロレンツォの言葉に、ニコは一瞬だけ目を瞬かせた。

そして、すぐにフッと顔を背け、照れ隠しのように紫煙を彼に向かって吹きかけた。


「……大きく出たね、ヒヨッ子。せいぜい私の弾除けくらいにはなれるように、もっと飯を食って縦に伸びな」


悪ぶった口調だったが、その横顔はどこか嬉しそうで、二人の間に流れる空気は、これまでになく穏やかで温かいものだった。


そんな空気を区切るように、ガルドが工房の奥から歩いてきた。


「休憩にするぞ」


特訓の合間の休憩時間として、ガルドが淹れた濃いブラックコーヒーの入ったマグカップが、テーブルに置かれた。

ロレンツォが一口啜り、あまりの苦味に顔をしかめながら飲んでいると、向かいに座ったニコが、周囲をチラリと警戒するような素振りを見せた。


ガルドが再び奥の工房へ引っ込んだのを確認するや否や、ニコは素早い手つきで砂糖の壺を引き寄せ、自分のマグカップへと角砂糖を五個も立て続けに放り込んだのだ。


「……なっ」


ロレンツォは思わず目を丸くした。

泥水を啜り、強い蒸留酒を煽る冷徹な掃除屋が、カップの底に砂糖が山盛りになるほど甘くして、それをちびちびと幸せそうに飲んでいる。


「……なんだい。文句あるか」


見られたことに気づいたニコが、耳まで真っ赤にして凄んできた。


「いや……。ただ、君も22歳の普通の女性らしい味覚を持っていたんだなと、安心しただけだ」


「うるさいね! 脳みそを使うから糖分を補給してるだけだ! 誰かに言ったら喉笛を掻き切るよ!」


キャンキャンと威嚇してくるその姿は、凄腕のバケモノなどではなく、ただの等身大の不器用な娘そのものだった。

先ほど語られた悲壮な覚悟と、目の前にある無防備な甘党っぷりとの落差に、ロレンツォは張り詰めていた肩の力が抜け、思わず声を上げて笑い出してしまった。



このガルドの工房での生活の中で、何よりロレンツォの心を温めたのは、夜、三人で囲む食卓の時間だった。

薄暗い工房の奥。ガルドが使い込まれた鉄鍋で煮込んだ、香辛料と豆、塩漬け肉の豪快なシチュー。

それを木皿に盛り、三人で古びたテーブルを囲む。


「親父、塩気が強すぎる。高血圧でくたばる気かよ」

「うるせえ。嫌なら食うな不良娘。だいたいお前が酒ばかり飲むから舌がバカになってるんだろうが」

「なんだとクソ親父」

悪態をつき合いながらも、ニコの表情は、鉄屑の街やヴェネトで見せていたような冷徹な掃除屋のものではなかった。

過去の幻影に囚われて泣くような悲痛な女でもない。そこにあるのは、育ての親の前でだけ見せる、ただの素直になれない不器用な娘の顔だった。


「……坊主、こいつが初めて俺の工房に転がり込んできた時の顔、見せてやりたかったぜ」


ガルドがシチューを頬張りながら、不意にニヤリと笑ってロレンツォにウインクをした。


「おい、親父! 余計なこと言うな!」


「アルドの銃を引きずってやってきた時は、まるで親を亡くした野良猫みたいにシャーシャー威嚇しててな。銃の反動で毎日肩を脱臼して大泣きするくせに、『絶対手放さない』って意地張って、俺のベッドを占領してピーピー寝言で泣いてたもんだ」


「あーっ! もう、黙れクソ親父! 次の砲弾のメンテナンス、適当に火薬詰めて暴発させてやるからね!」


顔を真っ赤にしてスプーンを振り回し、本気で怒り出すニコ。


その姿を見て、ロレンツォは堪えきれずに吹き出してしまった。


「……くくっ、はははっ! なるほど、あの野蛮な君にも、そんな可愛い時期があったんだな」

「何がおかしいんだ、お坊ちゃん! アンタの泣き顔だって大概ひどかったんだからね!」


ロレンツォは木のスプーンでシチューを掬いながら、声を出して笑い続けた。


血と硝煙に塗れた裏社会の中で、ここだけが世界から切り離されたシェルターのようだった。

アルドを失い、ジュリオを自ら遠ざけたニコにとって、このガルドの工房だけが、唯一残された、家族の温もりを感じられる場所なのだ。


(……僕が、この時間を、この人を守る)


それは、愛とか恋といった甘い感情ではなかった。ただ、誰かのために一人で傷を背負い続ける彼女を、これ以上暗がりに放っておくことなど絶対にできないという、人間としての強烈な庇護欲と、貴族としての矜持だった。


ランタンの灯りに照らされて怒るニコの横顔と、それを見て豪快に笑うガルドを見つめながら、ロレンツォは静かに誓った。いつかこの工房を出て再び過酷な修羅場に戻った時、今度は自分が彼女の盾となり、彼女が背負う重すぎる十字架を共に背負うのだと。


 ……そうして、一ヶ月の月日が流れた。  ロレンツォの体つきは来た時と比べて見違えるほど引き締まり、顔つきからは温室育ちの甘さが完全に消え去っていた。ガルドから授かった実戦用の短剣は、もはや彼の手の一部のように馴染んでいる。


 そしてついに、結社の包囲網に綻びが生じ、『沈黙の海峡』への航路が開いたという情報がもたらされたのだ。


 出立の朝である。

 ソファで丸くなっていたニコが、小さくあくびをして身を起こした。


無造作に髪を掻き毟りながらカウンターへ向かうと、完全に整備され、新品のように磨き上げられた機関銃を受け取り、満足げに鼻を鳴らした。


「……流石だね、親父。最高の仕上がりだ」

「当たり前だ。それよりニコ、お前、少し痩せたか?」


ガルドは顎をしゃくり、彼女の華奢な肩を呆れたように見下ろした。


「いつまで死んだ男の銃と、叶わねえ恋の幻影に縛られてるつもりだ 。お前はもう十分に借金は返したし、ジュリオたちの店も守り抜いた 。……たまには、自分のために生きろ。少しは女らしい服でも着て、美味いもんを食え」


ガルドの不器用な愛の説教に、ニコは動きを止めた。


彼女の油で汚れた指先が無意識に、腰のポーチ——あの『黄色いレモン』が入っている場所——にそっと触れる。漆黒の瞳が伏せられ、その横顔に一瞬だけ、泣き出しそうな、ひどく無防備で痛切な表情が浮かぶ。


(……戻れるわけないだろ。あの柑橘の香りがする綺麗な場所に、今の私が)


だが、彼女はすぐに奥歯を噛み締め、ポーチから手を離すと、いつもの悪ぶった笑みでそれを覆い隠した。


「……うるさいね、クソ親父。この泥水の中が、今の私の性に合ってるんだよ。綺麗な服なんて着た日には、肩が凝って銃も撃てやしない。お説教なら、そこのバカ坊ちゃんにでもしてやりな」


口では悪態をつき、乱暴に機関銃を背負い直す。しかし、その耳の端はわずかに赤く染まっており、今までロレンツォが見たこともないような年相応の娘の、柔らかい照れ隠し。


工房を出て、再び砂埃の舞う路地へと歩き出す。容赦のない熱風が、二人の間を吹き抜けていく。


ロレンツォは、腰に提げた新しい短剣の感触を確かめながら、前を歩くニコの小さな背中を見つめた。


(もう、この背中をただのバケモノだなんて思わない)


愛する者を守るために泥を被った、気高く、不器用な背中。だが同時に、誰にもその傷を癒してもらえない、ひどく痛々しい背中だ。


(大人が誰も彼女を助けず、あの酒場の男すら見て見ぬふりをするというのなら)


ロレンツォは、マメが潰れて血の滲む自分の小さな手を見下ろした。

まだまだ圧倒的に弱く、彼女に守られているだけの足手まといだ。


(だから、まずは強くなる。この人に『ただのガキ』と呼ばれないくらいに)


この強すぎる不器用な師匠に一人前だと認めさせ、早く肩を並べたい。そして、彼女がたった一人で背負っている重すぎる荷物を、少しでも一緒に背負えるようになりたい。 それは14歳の正義感の強い少年が抱いた、己の無力さに対する悔しさと、実直な決意だった。


ロレンツォは喉の奥の熱い塊を飲み込むと、足音を忍ばせて彼女の斜め後ろにピタリとついた。


「……君の死角は、僕が守るからな、ニコ」


小さな声で呟くと、ニコは振り返らなかった。 ただ、咥えタバコから細く紫煙を吐き出しながら、短く、呆れたように鼻で笑った。

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