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足手まといの没落貴族を拾ったら、数年後、相棒へと成長した彼から逃げられません  作者: *しおり*


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8/11

7

廃教会の冷たい石床に散らばっていたのは、抵抗の激しさを物語る、ルカの血痕だった。


「……遅かったか」 ニコが低い声で呟く。 ロレンツォは足元の血溜まりを凝視したまま、一歩も動けずにいた。


(つい昨日まで、ここでルカたちと一緒に文字を書き、不格好に割ったパンを分け合っていたのに……!)


胃の奥からせり上がってくる不快な熱さと、肺を圧迫するような鼓動。マメの潰れた指先が、制御不能なほど小刻みに震えている。


「『海図とガキどもの命を交換だ。深夜、西の廃造船所へ来い』……」


ニコが吐き捨てるように読み上げ、紙を乱暴に引き剥がした。

その隣で、ロレンツォは足元の血溜まりを凝視したまま、一歩も動けずにいた。胃の奥からせり上がってくる不快な熱さと、肺を圧迫するような鼓動。マメの潰れた指先が、制御不能なほど小刻みに震えている。


「……絵に描いたような三流の罠だね」

ニコは忌々しげにタバコを咥えると、壁に背を預けたまま、愛用の旧式機関銃のボルトを引き、薬室を確認した。金属同士が擦れ合う冷たい音が、静まり返った教会に響き渡る。

「行くよ。港の親父を叩き起こして、すぐに船を出す。今ならまだ、黒渦の海域へ逃げ込めるはずだ」


ニコが踵を返そうとした、その時だった。


「待て! ルカたちを見捨てる気か!」


ロレンツォの張り裂けるような声が、高い天井に反響した。

ニコは足を止め、暗がりの中で冷酷なまでに静かな瞳を少年に向けた。

「……当たり前だろ。あいつらはお坊ちゃんにパンを恵んでくれただけの、ただの浮浪児だ。私たちの目的は、海図を守り抜いて父上の保管庫へ辿り着くこと。あんな見え透いた罠に首を突っ込んで、命と海図をドブに捨てる義理はない」


「彼らはただの浮浪児じゃない、僕の友達だ!」


ロレンツォは両拳を強く握りしめ、ニコを真っ向から睨み返した。

「僕が、僕が不用意に彼らと関わったせいで、結社に目をつけられたんだ! 彼らを見捨てて生き延びたとして……そんな薄汚れた命で、どうやって理不尽な悪と戦う父上の正義を継ぐというんだ!」


叫ぶロレンツォの胸元では、激しい呼吸に合わせてシャツが大きく波打っている。

ニコは僅かに目を細め、タバコの灰を床に落とした。

「……死ぬよ。お前のその震える足じゃ、造船所に着く前に腰を抜かすのがオチだ。結社の犬どもは、お前のナイフ修行なんて待ってくれないよ」


「それでも行く! ……護衛の任務は、ここで終わりで構わない。あんたは一人で逃げろ。契約は、ここで破棄だ!」


ロレンツォは震える手で腰のナイフを引き抜くと、ニコの横をすり抜け、決死の覚悟で出口へと向かおうとした。足は恐怖で小刻みに震え、膝が笑っている。それでも、その背中には、もう迷いはなかった。


(……っの、クソガキが)

ニコは奥歯をギリリと噛み締めた。

愚かで、無謀で、吐き気がするほどの綺麗事だ。

しかし、自らの命を天秤にかけてでも大切な誰かの日常を守ろうとするその背中が、かつて全てを失い、愛する者たちを守るために一人で裏社会へ飛び込んだ自分自身の姿と、嫌でも重なってしまった。


「——待ちな」


ニコの低い声と同時に、ロレンツォの首根っこがグイッと乱暴に後ろへ引かれた。

「なっ……! 放せ、ニコ!」

「勘違いするなよ。私はジュリオから『情勢が落ち着くまでこいつを預かる』という依頼で前金をもらってるんだ。……ここで雇用主に死なれちゃあ、私のパン代が減るだろうが」


ニコは忌々しげに頭を掻き毟ると、背中の機関銃のスリングを強く締め直した。

「いいか、作戦はこうだ。私が正面から派手にぶっ放して、馬鹿な番犬どもの目を引く。お前はその隙に裏から回り込んで、ガキ共の縄を解け。できるかい」


「……ニコ」

ロレンツォは目を丸くした。

このドライで打算的な掃除屋が、何の利益もない救出劇に力を貸してくれる。その事実に、胃の腑の底から熱い塊が込み上げてくるのを感じた。


ニコは咥えタバコを揺らしながら、ニヤリと好戦的に、けれどどこか寂しげな笑みを浮かべた。

「足手まといになったら、その時は本当に置いていくからな。……背中を貸しな、見習い相棒」


ロレンツォはナイフの柄を、今度は震えを抑え込むように強く握り直し、力強く頷いた。

「……右の死角は、僕が塞ぐ!」


二人は同時に、夜のヴェネトの冷たい霧の中へと駆け出した。


西の廃造船所は、夜霧にむせぶ海風の中にそびえる巨大な墓標のようだった。

 腐りかけた木材と赤錆の匂いが、潮の香りにねっとりと絡みつく。崩れ落ちたアーチ状の屋根——かつての東方帝国の建築様式を思わせる瓦礫の隙間から、冷たい月光がドックの暗闇を斑らに照らし出していた。


「……派手に行くよ。耳を塞いでな」


ニコの言葉が終わるか終わらないかのうちに、夜の静寂は鼓膜を破るような轟音に切り裂かれた。

 アルドが遺した旧式機関銃が火を噴き、オレンジ色の閃光が廃造船所の闇を連続して照らし出す。

「襲撃だ! 外に誰かいるぞ!」

 結社の番犬たちの怒号が飛び交い、銃弾が錆びた鉄板を叩く甲高い音が乱反射する。ニコはわざと自身の立ち位置を晒すように、ど真ん中から強烈な弾幕を張り、敵のヘイトを一身に集めていく。むせ返るような硝煙の匂いが、一気にその場を支配した。


(今だ……っ!)

 その爆音を合図に、ロレンツォは反対側の崩れた壁の隙間から、ドックの暗がりへと滑り込んだ。

 心臓が喉から飛び出しそうなほど早鐘を打っている。だが、その足取りはかつての温室育ちの少年のものではなかった。

『裏路地歩く時は足音デカすぎだぜ。俺が気配の消し方を教えてやるよ』

 ルカに教わった、つま先から滑らせるようにして体重を移動させるストリートの歩き方。瓦礫の多い足場でも、泥に汚れた革ブーツは音一つ立てず、彼は闇と同化して進んでいく。


奥の資材置き場。そこに、後ろ手に縛られ、身を寄せ合って震えるルカたちの姿があった。

 そして、そのすぐ傍らには、ライフルを構え、表の銃撃戦に気を取られている見張りの男の広い背中。

 ロレンツォはナイフの柄を握る。マメが破れて血の滲む手が、極度の緊張で微かに滑った。


——気づかれた。

 背後の僅かな気配に男が振り返る。「あ……? てめえ、どっから……」

 男の銃口がロレンツォに向く。死の恐怖に足がすくみそうになる。


『重心が高すぎる。ナイフを振る時は、腕の力じゃなく体重を乗せな』

 脳裏に、ニコの冷ややかな声が響いた。

 ロレンツォは躊躇なく膝を折り、極端なまでに重心を低く沈めた。男の振るった銃身が、彼の頭上わずか数センチを空振りする。

 完全に生まれた死角。そこへ潜り込んだロレンツォは、下半身のバネと体重を刃先に真っ直ぐ乗せ、男の太もも——大動脈を避けた筋の部分へと、躊躇なく実戦用ナイフを深々と突き立てた。


「ぐぎゃあっ!?」

 激痛に男が悲鳴を上げて崩れ落ちる。ロレンツォはすかさず男の顎をブーツの踵で蹴り上げ、完全に意識を刈り取った。血の生々しい匂いが、潮風に混じってツンと鼻を突く。手が小刻みに震えたが、彼はすぐにそれを振り払った。


「……ルカ! マリア!」

 ロレンツォが駆け寄り、手早くロープを切り裂く。

「ロレンツォ……っ、お前、なんで……!」

 ルカの顔には殴られた痣があり、マリアはピエトロを抱きしめたまま声もなく泣きじゃくった。

「説明は後だ。走れるか」

「あ、ああ……っ」

 表ではまだ、ニコの機関銃が咆哮を上げている。ロレンツォは彼らを庇うようにして、暗闇のドックを駆け抜けた。



ヴェネトの外れ、夜明け前の冷たい霧が立ち込める隠し港。

 追手を完全に振り切り、小型艇のエンジンが静かなアイドリング音を立てている。空が白み始め、夜の闇と朝の光の境界線が、運河の水面を青灰色に染めていた。


「……本当に、行っちまうのかよ」


ルカが、擦りむいた腕をさすりながら俯きがちに言った。マリアは泣き腫らした目でロレンツォの袖を力なく掴み、ピエトロはその影に隠れてグズグズと鼻を鳴らしている。


ロレンツォは、この二ヶ月間で彼らと過ごした日々を思い出した。


慣れないスラムの相場で値切り交渉をして作った不格好なスープ。泥水に浸かって鉄屑を探した裏水路。チョークで文字を教え、共に固いパンをカンカンと叩き割って笑い合った、埃っぽい屋根裏部屋の温かな時間。


いつしか彼は、バルディ家の当主という重圧を忘れ、ただの14歳の少年『ロレンツォ』として、彼らと同じ泥水の中で生きていく未来を本気で夢見ていた。


だが、彼は自分の胸元に隠した『海図』の重みと、自分を追ってくる理不尽な悪の巨大さを、嫌というほど自覚していた。


「……ああ。僕と一緒にいれば、また君たちを危険に晒す。黒砂結社は、この海図を諦めない」


ロレンツォはマリアの手をそっと外し、懐から革袋を取り出した。昨日、ニコが渋々渡してくれた路銀の半分——彼らにとっては、数ヶ月はパンに困らない額の銀貨だ。 それをルカの手に押し付ける。


「受け取ってくれ。僕の、身勝手な謝罪だ」


「ふざけんな!」


ルカが顔を上げ、涙声で叫んだ。彼の手から、銀貨の入った袋がチャリンと虚しい音を立てて落ちる。


「金なんかで……っ、一緒に泥漁りして、孤児の仲間になったんじゃなかったのかよ! 俺たちは友達じゃなかったのかよ!」


その言葉が、鋭い刃となってロレンツォの胸を抉る。 喉の奥から、慟哭が込み上げそうになる。


『違う、僕だって君たちとずっと一緒にいたかった!』と叫びたかった。

法が守ってくれない泥まみれの世界でも、彼らとなら真っ当に生きていける気がしていた。 だが、父が遺した重い十字架と、理不尽な悪と戦う覚悟を決めてしまった以上、これ以上彼らを自分の歩む『血塗られた修羅道』に巻き込むわけにはいかない。


「……違う」


ロレンツォは、震えそうになる声を必死に押し殺し、わざと冷たく、大人のような声で言い放った。


「僕はバルディ家の当主だ。君たちのようなストリートの孤児とは、住む世界も、背負っているものも違う。……これは、ただの迷惑料だ。拾っておけ」


自分で口にしたその言葉が、自分自身の心をズタズタに引き裂いていく。 マリアが絶望したように息を呑み、ルカが悔しげに唇を噛んで俯くのを見て、ロレンツォは奥歯をギリッと噛み締めた。


口の中に鉄の味が広がる。 これ以上顔を見れば、決心が鈍ってしまう。 彼は踵を返し、振り返ることなく小型艇の甲板へと跳び移った。


「……達者でな」

 冷たい潮風が、ロレンツォの金髪を揺らす。彼らには見えない角度で、その透き通るような頬を、透明な雫が伝い落ちていた。声を出さぬよう、拳を白くなるほど強く握りしめる。


操舵輪に寄りかかり、新しいタバコに火を点けたニコは、その背中を静かに見つめていた。

 肩を震わせ、子供のように泣きじゃくりたい衝動を必死に殺し、それでも自分の背負うべき重圧から逃げずに前を向いた背中。

(……キャンキャン吠えるだけのガキかと思ってたが)

 ニコは小さく息を吐き出し、紫煙を朝焼けの空へと溶かした。


「……行くよ。しっかり捕まってな」

「ああ……っ」


ロレンツォは一度だけ鼻をすすると、顔を上げ、真っ直ぐに前を向いた。

 もはやそこに、自分の影に怯えてすがりついていた「足手まといのガキ」はいない。

 ニコは彼を——不器用に泥を被り、別れの痛みを噛み殺してでも己の正義を貫こうとする一人の男として、初めてその横顔を認めていた。


エンジンが重厚な咆哮を上げ、小型艇は朝陽が反射する大海原へと、勢いよく白波を蹴立てていった。

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