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足手まといの没落貴族を拾ったら、数年後、相棒へと成長した彼から逃げられません  作者: *しおり*


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6.5


ヴェネトの裏水路は、太陽が真上にある時間帯でも薄暗く、常に淀んだ湿気とドブ川の腐臭が漂っていた。

 ニコによる容赦のない「実戦格闘術」のしごきは、毎日続いていた。


その数日間の間、ニコはロレンツォの特訓と並行して、ヴェネトの裏社会でいくつかの細々とした「掃除」の仕事をこなし、当座の路銀と逃走資金をどうにか稼ぎ出していた。


『ほらよ。お前が勝手に死なないための保険だ。いざという時の逃走費だから、無駄遣いするんじゃないよ』


そう言って、前日の夜、ニコは渋々ながら稼いだ銀貨の入った袋の半分をロレンツォに預けていた。泥水の中に何度も叩きつけられ、全身は打撲と擦り傷だらけだ。ロレンツォは重い足取りで石畳を歩きながら、きつく縛られた革袋に水を汲み、スラムの市場へと買い出しに向かっていた。


目立つ「よそ者の掃除屋」であるニコが表をうろつけば、すぐに軍や結社の犬どもに嗅ぎつけられる。

そのため、ニコは安宿に残って周囲の警戒と装備の調整にあたり、代わりにロレンツォが、水汲みと食料調達という裏方の役割を担うようになっていた。


『足手まといの荷物』から、少しでも彼女の負担を減らす相棒見習いへ。その自覚が、筋肉痛に悲鳴を上げる彼の足を前へと進ませていた。


 泥だらけのシャツと、背中に背負った「布で巻かれた装飾剣」が、彼の今の全財産。


ロレンツォは痛む身体を引きずりながら、買い出しの合間を縫って「隻眼のマルコ」の情報を探し回った。しかし、警戒心の強い裏社会のネズミたちは、見慣れない金髪の少年にやすやすと口を割ってはくれず、焦燥感ばかりが募っていく。


(このままでは、追手がこの街に嗅ぎつけてくるのが先か、僕らがマルコを見つけるのが先か……)


 ……そんな焦燥感と、毎日の特訓による極度の疲労がピークに達した、ある夜のことだった。


「……っ、父上! 母上……やめろぉっ!!」


 深夜の安宿。ロレンツォは、両親が結社に惨殺される凄惨な悪夢から弾かれたように跳び起きた。  全身は冷や汗でぐっしょりと濡れ、過呼吸を起こしたように肺がひゅうひゅうと鳴る。暗闇のすべてが結社の刺客に見え、ガタガタと震えが止まらない。


「……うるさいねぇ」


 ドアの前に座っていたニコが、面倒くさそうに立ち上がった。

 彼女は怯えるロレンツォのベッドに歩み寄ると、優しい言葉をかけるでもなく、頭を撫でるでもなく——ただ無言で、ロレンツォと『背中合わせ』になるようにベッドの端へドカッと座り込んだ。


「え……ニコ……?」


「大丈夫だ、なんて無責任な嘘はついてやらないよ。死んだ人間は二度と戻らないし、この社会の闇は一生お前を追いかけてくる」


 ニコの冷ややかな声。だが、背中越しに伝わってくる彼女の体温は、ひどく温かかった。


「でも、今お前の背中を預かってるのは私だ。……震えが止まるまで、息の音を合わせな」


 トクン、トクン、と。  背中越しに、彼女の規則的で力強い心音が伝わってくる。  ロレンツォはその無骨で温かい背中の感触にポロポロと涙をこぼし、ゆっくりと彼女の心音に自分の呼吸を合わせていった。


言葉によるどんな慰めよりも、不器用な彼女の体温こそが、今のロレンツォを救う唯一の光だった。


 *


 翌日の昼下がり。


 昨夜の彼女の温もりのおかげか、少しだけ心が軽くなったロレンツォは、買い出しの合間を縫ってスラムの人混みを歩いていた。


「おっと、ごめんよ!」

不意に、小柄な人影がロレンツォの肩にぶつかり、軽い身のこなしで人混みへと消えようとした。


 だが、ニコのしごきで研ぎ澄まされつつあったロレンツォの反射神経が、相手の不自然な手の動きを捉えていた。彼は咄嗟に身を翻し、逃げようとした少年の手首をガシッと掴む。


「痛っ……! なにすんだよ!」


 振り返ったのは、擦り切れた服を着た十三歳くらいの少年だった。その手の中には、すれ違ったばかりの恰幅の良い男の財布が握られている。


「……他人の懐に手を入れるなど、恥を知れ。法に触れるような真似をするな」


 ロレンツォが顔を顰めて咎めると、少年——ルカは、悪びれる様子もなく鼻で笑った。


「はっ、法? そんなお上品なもんが、俺たちに今日のパンをくれるってのかよ!」

「ルカ! またそんなことして!」


 そこへ、使い古した籠を抱えた十二歳ほどの少女と、その裾を握る幼い男の子が駆け寄ってきた。しっかり者のマリアと、その弟のピエトロだ。マリアはルカから財布をひったくると、持ち主に気づかれないよう足元にそっと落とし、「ほら、行くわよ!」とルカの耳を引っ張った。


「なんだ、その背中の棒! すっごく重そう!」


 無邪気で人懐っこいピエトロが、ロレンツォが背負っている装飾剣に興味津々でしがみついてくる。


「こ、こら! 気安く触るな、不衛生だろう!」


 泥だらけの自分を棚に上げ、ロレンツォは思わず貴族の価値観で顔をしかめた。だが、ピエトロはケラケラと笑い、ルカとマリアに手を引かれて路地の奥へと消えていった。

 彼らが去った後には、少し饐えたような街の匂いと、ロレンツォの胸に落ちた得体の知れないモヤモヤだけが残された。


数日後の夕暮れ時。

 買い出しの帰りにバザールの裏手を通りかかったロレンツォは、怒声と子供の泣き声に足を止めた。


「ふざけんな! お前らが集めてきた花なんざ、半分は枯れて使い物にならねえんだよ! 前借りした分の借金にも満たねえ。身体で払ってもらうぞ!」


 悪徳商人が、マリアの髪を掴んで怒鳴りつけ、ピエトロが「お姉ちゃんをいじめないで!」と泣きながら商人の足にしがみついていた。商人が苛立たしげにピエトロを蹴り飛ばそうと足を振り上げる。


ロレンツォの身体が強張った。


(……目立つ真似はするなと、ニコに言われている。それに今の僕には、あの大人を力でねじ伏せる腕力はない)


 足が竦む。だが、バルディ家で培われた理不尽を許さない正義感が、彼の胸の奥で激しく警鐘を鳴らした。弱者が蹂躙されるのを黙って見過ごすのは、貴族の誇りに反する。


「——待て。その手を離せ」


ロレンツォは人混みを掻き分け、マリアと商人の間に割って入った。


「あぁ? なんだてめえは。泥まみれの乞食が偉そうに」

「彼女が持ち込んだ花束の数と、お前が主張する借金の額が合わない。帳簿を見せろ」


 ロレンツォは商人の手から強引に帳簿を奪い取ると、薄暗い夕日の中でその数字をざっと流し読みした。


「……ふざけているのか。ヴェネトの商法第三条における『未成年者との不当な利息契約の禁止』を完全に無視している上に、花の買い取り価格を市場の最低相場のさらに三分の一で計算している。おまけに、架空の手数料を上乗せした二重帳簿だ。この数字の矛盾は、少し計算を学んだ者なら一目でわかるぞ」


「な、なんだと……っ、このガキ……!」


「そもそも、この街の警備隊にこの帳簿を提出すれば、投獄されるのはお前の方だ。それとも、ここで僕が帳簿の違法性を一つ一つ読み上げてやろうか? 周りの皆にもよく聞こえるようにな!」


ロレンツォのよく通る声と、隙のない法学知識を用いた完璧な論破に、足を止めていた群衆がざわめき始めた。「あこぎな商売をしてるって噂は本当だったんだな」「衛兵を呼ぼうぜ」と、周囲の空気が一気に商人への非難へと傾く。

 形勢不利を悟った商人は、「ち、ちぃっ、覚えてろよ!」と顔を赤黒くして逃げ去っていった。


「……大丈夫か?」


 ロレンツォが手を差し伸べると、マリアは震える手でそれを握り返し、ピエトロは「お兄ちゃん、すっげえ!」と目を輝かせて飛びついてきた。



ーその夜、ロレンツォは彼らのアジトである廃教会の屋根裏に招かれていた。

 ステンドグラスの隙間から月の光が差し込む埃っぽい空間には、雨風を凌ぐためのボロ布が敷き詰められている。


「ほら、食いなよ。さっきの礼だ」

 ルカが少し照れくさそうに、煤けた紙に包まれた固いパンを差し出した。

「……ありがとう」

 ロレンツォはそれを受け取り、小さくかじった。味付けもなくパサパサとしたパンだったが、不思議と以前のように「豚の餌だ」と吐き捨てる気にはならなかった。


それどころか、ロレンツォは腰からナイフを抜くと、柄の硬い部分でそのパンを器用にカンカンと叩き割り始めた。 「お、おい! 何すんだよ!」と驚くルカたちを制し、細かく砕いたパンを水に浸す。


「こうすれば、硬いパンでも歯茎から血を流さずに、早く食べられる。僕の……『師匠』に教わったんだ」


少しだけ得意げにそう言うと、ルカとマリアは目を丸くし、すぐに真似をして「ほんとだ、食べやすい!」と笑い声を上げた。 ニコから受け継いだ「生きるための知恵」が、こうして別の誰かを助ける力になっている。


屋根裏の薄暗いランプの下で、彼らは身を寄せ合い、笑い合いながらパンを分け合っている。

 ロレンツォは、彼らが決して悪人などではなく、今日を生きるために必死に泥水を啜っているだけなのだと悟った。法が守ってくれる美しい世界は、父が作ってくれた温室の中にしかなかったのだ。正義や法律だけでは、彼らの明日のパンは買えない。


「なあ、お前、すっげえ頭いいけど、裏路地歩く時は足音デカすぎだぜ。俺が気配の消し方を教えてやるよ」

 ルカがニシシと笑って肩を組んでくる。

「え……あ、ああ。頼む」

 ピエトロが背中に飛び乗ってきて、ロレンツォの髪をくしゃくしゃに掻き回す。

「や、やめろ、ピエトロ! くすぐったいだろう!」


ロレンツォは文句を言いながらも、彼らを振り払おうとはしなかった。


 冷たく厳しいニコとの生活の中で張り詰めていた心が、少しずつ解れていく。かつて屋敷にいた頃に身に纏っていた貴族の傲慢さはすっかり影を潜め、埃っぽい廃教会の屋根裏には、年相応の柔らかい笑顔を見せる14歳の少年の姿があった。



廃教会からスラムの安宿へ帰還した夜。 薄暗い部屋では、ニコがいつものようにドアの前に座り込み、ナイフの柄に手をかけたまま浅い眠りについていた。


ロレンツォは音を立てないよう静かに部屋の隅へ行き、ニコが買っておいた安い酒を布に染み込ませた。 昼間、悪徳商人からマリアを庇って突き飛ばされた際にできた、腕の小さな擦り傷。そこにアルコールを含んだ布を直接押し当てる。


「っ……」 焼け付くような痛みに一瞬顔を歪めたが、かつてのように「痛い」と泣き喚くことはない。


彼は顔色一つ変えずに太い針で自らを縫い合わせていたニコの姿を思い出しながら、黙々と手当てを終えた。

痛む身体を軋ませてベッドに横たわると、部屋に充満する匂いがふわりと鼻をくすぐる。 火薬と機械油、そしてニコのタバコの匂い。 鉄屑の街では顔をしかめていたその悪臭が、今は不思議なほど心地よかった。この匂いがする場所こそが、理不尽な世界で唯一自分が生きて帰れる安息地なのだと、本能が理解していたからだ。


ロレンツォはふと身を起こし、ベッドに備え付けられていた薄い毛布を手に取った。 足音を忍ばせてドアの前に近づき、眠るニコの華奢な肩へ、そっと毛布をかける。


その瞬間、ニコの鼻が微かに鳴り、ナイフを握る手にピクリと力が入ったが、彼女が目を開けることはなかった。


(……おやすみ、ニコ)


それは、守られるだけの子供だったロレンツォの胸に芽生えた、初めての穏やかな感情だった。



彼らと知り合ってから、早くも二ヶ月の月日が流れていた。


ロレンツォの日常は、かつての温室育ちの貴族生活からは想像もつかないほど泥臭く、そして目まぐるしく過ぎていった。


午前中は、人目のつかない裏庭でニコから容赦のないナイフのしごきを受ける。最初は泥水に叩きつけられるたびに咳き込み、痛みに顔を歪めていたロレンツォだったが、一ヶ月が過ぎる頃には、受け身の取り方にも無駄がなくなり、すぐさま重心を低くして反撃の刃を突き出せるようになっていた。かつて一度も労働を知らなかった白く柔らかい手は、今や分厚い剣ダコと無数の擦り傷に覆われている。体つきは以前よりも引き締まり、その顔つきには精悍な翳りが宿るようになっていた。だが、彼はその醜く汚れた自分の手を、もう二度と恥じることはなかった。


二ヶ月も経てば、生活の仕方も劇的に変わる。  当初はニコから与えられた水と硬い黒パンを涙目で喉に流し込んでいたロレンツォだったが、今では自ら市場へ買い出しに赴き、スラムの相場を完全に把握していた。


「……小父さん、このクズ野菜と魚の粗、昨日から売れ残ってるだろう。銅貨三枚じゃ高すぎる。二枚なら全部買い取ってやるよ」


 泥だらけのシャツの上に目立たないボロ布を羽織ったロレンツォは、顔を隠しながらも堂々とした態度で露店の主人と値切り交渉を行っていた。かつて、金貨の価値すら知らずにバザールで豪遊しようとした、世間知らずのお坊ちゃんの姿はもうない。

 宿に戻ると、彼は安宿の共同コンロを借りて、買い集めた粗末な食材を一つの鍋に放り込み、香草で臭みを消した雑炊のようなスープを作った。


 仕事から帰還したニコは、テーブルに置かれた湯気の立つ器を見て、無言で片眉を上げた。


「……お坊ちゃんが、ずいぶんと家庭的になったもんだ」 「毒は入ってない。パンを水でふやかすより、温かい方が腹持ちがいいからな」


 ニコは無表情のままスプーンを手に取り、一口食べた。そして何も言わず、ただ黙々と、器が空になるまでそれを胃に流し込んだ。  「美味い」とは一言も言わなかったが、その底なしに無愛想な食べっぷりが、ロレンツォには何よりの合格発表のように思えて、彼はほんの少しだけ口角を上げたのだった。



午後は、ニコが裏仕事で路銀を稼ぎに出ている間、ロレンツォは買い出しをこなしながら、ニコの目を盗んでルカたち孤児と合流するのが日課となっていた。

ルカは、ニコとは違う、路上で生き抜くための実践的な術をロレンツォに叩き込んでくれた。


「いいか、お前みたいに背筋をピンと伸ばして足音を鳴らして歩いてたら、『俺は金を持ってるよそ者です』って宣伝して歩いてるのと同じだぜ。裏路地じゃ、もっと肩の力を抜いて、影に溶け込むように歩くんだ」


ルカの見よう見まねで、ロレンツォは足音を殺す歩き方や、スリの視線を逸らす雑踏の歩き方を学んでいった。最初は「姿勢を崩すなど貴族の恥だ」と抵抗があったものの、ルカに何度も後ろから木切れで頭を叩かれるうちに、気配を消して背後を取るストリートの技術が、彼の身体に自然と染みついていった。


一方、ロレンツォもまた、彼らに生きるための武器を与えていた。

夕暮れ時、廃教会の埃っぽい屋根裏部屋。ステンドグラスから差し込む赤い光の下で、ロレンツォは拾い集めたチョークの欠片を使い、床の石板に数字や文字を書いていた。


「……いいか、マリア。市場で花を売る時、まとめて買うから安くしろと言われたら、まずはこの『掛け算』を使うんだ。相手の言い値が相場より二割以上低ければ、絶対に売ってはいけない」


「か、かけざん……うぅ、ロレンツォ先生、数字がいっぱいで頭が痛くなりそう」


「諦めるな。文字と計算は、悪党の嘘から自分を守るための最強の盾になるんだ」


頭を抱えるマリアやルカに、ロレンツォは根気よく文字の読み方と計算を教え続けた。かつてバルディの屋敷で、彼が退屈だと投げ出そうとしていた貴族の教養。それが今、この泥にまみれたスラムで、理不尽な大人たちから大切な友人たちを守るための立派な武器として役立っている。その事実が、ロレンツォの胸に静かな誇りをもたらしていた。


「お兄ちゃん! 俺も書けたよ! ほら!」

「こら、ピエトロ! 僕のシャツで手を拭くな、泥がつく……っ、ああもう、わかった、よく出来たな」


無邪気に飛びついてくるピエトロの頭を撫でながら、ロレンツォは自然と柔らかい笑みをこぼしていた。


いつしか彼は、ドブ川の腐臭にも、カビ臭いパンの味にもすっかり慣れきっていた。硬い黒パンを分け合い、大人の目を盗んで裏水路を駆け回る日々。それは法が守ってくれない泥水の中での過酷な生活だったが、温室育ちの彼にとっては、初めて知る「対等な友との温かい日常」でもあった。


安宿での夜。この二ヶ月間で、二人の間には一つの奇妙な『ルーティン』が生まれていた。


裏仕事で路銀を稼いで帰ってくるニコは、いつも決まって新しい擦り傷や打撲を作って戻ってくる。当初は自分で酒をぶっかけて太い針で縫っていた彼女だが、今では部屋に戻りジャケットを脱ぐと、無言のままロレンツォの前にドカッと座り込むようになっていた。


ロレンツォも何も聞かず、買い出しで手に入れてきた清潔な布と消毒用の酒、そして軟膏を手に取り、彼女の背中や腕の傷を無言で手当てしていく。


「……今日の連中は、刃物の扱いが荒かったな」

「路地裏のチンピラさ。動きに無駄が多すぎて、逆に避けづらかった」


交わされるのは、そんな素っ気ない言葉だけだ。

 だが、ニコが他人に自分の背中を無防備に晒し、治療を任せているという事実こそが、この二ヶ月で彼女がロレンツォにどれほど警戒を解き、背中を預けるようになったかの証明だった。


傷口にアルコールを染み込ませた布を当てた瞬間、ニコの華奢な肩が微かに跳ねる。ロレンツォはそれに合わせるように、手当ての力をそっと緩めた。

 彼女の身体から漂う火薬と機械油の匂いが、ロレンツォにとっては、この過酷な世界で唯一安らげる日常の香りとして、完全に胸の奥へ根を下ろしていた。


手当てを終え、ニコがランプの火を落として浅い寝息を立て始めた後。

 安宿の硬いベッドで眠りにつく前、ロレンツォは決まって、今日ルカたちと笑い合った時間を思い出し、胸の奥が温かくなるのを感じていた。


ニコから漂う硝煙の匂いと、ルカたちと分け合った黒パンの味。それは、過酷な逃避行の中で見つけた、陽だまりのような日常だった。

 自分たちを追う結社の影さえなければ、このままこの街で、彼女の背中を守りながら、ルカたちと肩を寄せ合って生きていくのも悪くない。そんな叶わぬ夢を思い描いてしまうほど、この二ヶ月間で結んだ絆は、ロレンツォにとってかけがえのないものになっていた。


だが、本来の目的である父の昔馴染み『隻眼のマルコ』の手がかりは、二ヶ月間スラムを歩き回っても全く掴めていなかった。

ロレンツォはこれまで、「裏社会の危険な大物に関わらせれば、彼らを危険に巻き込んでしまう」という恐れから、あえて情報通のルカたちにはマルコのことを尋ねずにいたのだ。


しかし、そんな綺麗事を言っている猶予はとうに無くなっていた。

ロレンツォがストリートの泥水に深く根を下ろし、彼らを『絶対に守りたい日常』として愛し始めてしまったその矢先。昨夜、裏仕事を終えて血の匂いを纏って帰還したニコが、冷たい声で低く告げたのだ。


「……潮時だ。結社の『犬』どもがこのヴェネトに嗅ぎつけ始めた」


黒砂結社の黒い影は、音もなく水上都市ヴェネトの裏路地へと忍び寄っていた。タイムリミットは、もう目の前まで迫っていたのだった。



水上都市ヴェネトの朝靄が、まだ路地裏を白く覆っている頃。


ドアの前で浅い眠りについていたニコがゆっくりと目を開けると、そこにはすでに完璧に身支度を終え、ベッドの横で静かに待つロレンツォの姿があった。 革袋にはたっぷりと水が満たされ、荷物はいつでも持ち出せるようコンパクトにまとめられている。


ルカに教わった気配の消し方をさっそく実践し、彼女を起こさないよう無音で朝の準備を終えていたのだ。


「……行くぞ」


ニコが短く声をかけると、ロレンツォは一切の文句を言わず、ただ無言で深く頷いた。

イゾラの船の上で「僕を置いていく気か!」とキャンキャン吠えていた温室育ちの少年の姿は、もはやどこにもない。 彼は自らの役割を理解し、阿吽の呼吸で動ける弟子兼『相棒見習い』へと、確実な成長を遂げていた。


二人は連れ立って安宿を出ると、協力者であるマルコの手がかりを求めて、再び孤児たちのアジトへと向かった。

廃教会の屋根裏に差し込む朝陽が、ステンドグラス越しに色とりどりの光の粒を落としていた。


 「おっ、ロレンツォ! 今日は来るのが遅かったじゃねえか」


屋根裏に顔を出すなり、ルカが親しげに片手を上げた。弟のピエトロが「お兄ちゃん!」と無邪気に飛びついてきて、ロレンツォの足にしがみつく。


マリアも微笑みながら、ロレンツォのシャツについた朝露の汚れを、まるで家族のように当然の手つきで払ってくれた。


この二ヶ月間、彼らと一緒に硬い黒パンを分け合い、大人の目を盗んで裏水路を駆け回って築き上げた絆は、かつて屋敷で過ごしたどの時間よりも濃密で温かいものになっていた。


(……この穏やかな日常に、彼らを巻き込みたくなかった。裏社会の危険な大物の名を出せば、彼らまで結社の標的になるかもしれない。だから、ずっと一人で探していたのに)


ロレンツォは胸をよぎる強い罪悪感を、奥歯を噛み締めて必死にねじ伏せた。結社の追手がこの街に迫っている今、もう自分たちだけで探し回る猶予はないのだ。 ロレンツォはニコ流の作法で細かく砕いた固いパンをかじりながら、隣に座るルカへ、意を決して声をかけた。


「……なあ、ルカ。このヴェネトの街で、『隻眼のマルコ』という男を知らないか。父上が遺した海図の暗号を解くための、協力者のはずなんだが」


その悲壮なまでの問いかけに対し、ルカは目を丸くしたが、すぐにニシシと悪戯っぽく笑った。


「隻眼のマルコだって? なんだよ、お前。あんな裏社会の大物の名前、どこで覚えたんだ? 表の連中じゃ絶対に辿り着けねえ場所に隠れてる爺さんだぜ」


「……え?」


ロレンツォは、持っていたパンの欠片をポロリと落としそうになった。


「知っているのか……!?」


ロレンツォの目が見開き、声が素っ頓狂に裏返った。 無理もない。彼がこの二ヶ月間、ニコの目を盗んでスラムの底を這いずり回り、靴底をすり減らして血眼で探し続けても、欠片ほどの噂すら掴めなかった幻の男なのだ。 それが、毎朝一緒にパンをかじり、笑い合っていたこの少年の口から、こうもあっさりと出てくるとは。


「ストリートの孤児たちの情報網を舐めんなよ。俺たちにかかれば、この水上都市で探し出せねえ人間はいねえのさ」


得意げにドンと胸を叩くルカを見て、ロレンツォは特大の衝撃と脱力感とともに、天を仰いだ。灯台下暗しとはまさにこのことだった。


 ドンと胸を叩くルカの横で、マリアが両手で頬杖をつきながら、とろんとした熱っぽい瞳でロレンツォを見つめていた。

「ねえロレンツォ、用が終わったら、また私にお花の値付けの計算、教えてくれる? ……ふふっ、泥だらけでも、あなたの横顔って本当に彫刻みたいで綺麗ねぇ……」

「マ、マリア……っ、顔が近い! 息がかかるだろう!」

 うっとりと身を乗り出してくる少女に、ロレンツォは顔を真っ赤にして後ずさった。ピエトロが「お姉ちゃん、顔赤いよー!」と囃し立て、屋根裏部屋に無邪気な笑い声が響く。


その日の午後。

 ルカの案内図を頼りに、ロレンツォと合流したニコは、ヴェネトの華やかな大運河の下に広がる、暗く入り組んだ地下水路へと足を踏み入れた。

 太陽の光が完全に遮断された石造りの迷宮は、ひんやりとした湿気と、カビと澱んだ水の匂いが立ち込めている。壁に等間隔で掛けられたランプの炎だけが、頼りなく揺れていた。


迷路の最奥、分厚い鉄の扉の向こうに、その隠れ家はあった。

 部屋の中は古い紙と葉巻の匂いが充満しており、奥の年代物の革張りの椅子に、一人の初老の男が深く腰掛けていた。顔の左半分には古い刀傷が走り、片目は白濁している。元マフィア特有の、凄みと静けさを併せ持つ男——隻眼のマルコだ。


「……なるほど。ストリートのガキ共が騒がしいと思ったら、そういうことか」

 マルコは紫煙をゆっくりと吐き出し、唯一残った鋭い右目で、ニコの背後から姿を現したロレンツォを捉えた。

「バルディの旦那は死んだが、お前さんは生き延びたか。……それにしても、あの温室育ちで気位ばかり高かった坊ちゃんが、ずいぶんと泥臭い、いいツラになったもんだ」

 その言葉には、かつての友を偲ぶような、確かな懐かしさが滲んでいた。


「マルコ殿……父上の知己にお会いできて光栄だ」

 ロレンツォは一歩前へ出ると、真っ直ぐに老人を見据えた。

「父上が遺した海図の暗号を解く鍵を、あなたが持っていると聞いた。どうか教えてくれ。父上が隠した、黒砂結社を法の裁きにかけるための『正義の証拠』の場所を。僕がそれを手に入れ、奴らの悪逆非道を白日の下に晒してみせる!」

 熱を帯びたロレンツォの言葉に、マルコはふと動きを止めた。

 やがて、彼は哀しそうに、そして酷く自嘲的に、フッと鼻で笑った。


「……正義の証拠、だと? 法で裁く、だと?」

「な、何がおかしい……っ!」

「お坊ちゃん。お前さんは、自分の親父さんが、白い服を着て高い塔の上に座っているだけの、立派で無垢な貴族様だったとでも思っているのかい」


マルコの言葉に、ロレンツォは息を呑んだ。

 老人は葉巻を灰皿に押し付け、重々しい口調で残酷な真実を口にした。


「お前の親父は、そんな綺麗事だけで生きてたわけじゃねぇ。裏で軍の将校の横領の証拠を握り、俺たち裏社会の人間や新興商会の弱みを握って、あの真っ黒な裏帳簿で脅し、首輪をつけてたんだ。そうやって、誰も手を出せない最悪の劇薬を己の懐に抱え込み、自ら泥を被って、この街の理不尽なパワーバランスを無理やり保っていたのさ」


ドクン、と。

 ロレンツォの心臓が、痛いほどの音を立てた。

「父上が……裏社会と、恐喝の取引を……?」

 信じられない事実だった。清廉潔白で、常に法と正義を尊び、貴族の誇りを語っていたあの完璧な父が、犯罪者たちを脅迫し、裏社会の泥に首まで浸かっていたというのか。

 今まで自分が信じていた、美しく正しい世界と誇り高き父の像が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。視界がグラリと揺れ、ロレンツォは膝から崩れ落ちそうになった。


——だが。

 絶望に呑み込まれそうになった彼の脳裏に、不意に、ルカやマリアたちの笑顔が浮かんだ。

『法? そんなお上品なもんが、俺たちに今日のパンをくれるってのかよ!』

 借金を押し付けられ、理不尽に暴力を振るわれそうになっていたマリア。法では救えない、この世界の冷酷な底辺で、泥水を啜りながら必死に今日を生きている弱者たちの姿。


そして、今、自分のすぐ隣で、壁に背を預けて黙ってタバコを吹かしているニコの横顔。

 彼女もまた、誰かの日常を守るために、自ら裏社会の血と油にまみれ、不器用に泥を被り続けている大人だ。


(……そうか)

 ロレンツォの胸の奥で、すべての点と点が繋がり、一つの形を結んだ。


(父上は……ルカたちのような法では救えない弱者を、圧倒的な理不尽な悪から守るために……綺麗事を捨てて、たった一人で泥を被ってくれていたのか。僕に、あの温室のような美しい世界だけを見せるために)


父が一人で背負っていた十字架の重さと、底知れぬ真の愛情の深さに気づいた瞬間、ロレンツォの目から、せき止めていた大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。

 声もなく泣き咽びながら、彼はマメの潰れた手で、腰の実戦用ナイフの柄をギリッと強く握りしめた。

 かつて装飾剣にすがっていた頃の彼なら、父の行いを「貴族の恥だ」と軽蔑し、絶望していただろう。だが、泥臭い世界を知り、自らもナイフを握って戦う覚悟を決めた今の彼には、父の生き様がどれほど気高く、尊いものか、痛いほどに理解できた。


「……マルコ殿」

 ロレンツォは涙を粗い袖で拭い去り、顔を上げた。

 その瞳に、もう怯えや迷いはない。そこにあったのは、父の泥臭い遺志を受け継ぐ、本物の『当主』としての揺るぎない覚悟だった。


「僕が、父上の遺志を継ぐ。その裏帳簿……父上が遺した劇薬をこの手に入れ、今度こそ、黒砂結社を完全に潰す」


その力強い宣言を聞き、マルコは目を見開いた。そして、どこか安堵したように深く息を吐き出し、隠し金庫から古ぼけた革袋を取り出した。


「……これが、俺が預かっていた次の座標の暗号だ。お前さんなら、きっとやり遂げるだろうよ」


ニコは無言のまま、壁に押し当てていた背中を離した。短くなったタバコをブーツで踏み消す彼女の口角が、ほんのわずかに、誇らしげに上がっていた。


——だが、その安堵の空気は、部屋の奥に駆け込んできたマルコの部下によって無惨に引き裂かれた。 部下からの耳打ちを聞いたマルコの唯一の右目が、鋭く細められる。


「……最悪の報せだ、お坊ちゃん。黒砂結社の『掃除部隊』が、このヴェネトに入り込んだらしい。しかも連中は、お前さんの顔を見つけるより先に、お前さんと接触していたストリートのガキ共に目をつけて、血眼で探し回っているそうだ」


「な……っ!?」 ロレンツォの心臓が、氷を突き立てられたように跳ね上がった。


『ねえロレンツォ、用が終わったら、また私にお花の値付けの計算、教えてくれる?』


今朝、廃教会の屋根裏で笑っていたマリアの顔。 ドブ川の腐臭にまみれながら、一緒に鉄屑をすくって笑い合ったルカの泥だらけの手。 「お兄ちゃん」と無邪気に背中に飛びついてきたピエトロの温もり。


この二ヶ月間、冷たく過酷な逃避行の中で、ロレンツォがやっと見つけた『陽だまりのような日常』。


いつしか「このまま彼らと同じ泥水の中で、対等な友人として生きていくのも悪くない」と本気で夢見てしまっていた、かけがえのない居場所。 それが今、自分の不用意な行動と、自分が持ち込んだ『大人の世界の泥』のせいで、理不尽な暴力に蹂躙されようとしている。


「ニコ!!」


肺を切り裂くような悲鳴を上げ、「……チッ。行くよ、ガキ!」というニコの声に弾かれるように、ロレンツォは隠れ家を飛び出した。


(間に合ってくれ。頼む、間に合ってくれ……っ!)


胸の内で祈りながら、彼らはルカたちのアジトである廃教会へと急いだ。

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