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足手まといの没落貴族を拾ったら、数年後、相棒へと成長した彼から逃げられません  作者: *しおり*


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6/11

6

三日後。

 突き抜けるような青空を映し出す巨大な大運河を、無数の豪奢なゴンドラが行き交っていた。

 水上都市ヴェネト。入り組んだ水路と、白い大理石で造られた壮麗な橋や宮殿が立ち並ぶその街は、陽光を反射して眩しいほどに輝いている。


彼らが向かったのはイゾラに負けず劣らずの観光地であった。用心深いロレンツォの父、バルディ家の当主が目的地までの航路をいくつかの暗号に分けて隠した最初の経由地。 当主の昔馴染みである協力者を探さなければならない場所である。 遠くからは、着飾った観光客たちの陽気な笑い声や、弦楽器の華やかな旋律が潮風に乗って流れてきた。


だが、ニコが小型艇を滑り込ませたのは、そんな華やかな表通りから完全に切り離された、光の届かない裏水路だった。

 両脇に迫る古いレンガの壁には分厚く青苔が張り付き、腐った水とヘドロの悪臭が鼻を突く。上を見上げれば、無秩序に増築されたスラムの家々が空を覆い隠し、張り巡らされたロープには薄汚れた洗濯物がボロ布のように垂れ下がっていた。


どん、と鈍い音を立てて、艇が湿気た船着き場に接舷する。

「……吐きそうなら、水路じゃなくて船の中にしな。後で自分で掃除させるがね」

「だ、誰が吐くか……っ」

 鼻と口を袖で覆い、顔を青ざめさせているロレンツォに冷たく言い放ち、ニコは麻袋を担いで上陸した。


二人が潜り込んだのは、軋む階段と隙間風だらけの壁を持つ、スラム街の最奥にある安宿だった。

 狭い部屋の中には、カビ臭いベッドが一つと、傾いたテーブルが一つあるきり。窓からは、下のドブ川をネズミが這い回る音しか聞こえてこない。


「表をうろつけば、一瞬で軍の犬どもに嗅ぎつけられる。用が済むまで、ここを拠点にするよ」

 ニコは背負っていた重い麻袋と機関銃を無造作に床へ降ろすと、間髪入れずにロレンツォの胸ぐらを掴んだ。

「っ!?」

「ついてきな。鑑定士様には、まず『払い下げの鉄屑』にならないための教育が必要だからね」


引きずり出されたのは、宿の裏手にある、四方を崩れかけた壁に囲まれたじめジメとした裏庭だった。

 足元はぬかるみ、踏み込むたびにグチャリと嫌な音が鳴る。


「抜け」

 ニコは咥えタバコを壁に押し当てて火を消すと、短く命じた。

 ロレンツォは震える手で、腰から実戦用のナイフを引き抜く。その瞬間。

 ——ドンッ!

「がはっ……!」


刃が完全に抜けるより早く、ニコのブーツがロレンツォの腹に深々と突き刺さった。

 息を詰まらせ、ロレンツォの身体が泥水の中を無様に転がる。ナイフが手から滑り落ち、水たまりにチャポンと音を立てて沈んだ。


「遅い。そんなチンタラ抜いてたら、三回は喉笛を掻き切られてるよ」

 見下ろすニコの瞳に、容赦という文字はない。

「お坊ちゃんの剣術ごっこじゃねえんだ。美しく構える必要なんかどこにもない。殺される前に、相手の急所——喉、目玉、股間、どこでもいいから一番早く刃を突き立てろ。立て」


「げほっ、ごほっ……っ」

 泥にまみれ、肺の空気を奪われたロレンツォは、這いつくばったまま咳き込んだ。絹のシャツは見る影もなく汚れ、透き通るような頬には泥水がべったりと張り付いている。


「……痛いか」

 ニコの冷ややかな声が上から降ってくる。

「い……っ、痛く、ない……!」

 ロレンツォは泥だらけのナイフを泥水の中から掴み取り、ガタガタと震える足で立ち上がった。

 痛くないはずがない。肋骨が軋み、息をするだけで内臓が焼けるように痛い。だが、ここで膝をつけば、自分はまた「足手まといの荷物」に逆戻りだ。


「そうかい。なら、次は避けてみな」


ニコの姿がブレた。

 右から来る、とロレンツォがナイフを構えた瞬間、ニコはすでに彼の死角である低い姿勢へと潜り込み、ロレンツォの軸足を鋭く払っていた。

「あ……っ!」

 視界が反転し、再び背中から泥の中に叩きつけられる。今度は後頭部まで泥水に浸かった。


「重心が高すぎる。剣の癖が抜けてない。ナイフを振る時は、腕の力じゃなく体重を乗せな。刃先から手首、肩、腰までを一直線に繋げ」

 無感情な指導の言葉と共に、ニコはうつ伏せになったロレンツォの背中を容赦なく踏みつけた。

「ぐぅぅ……っ!」


何度倒されても、ロレンツォは歯を食いしばって立ち上がった。

 泥だらけになり、擦り傷を作り、呼吸はヒューヒューと鳴り続けている。美しい金髪は泥水で額に張り付き、目は充血して涙が滲んでいたが、彼は決してナイフを手放さなかった。

 ニコの放つ拳や蹴りの嵐に、彼は必死にナイフを合わせようともがく。


ニコは無言のまま、そんな少年の動きを的確に叩き潰し続けた。

 一見すればただの虐待だ。しかし、ニコの放つ攻撃は決して急所を捉えず、ロレンツォが「致命傷を避ける動き」を取った時には、必ず威力を殺していた。

 生き残るために必要なのは、勝つことではない。泥水をすすってでも、無様に這いつくばってでも「死なない」ことだ。


「……っ、ああぁぁっ!」

 十数回目の転倒から起き上がり、ロレンツォは雄叫びを上げてナイフを突き出した。

 ニコはそれを最小限の動きでいなし、ロレンツォの腕を掴んで捻り上げようとした——が、ロレンツォは強引に身体を沈め、泥濘に膝をつきながら、ニコの太もも目掛けて体当たり気味にナイフの柄を叩きつけた。


ドッ、という鈍い衝撃。

 ニコの足がわずかに止まり、彼女の表情が初めて微かに動いた。


「……」

 ニコは動きを止め、ロレンツォを見下ろした。

 少年は泥まみれのまま肩で激しく息をし、獣のような目でニコを睨み返している。握りしめたナイフの先は小刻みに震えていたが、その眼光だけは、決して折れてはいなかった。


ニコは短く息を吐き出し、ポケットからタバコを取り出して咥えた。

「……今日はここまでだ」

 カチッ、とライターの火を点け、紫煙を灰色の空へと吐き出す。


「……っ」

 ロレンツォはその言葉を聞いた瞬間、緊張の糸が切れ、その場にへたり込んだ。泥だらけの地面に仰向けに倒れ込み、荒い呼吸を繰り返す。


ニコは背中を向けたまま、ぽつりと落とした。

「……明日は、その倍やるからな。死ぬ気で休んどきな」

 それは、ただの突き放した言葉に聞こえる。だが、ロレンツォには、その乱暴な口調の裏に隠された「明日も生き残れ」という不器用な意志が、嫌というほど伝わっていた。


ロレンツォは泥だらけの顔を歪め、痛む手でナイフの柄を強く握りしめながら、誰にも見えないように、小さく笑った。



水上都市ヴェネトの裏路地にひっそりと佇む、カビと古い木材の匂いがする安宿。


「……痛い。容赦なさすぎるだろ、野蛮人……っ」


部屋に戻るなり、ロレンツォはベッドの縁に倒れ込み、泥だらけの身体を丸めて呻いた。 ニコに「生きる術を教えてくれ」と懇願し、ナイフを受け取ってから初めての本格的な格闘訓練。結果は惨憺たるものだった。

ニコは一切の手加減をせず、ロレンツォは路地裏の石畳に何度も叩きつけられ、全身が打撲と泥にまみれていた。


「実戦じゃ、敵はお坊ちゃんの都合に合わせて手加減なんかしてくれないよ。むしろ、その無駄に整ったツラを真っ先に狙ってくる」


ニコは呆れたようにそう言うと、首をポキポキと鳴らした。 「手持ちの路銀じゃ、こんな狭い一部屋しか取れなかった。文句があるなら野宿しな」

「……文句は言ってない。この屋根の下で眠れるだけで十分だ」


鉄屑の街での過酷な船内生活を経験した彼にとって、ここはまだ天国だった。 ニコは「ふん」と鼻を鳴らすと、先に備え付けの古ぼけたシャワールームへと消えていった。


数十分後。


「あー、さっぱりした」

「ひっ……!? き、貴様っ……!」


シャワーを終えて出てきたニコの姿に、ロレンツォは顔を真っ赤にして壁際まで飛び退いた。 ニコは濡れた短い髪をタオルで乱暴に拭きながら、薄いキャミソールと軍用パンツという、およそ貴族の淑女ではあり得ない無防備な格好で平然と歩き回っている。


華奢な腕や背中に刻まれた無数の傷跡が、ランプの光に生々しく浮かび上がっていた。


「な、なんて破廉恥な格好を……! 男と同室なのだぞ! 上着を着ろ!」


「うるさいねぇ。誰がこんなヒヨッ子を男として意識するかい。さっさと泥を洗い流してきな。ベッドが汚れる」

「僕を子供扱いするな! ……だいたい、ベッドはどうするつもりだ? 一つしかないじゃないか」


ロレンツォが目を逸らしながら抗議すると、ニコはベッドには目もくれず、ドアのすぐ横の冷たい木の床にドカッと腰を下ろした。 そして、傍らに置いた機関銃と、手元のナイフの手入れを淡々と始める。


「お坊ちゃんはベッドで寝な。私はここでいい」


「な……何を言っている! 僕が床で寝る! いくら貴様がガサツで野蛮人でも、一応は女だろうが!」


ロレンツォは必死に声を張った。守られるだけの自分を脱却すると決めたのだ。せめて寝床くらいは譲らなければ、貴族としての矜持が許さない。 だが、ニコはナイフの刃を拭う手を止めず、冷ややかな視線を彼に向けた。


「寝言は寝てから言いな。夜襲がかかった時、どんくさいお前がドアの前にいたら邪魔なだけだ。ここで寝るのは『護衛』の役目だよ」


その言葉に、ロレンツォは息を呑んだ。 鉄屑の街の船で、彼女が冷たい鉄の壁に背を預け、ナイフの柄に手をかけたまま浅い眠りについていた光景が脳裏に蘇る。彼女は自分を気遣っているのではなく、常に「死」を警戒してドアの前に陣取っているのだ。


「……わかった。シャワーを借りる」


己の無力さを痛感し、ロレンツォは大人しく引き下がった。



シャワーを浴びようと入った薄暗い部屋、備え付けの曇った水鏡の前で、ロレンツォは泥と自分の血でガチガチに固まってしまった美しい金髪を、必死に指で梳かそうとしていた。


 だが、過酷な逃避行で傷みきった髪は複雑に絡まり、引っ張るたびに頭皮が引き攣れて顔が歪む。


「……チッ。貸しな」


 見かねたニコが、舌打ちと共に歩み寄ってきた。彼女の手には、いつも容赦なく他人の喉笛を掻き切っているあの実戦用ナイフが握られている。


「なっ、何を……!」

「裏路地の喧嘩じゃ、長い髪は真っ先に掴まれる『致命的な弱点』だ。生きてえなら、そんな貴族の未練はさっさと切り捨てな」


 ニコはロレンツォの頭を乱暴に押さえつけると、血で固まった金髪の束を無造作に掴み、ナイフの刃を当てた。

 ジョリッ、と冷たい音が耳元で響き、かつての栄華の象徴が無惨に床へと落ちていく。ロレンツォはギュッと目を瞑ったが——ふと、刃の冷たさの裏にある、ある感触に気づいた。


 以前、ニコが鉄屑の街で自身の髪を切った時は、自傷行為のように乱暴で、頭皮から血が滲みそうなほどだった。だが今、彼女の刃の運びは、ロレンツォの耳や首筋を絶対に傷つけないよう、ひどく慎重で、どこか不器用な優しさに満ちていたのだ。


「……終わったよ」


 目を開けると、水鏡の中にはもう、フレスコ画の天使のような貴族の少年はいなかった。


ニコが無造作に切り落とした髪はギザギザで不揃いであり、どう見てもストリートの少年のそれだ。だが、不思議なことに——いや、元々の造形があまりにも整いすぎているせいか、その乱暴な髪型すらも彼の端正な顔立ちを崩すには至っていなかった。


むしろ、顔にかかっていた重い金髪が無くなったことで、長い睫毛や透き通るような肌、そして真っ直ぐな鼻筋がかえって際立ち、奇妙なほど似合ってしまっている。どんな無骨な真似をしても隠しきれない本物の美貌がそこにあった。


作り物めいた温室の美しさが剥がれ落ちた代わりに、今の彼の瞳には、泥水を啜って生き延びた者特有の確かな精悍さが宿り、以前にはなかった生々しく野性的な魅力すら放っている。


「……悪くない」


ロレンツォが短くなった前髪を触りながら小さく笑うと、ニコは予想以上に様になってしまった少年の姿に一瞬だけ目を丸くし、すぐに「フン、顔だけはいっちょ前だね」とそっぽを向き、照れ隠しのようにタバコに火を点けた。


細く頼りないシャワーで泥と痛みを少しだけ洗い流したロレンツォが部屋に戻ると、テーブルの上には石のように硬い黒パンと、濁った水の入ったコップが置かれていた。


 ニコはすでにドアの前に座り込み、無言で機関銃の汚れをウエスで拭き始めている。


 ロレンツォは文句を一つも言わず、静かに椅子に腰を下ろした。そして腰からナイフを抜くと、その重い柄で黒パンをガンガンと叩き割り始めた。細かく砕いた欠片を水に浸し、柔らかくしてから黙々と胃に流し込んでいく。


 鉄屑の街では涙を流しながら食べていた彼が、ニコの「生きるための作法」を完全に模倣し、適応していた。


 ニコはその音にチラリと視線を向けたが、何も口出しはしなかった。ただ内心で

(……適応しやがったな)と、ほんの少しだけ評価を改め、機関銃のボルトを引く。


食事を終えたロレンツォは、今日泥水の中に落とした自分の実戦用ナイフを取り出し、必死に泥を拭って砥石で研ぎ始めた。


 言葉は交わされない。ただ、狭い部屋の中に鼻を突く油の匂いと、二人がそれぞれの刃を研ぎ、銃を磨く鉄が擦れる音だけが静かに響き続ける。それは、二人が初めて『同じ戦場に立つ者』としてのルーティンを共有した、静かで濃密な夜だった。


やがて手入れを終えたニコはタバコを吹かしながら、テーブルの上に広げた海図の写しと翻訳メモを睨みつけた。


「……暗号の解読通りなら、この『水上都市ヴェネト』に、父上の昔馴染みである協力者がいるはずなんだ」


 ロレンツォはタオルで濡れた短い髪を拭きながら、テーブルの向かいの椅子に腰を下ろした。


「名前は『隻眼のマルコ』。父上はそう呼んでいた。……きっと彼を見つければ、黒砂結社を裁く『正義の証拠』が眠る保管庫への、次の航路がわかるはずだ」


「『隻眼のマルコ』ね」


 ニコは短くなったタバコを灰皿に押し付け、呆れたようにため息をついた。


「そんな物騒な二つ名を持ってるやつが、表の酒場や役所で『はい、ここにいますよ』なんて名乗ってるわけないだろ」


「じゃあ、どうやって探すんだ?」


「明日は、スラムや裏路地を歩き回って、底辺のネズミども……情報屋やストリートの者たちから話を聞き出すしかないね。まともな金じゃ口は割らないだろうが」


 ニコの漆黒の瞳が、ランプの光を反射して鋭く光った。


「いいか、鑑定士様。この街じゃお前の信じてる『綺麗事』は一切通用しない。余計な口出しをして、これ以上私のパン代を減らすんじゃないよ」


「……わかっている。僕はもう、キャンキャン吠えるだけのガキじゃない」


 ロレンツォは強く唇を噛み締め、今日ニコから叩き込まれたナイフの重みを思い出しながら、力強く頷いた。


 窓の外からは、ヴェネトの入り組んだ水路を流れる水の音と、酔っ払いどもの遠い笑い声が聞こえてくる。明日からの未知の街での探索に、ロレンツォは腹の底が粟立つような緊張と、わずかな高揚感を感じていた。



その日の深夜。


 硬いベッドで眠りについていたロレンツォは、ふと喉の渇きを覚えて目を覚ました。

 身じろぎをして部屋の隅に目を向けると、ドアの前に座り込んでいるニコの姿があった。彼女は眠っていなかった。


 膝を立て、その上で何かをそっと両手で包み込むように見つめている。窓から差し込む青白い月明かりに照らされたそれは、鉄屑の街の船上でも見た『黄色いレモン』だった。


 ニコの表情は、いつもの冷徹な掃除屋のものでも、自分を容赦なく泥水に叩き落とす鬼教官のものでもなかった。ひどく不器用で、寂しげで、それでいてひたむきな——年相応の女性の顔だった。


(あのレモン……。そういえば、イゾラの酒場も、あんな柑橘の匂いがしていたな)


ロレンツォは寝たふりをしながら、記憶を辿った。初めてニコと出会ったあの静かな酒場。整った顔立ちの主人が、手慣れた様子でグラスにレモンを絞っていた光景がフラッシュバックする。


『そろそろ落ち着いたらどうだ。……ジーナも、アルドも君がずっと命を危険に晒すようなところにいるんじゃ浮かばれない』


 あの時、主人の言葉を聞いたニコは、いつもは隠し持っているはずの痛みを一瞬だけ顔に覗かせていた。


(まさか。この野蛮で、血と油の匂いしかしない女が……あの酒場の主人を?)


点と点が繋がり、ロレンツォの胸の奥がドクンと大きく跳ねた。


 彼女は好きでバケモノになったわけではないのだろう。誰かを想い、誰かを守るために、あえて女としての自分を切り捨て、血と泥にまみれる道を選んでいるのだ。


 その事実に気づいた瞬間、ロレンツォは息を詰め、毛布の下で両手を固く握りしめた。彼女の背負っているものの重さと、誰にも見せない傷の深さが、胸を押し潰すように痛かった。


 彼はわずかな衣擦れの音さえ立てないよう慎重にゆっくりと目を閉じ、静かに毛布を被り直した。

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