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足手まといの没落貴族を拾ったら、数年後、相棒へと成長した彼から逃げられません  作者: *しおり*


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5/11

5

『鉄屑の街』を後にした小型艇は、三日三晩、外海の荒波を乗り越えて進んだ。


 イゾラの美しい陽光も、スラムの淀んだ空気も届かない、過酷な航海。ロレンツォはその間、甲板の隅で波飛沫に耐えながら、ニコから渡された実戦用の短いナイフを不格好に研ぎ続けていた。マメが潰れ、血が滲む手で冷たい鉄の柄を握りしめるたび、布でぐるぐる巻きに封印した見る影もない「バルディ家の装飾剣」が視界の端にちらつく。


 もはや、すがるべき家柄もプライドもない。あるのは、生き延びるためにこの野蛮な女から「術」を学ぶしかないという、絶対的な現実だけだった。


四日目の明け方。

 経験の浅い船なら一瞬で海の藻屑となる複雑な海流——通称『黒渦』を命がけで抜けた先。荒涼とした巨大な岩礁のただ中に、ぽっかりと不自然な大穴が開いていた。

 小型艇がその口へ滑り込むと、世界から一切の太陽の光が遮断された。


代わりに視界に飛び込んできたのは、岩肌に打ち付けられた無数のランタンのオレンジ色の灯りと、仄白く光る海棲の発光苔が照らし出す、巨大なドーム状の海中洞窟だ。

「……着いたよ。ここが『海賊の闇市場』だ」

 ニコがエンジンを切りながら、低く呟く。

 ロレンツォは息を呑んだ。鉄屑の街に充満していたような「ただの腐敗と悪臭」はない。だが代わりに、ここは強いラム酒と葉巻の煙、そして研ぎ澄まされた暴力的な気配が濃密に立ち込めていた。


洞窟の壁面に沿って、木材や太い鎖で組まれた巨大な三層構造の街並みが頭上高くそびえ立っている。

 下層の地底湖には無数の海賊船や密輸船が停泊し、岩をくり抜いた巨大な酒場からは、荒々しい笑い声と怒号が響く。すれ違う者たちの眼光には、スラムのゴロツキとは全く違う、本物の海賊特有の冷酷さが宿っていた。


ニコは甲板の荷物をまとめる手を止め、ふとロレンツォの顔を見つめた。

 三日間の航海で泥と煤に汚れ、髪もボサボサだが、長い睫毛に縁取られた瞳と透き通るような肌は隠しようがない。まるで宗教画の天使が抜け出したような、裏社会には不釣り合いすぎるとんでもない美少年だ。


ニコはチッ、と舌打ちをして、甲板の隅にあった油臭い厚手の外套——フード付きのボロ布——を掴むと、ロレンツォの頭からバサリと被せた。


「な、なんだ……っ」


「深く被って顔を隠しな。この街じゃあ、その無駄に整ったお坊ちゃんのツラは、どんな宝石よりも高値で取引される『極上の商品』にしか見えないからね。変な趣味の海賊や人身売買のブローカーに攫われて、地下室の鎖に繋がれたくなきゃ、絶対に顔を上げるな」


「ひっ……!」


 ロレンツォは顔面を蒼白にし、慌ててフードの縁を両手で力いっぱい引き下げた。


その様子を冷ややかに見下ろしながら、ニコは念を押すように顔を近づけ、周囲の喧騒に紛れるような低い声で釘を刺した。


「いいか。この街にいるのは、スラムでたむろしてるようなチンピラじゃない。新興商会や軍の裏仕事まで請け負う、本物の『殺し屋』や『情報屋』だ。イゾラ中で『海図』を血眼になって探してる連中の目も光ってる」


 ニコの漆黒の瞳が、凄みを増す。


「間違っても『由緒正しきバルディ家』なんてキャンキャン吠えるなよ。イゾラのバザールを思い出しな。ここでは、お前が名乗った瞬間に、口を塞がれるよりも早く首が飛ぶ」


かつての彼なら、「僕を愚弄する気か!」と顔を真っ赤にして反発していただろう。


 だが、今のロレンツォは違った。彼はボロ布でぐるぐる巻きにして封印した装飾剣を背負い、ニコから渡された実戦用の短いナイフの柄を、マメが潰れて痛む手でぎゅっと握りしめた。


「……わかっている。僕はただの『足手まといの荷物』だ。絶対に口は開かない」


 震える声だが、そこには彼なりの必死な覚悟があった。

 ニコは少しだけ驚いたように目を丸くしたが、すぐに「……ならいい」とだけ短く返し、麻袋を肩に担いだ。


「ついてきな。はぐれたら最後、二度と太陽は拝めないよ」

 薄暗い闇市場の喧騒の中へ、ニコの小さな背中が歩き出す。ロレンツォは顔を深く隠し、彼女の影を踏むようにして、未知の迷宮へと足を踏み入れた。



仄暗い地底湖の水面が、ランタンの灯りを鈍く反射して黒々と揺れている。


海賊の闇市場、その最下層に位置する岩穴をくり抜いた巨大な酒場は、鼻が曲がりそうなほどの強いラム酒の匂いと、幾重にも層をなす紫煙のむせ返るような熱気に満ちていた。

ニコは入口の影に身を潜めるようにして歩き、一番奥の、光が届かないテーブルの隅にロレンツォを押し込んだ。


「そのフード、絶対に取るんじゃないよ。息をするのも忘れな」


低い声で釘を刺し、ニコは踵を返してカウンターへと向かった。

取り残されたロレンツォは、汚れたボロ布の中で身を縮こまらせた。周囲からは、荒くれ者たちの怒号にも似た笑い声や、分厚いグラスがぶつかり合う音が絶え間なく響いてくる。


ニコがカウンターに肘をつき、油で黒ずんだ指先で銀貨を弾く。バーテンダーがそれを素早く布巾の下に隠し、代わりに琥珀色の液体が入ったグラスを滑らせた。


「イゾラの海が、ずいぶんと騒がしいらしいね」

ニコがグラスに口をつけることなく呟くと、バーテンダーはグラスを磨きながら顎をしゃくった。


「黒砂結社の犬どもだけじゃねえ。新興商会の私兵までが、血眼になって一人のガキを捜し回ってる。なんでも『海図』とやらを持っているらしいがね」

「……へえ」


ニコはポケットからタバコを出し、火を点けた。

ロレンツォの耳にも、近くのテーブルで飲んだくれる男たちの声が嫌でも飛び込んでくる。


「バルディの生き残りの坊ちゃんよ。見つけりゃ一生遊んで暮らせる額の懸賞金がかかってるらしいぜ」


周囲のテーブルから聞こえてくるその言葉に、取り残されたロレンツォはボロ布の中で身を縮こまらせた。

男たちの下劣な笑い声が耳膜を叩く。ロレンツォは、ボロ布の下で自分の肩がガタガタと制御不能なほど震え出すのを止められなかった。


改めて自分がどれほど巨大な組織に狙われているかを知り、背筋が凍る。


(殺される。見つかれば、確実に)


黒砂結社だけではない。この場にいる全員が、自分を金貨の山としか見ていない。息の詰まるような孤独感と死の気配が、容赦なくロレンツォの首を絞め上げる。


彼は、視界の先——カウンターでタバコを吹かす、小柄な背中を凝視した。


あの野蛮でガサツな女は、たった一人で、この狂った世界と自分の間に立っているのだ。その事実が、ロレンツォの胸の奥をギリリと締め付けた。


情報を探り終えたニコが席へ戻ってくると、「……行くよ」と短く告げた。



二人は酒場を出て、中層の武器市場へと向かった。 下層から中層へ上がる急な木の階段の途中、ロレンツォは思わず息を呑み、その場に釘付けになった。


視線の先には、錆びた鉄の檻に入れられ、値札をつけられた人間たちの姿があった。虚ろな目でうずくまる彼らを、肥え太ったブローカーが家畜のように品定めし、取引している。


温室育ちの彼は、そんなものがこの世に存在することすら知らなかった。

(なんだあれは……。同じ人間を檻に入れ、売り買いしているのか?)

頭が真っ白になるロレンツォの脳裏に、不意に、亡き父の温かく厳格な声が蘇った。


『エンツォ。上に立つ者は、弱き者を守り、理不尽な不正を決して許してはならない。それが我がバルディの誇りであり、果たすべき義務だ。そして、いつかお前が伴侶を得たなら、生涯ただ一人、その女だけを愛し守り抜け』


幼い頃に見た、母を誰よりも深く愛し慈しんでいた父の姿。バルディ家で叩き込まれたその教えを、ロレンツォは本気で信じていた。


「世界は正しく、理不尽な悪は法によって裁かれるべきだ」という、美しく高潔な価値観。自分の父もまた、その綺麗事を誰よりも重んじ、体現する立派な貴族であったと信じて疑わなかった。

だからこそ、目の前の光景が許せなかった。


(あんな下劣で非道な真似が、なぜ許されているんだ……! 法は、正義はどこにある!)

吐き気とともに、彼の中で培われた貴族としての正義感が、猛烈な義憤となって沸き上がる。助けなければ。あの非道な悪党を斬り捨てて、理不尽な檻を開けなければ。 彼は無意識のうちに「悪を裁く」ため、もはや背負っていないはずの家宝の装飾剣を探して腰へ手を伸ばした。


……しかし、指先が触れたのは、ニコから渡されたあの短く無骨な実戦用ナイフだけだった。


「……下を向いて歩きな。余計なものを見たら目が腐るよ」


前を歩いていたニコがチッ、と舌打ちをしつつも、自身の革ジャケットでロレンツォの視界をさりげなく遮るように立ち位置を変えた。


ロレンツォはハッと我に返り、ギリッと血が滲むほど唇を噛み締めた。 今の自分があそこに飛び出していっても、誰も救えない。ニコの言う通り、返り討ちに遭って自分もあの檻に入れられ、極上の商品にされるだけだ。


「悪を憎む高潔な心」や「綺麗事」だけでは、理不尽な悪は止められない。父に守られていた光の世界とは違うのだ。この底辺の世界で正義を貫くためには、圧倒的な『力』が必要なのだと、思い知らされる。

「行くよ」と先を急ぐニコの背中を、ロレンツォは深くフードを被り直して追った。


決して振り返ることはしなかった。


(……今はダメだ。でもいつか必ず、僕が……!)


彼は潰れたマメの手で、懐の短いナイフの柄を折れるほど強く握りしめた。



火薬と機械油の匂いが立ち込める中層は、最新式の銃器が並び、下層とはまた違う殺気に満ちていた。


すれ違う者の肩がぶつかり合うほどの人混みの中、すばしっこい浮浪児のスリがロレンツォの懐——海図や路銀の入った場所——へ器用に手を伸ばしてきた。

以前の彼なら「無礼者! 近寄るな!」と大声を出して周囲の注目を浴びていたはずだ。


しかし、今の彼はフードの下で息を潜め、マメの潰れた手で懐の実戦用ナイフを半ばまで引き抜き、ギラリと冷たい目で浮浪児を睨みつけた。 殺気を感じたスリが舌打ちをして逃げていくと、前を歩いていたニコが肩越しにそれを見て、「……上出来だ」と小さく鼻を鳴らした。


ニコは顔見知りの偏屈なガンスミスの店を見つけると、背負っていた重い機関銃をカウンターにドンと置いた。


「……で、『青い小鳥』の餌はまだ残ってるかい?」

「ああ。だが『雨雲』が近いせいで、餌代は跳ね上がってるぜ」


わざと数字や地名をごまかした『裏社会の符丁』を使った会話。教養の塊であるロレンツォは最初それが理解できず、言葉が通じないことに屈辱を感じた。


しかし、ニコたちの会話の法則性をじっと観察し、


(……なるほど。あの『青い小鳥』はこの旧式機関銃の弾薬のこと。そして『雨雲』は、外をうろついている軍や結社の追手のことを指しているのか)

と、頭の中で即座に翻訳・分析し始めた。


店主の老人は、片眼鏡の奥の目を細め、その無骨な鉄の塊を見て鼻で笑った。


「まだそんな骨董品を使ってるのかい。いい加減、うちの最新モデルに買い替えな。軽くて弾も安く手に入るぜ」


「……弾薬をくれって言ってんだよ」


ニコは店主の言葉を完全に無視し、短くなったタバコを灰皿に押し付けた。


「チッ。その旧式の口径に合う弾なんざ、もうどこも作っちゃいねえ。特別に取り寄せてやってるんだ、木箱一つで金貨三枚だ」


法外な値段だった。ロレンツォは息を呑んだ。

イゾラのバザールで、ニコが「明日のパン代」と言いながら必死に掻き集めていた金額を優に超えている。


「おい、そんな……」


ロレンツォが思わず口を開きかけた瞬間、ニコが鋭い視線で彼を射抜いた。ロレンツォは弾かれたように口を噤む。


ニコは一切の躊躇なく、腰のポーチからなけなしの金貨を取り出し、カウンターに叩きつけた。

チャリン、という冷たい音が店内に響く。


「これで全部だ。早く出しな」


店主が奥へ引っ込むと、ニコはカウンターに置かれた古い機関銃の銃身を、黒く汚れた指先でそっと撫でた。

ロレンツォは、フードの奥からその横顔をじっと見つめていた。


最新式の銃に買い替えれば、安く済む。重い鉄の塊を背負って歩く必要もない。理屈で考えれば明白なはずなのに、彼女は決してそれを手放そうとしない。


法外な代金を払ってでも、決して手放せない重い「錨」。


ロレンツォは、固く結ばれたニコの小さな唇を見つめながら、マメの潰れた手で短いナイフの柄を強く握り直した。


洞窟の天井近く、闇市場の上層エリアへと続く道は、幾重にも張り巡らされた太い鎖と、ギシギシと軋む細い吊り橋を渡らなければならなかった。


橋の上は行き交うならず者たちでごった返しており、フードを深く被って視界が狭いロレンツォは、あっという間に人波に飲まれそうになる。

ニコの背中を見失いかけ、パニックになりかけた瞬間——グイッ、と乱暴にフードの襟首を引っ張られた。


「はぐれるなと言っただろ。舌を噛むよ」


ニコは忌々しそうに吐き捨てながらも、彼が逸れないようにフードの布の端を固く握り、そのまま前を歩き出した。 その乱暴な引っ張りが、今の彼にとっては「この地獄のような迷宮で、唯一自分を光へと繋ぎ止める命綱」のように感じられた。ロレンツォは一切文句を言わず、彼女の引く力に必死にしがみついて歩いた。


下層や中層のむせ返るような熱気とは打って変わり、上層はひんやりとした空気が淀んでいる。

むき出しの岩肌にへばりつくように建ち並ぶのは、出処の知れない古代の美術品や、曰く付きの古文書を扱う古物商、そして情報ブローカーの巣窟だ。


漂ってくるのは、カビ臭い羊皮紙の匂いと、誤魔化すように焚かれた甘ったるい香の匂いだった。


ニコとロレンツォは、ひと際薄暗い、怪しげな古美術商の店先に立った。  カウンターの向こうでは、脂ぎった顔をした店主が、ロレンツォの持つ『海図』の写しと、古ぼけた羊皮紙の巻物を並べてニヤニヤと笑っていた。


「……なるほど。こいつは古代帝国の天文学を用いた、ひどく複雑な暗号だ」


 店主はもったいぶるように黄ばんだ歯を見せ、羊皮紙をトントンと指差した。


「あんたみたいな腕っぷしだけの掃除屋には、一生かかっても解けねえ代物だよ。だが、運がいい。この海図の暗号を解くには、俺が持ってるこの高価な古文書と羅針盤が必要不可欠だ。……金貨五十枚で譲ってやるよ」


ニコは眉間に深い皺を刻み、舌打ちを噛み殺した。

 裏社会での弾薬の相場や、人間の命の値段なら嫌というほど知っている。だが、複雑な数式や古代の言語となると、ストリートで生きてきた彼女には全くの門外漢だ。

羊皮紙に書かれた幾何学模様や羅列された文字が、本物なのかデタラメなのかすら判断がつかない。


(足元を見やがって……。だが、ここで情報を逃せば、追手に追いつかれる)


 ニコが忌々しげにポーチの金貨の重さを確かめようと、無意識に息を詰めた、その時だった。


「——待て。その計算式と翻訳はデタラメだ」


背後でずっと息を潜めていたフードの影が、たまらず一歩前に出た。

 ニコが驚いて振り返るより早く、ロレンツォはカウンターに身を乗り出し、薄汚れた指先で店主が広げていた古文書をピタリと指差した。


「それは古代帝国の天文学の記述じゃない。ただの古い徴税記録だ。第三王女の時代の、麦の収穫量をごまかすための裏帳簿に過ぎない」

「な、なんだと……っ、このガキ……!」

「それに、この海図の端に書かれた記号は暗号なんかじゃない。バルディ家に伝わる古い『海洋算術』の基礎方程式だ。海流の抵抗係数を割り出すための、初歩の初歩だぞ」


ランプの灯りに照らされたフードの奥で、ロレンツォの瞳が理知的な輝きを見せた。


 かつて、家庭教師に逃げ出しそうになるほど詰め込まれた退屈な学問。

自分が忌み嫌っていた「貴族の教養」が、この悪辣で野蛮な裏社会において、相手の嘘を真っ向から叩き斬る鋭利な「武器」として機能したのだ。

 ロレンツォは、カウンターに置かれた古文書と羅針盤を一瞥し、冷たく言い放った。


「……こんな下らないガラクタに、銅貨一枚の価値もない」


沈黙が落ちた。

 次いで、面子を丸潰れにされ、詐欺を完璧に見破られた店主の顔が、怒りで赤黒く染め上がった。


「こ、この……っ、口の減らないガキだ! おい、その生意気なツラからフードを引っぺがして、痛い目を見せてやれ!」


店主の怒号に呼応し、店の奥の暗がりから大柄な用心棒の男たちが二人がかりで飛び出してきた。丸太のような腕が、ロレンツォの細い首へと伸びる。


「ひっ……!」


 知恵の刃を振るった直後の反動で、ロレンツォの身体が恐怖にすくみ上がった。


だが、用心棒の汚い指先がフードに届くより、ニコの踏み込みの方が圧倒的に速かった。

 風を切る音すらなく、ニコはロレンツォの前に滑り込むと、男の伸ばした腕を下から弾き上げ、もう片方の手で、愛用のすり減ったナイフをその太い喉元へと深々と突き立てた。  刃先が薄皮一枚を裂き、一筋の赤い血が滲む。


「——うちの『鑑定士』の言う通りだ」


ニコの低く、絶対的な死を孕んだ声が、古物商の空気を氷点下まで凍らせた。


「これ以上、舐めた真似をするなら、その舌を根本から切り落とすよ」

「あ……っ、う……っ」


 ニコの漆黒の瞳に射すくめられ、ナイフを突きつけられた用心棒は泡を吹かんばかりに青ざめ、店主も恐怖でカウンターの奥へと腰を抜かした。


ニコは無言のまま、店主が隠し持っていた『本物の翻訳メモ』を素早く奪い取った。 「行くよ、ガキ。長居は無用だ」 ニコがロレンツォの背中を押し、店を出ようとしたその瞬間だった。


「おい……さっきあのガキ、『バルディ家』って言わなかったか?」


周囲の薄暗い天幕から、スッと温度が下がるような低い声が響いた。 ロレンツォの肩がビクリと跳ねる。先ほど店主の嘘を暴く際、彼はうっかり「バルディ家に伝わる海洋算術だ」と得意げに口走ってしまっていたのだ。

『海図』を持ったバルディの生き残りには、一生遊んで暮らせるほどの莫大な懸賞金がかかっている。

ロレンツォのその一言は、血に飢えた獣たちの群れに極上の生肉を放り込んだのと同じだった。


「やっちまえ! その女を殺して、ガキを捕らえろ! そいつが金貨の山、バルディ家の生き残りだ!!」


腰を抜かしていたはずの店主の怒号を合図に、周囲の古美術商や情報屋の天幕から、無数の殺気が一気に膨れ上がった。


「チッ……! どいつもこいつも強欲なハイエナどもめ!」


ニコはロレンツォの首根っこを掴むと、ギシギシと軋む吊り橋へと力任せに引きずり出した。 直後、二人が先ほどまで立っていた床板に、最新式のスマートライフルから放たれた銃弾が雨あられと降り注ぎ、木っ端微塵に粉砕する。スラムのゴロツキとは違う、的確で容赦のない本物のプロの制圧射撃だ。


「走れッ!」


ニコの怒声に弾かれ、ロレンツォは弾けたように駆け出した。

背後から迫る無数の銃弾を、ニコが愛用の旧式機関銃で応戦しながら弾き返す。重低音が洞窟に木霊し、火花と硝煙が視界を白く染め上げる。


「うわぁぁっ!」


ロレンツォはボロ布のフードを振り乱しながら、入り組んだ中層の武器市場、そして下層の酒場へと続く急な木の階段を転がるように駆け下りた。


(怖い、怖い、怖い……っ!)


だが、ただ悲鳴を上げてしゃがみ込んでいた以前までの彼とは違った。 前方に立ち塞がろうとした海賊崩れの男に向けて、ロレンツォは走りながら、マメの潰れた手でニコから渡された実戦用ナイフを滅茶苦茶に振り回した。


「ど、どけぇぇぇっ!!」


殺傷力こそないが、狂乱した少年の思いがけない反撃に、男が一瞬怯む。そのわずかな隙を突き、ニコのコンバットブーツが男の顔面を容赦なく蹴り飛ばして道を切り開いた。


「よくやった、ロレンツォ! そのまま船まで走れ!」


銃弾が掠め、ニコの革ジャケットがさらに裂ける。

彼女が血を流しながらも自分の背中を守ってくれているのを感じながら、ロレンツォは肺が破けそうなほど息を吸い込み、地底湖の船着き場へと滑り込んだ。


もやいをナイフで乱暴に切り裂き、小型艇に飛び乗る。 ニコが機関銃の残弾を追手たちの足元へバラ撒き、その隙に甲板へと跳び移った。


「伏せてな!!」


ニコがキーを回し、スロットルを全開にする。エンジンが悲鳴を上げ、小型艇はロケットのように水面を蹴り出した。


背後から迫る追手たちの凶弾が、艇の装甲をカンカンと激しく叩く。経験の浅い船なら一瞬で海の藻屑となる複雑な海流『黒渦』へと文字通り命がけで突っ込み、暗黒の海中洞窟から強引に外海へと脱出した。



どれほど走っただろうか。 追手の船影が完全に見えなくなり、再びアルラド海の眩しい太陽と突き抜けるような青空が広がった時、小型艇の甲板には、荒い息を吐く二人の姿があった。


「はぁっ……はぁっ……」


ニコは操舵輪に突っ伏すようにして息を整え、額の汗を血の滲む袖で拭った。 甲板に大の字に倒れ込んでいたロレンツォも、心臓が爆発しそうなほど高鳴っている。だが、その瞳に絶望はなかった。彼は上体を起こすと、懐から死に物狂いで守り抜いた海図と、奪い取った『本物の翻訳メモ』を取り出した。


「……ニコ。このメモと僕の海図を合わせれば、暗号の完全な解がわかる」


まだ息を切らしながらも、ロレンツォの声には確かな熱がこもっていた。


「ここは?」 ニコが振り返り、彼を見下ろす。


「……最終的な目的地は、『沈黙の海峡』の先にある孤島の地下洞窟だ。そこに、我がバルディ家が代々隠してきた『秘密の保管庫』がある」


ロレンツォは、血に濡れた海図とメモを握りしめながら、顔面を蒼白にして息を呑んだ。


「あの夜、父上は結社に屋敷を包囲された時、僕にこの海図を託して言ったんだ。『バルディの誇りはここにある。結社の悪辣な野望にだけは、絶対に渡してはならない』と……」


その言葉を思い出し、ロレンツォは強く唇を噛み締めた。


(そうだ……父上は、理不尽な悪を決して許さない立派な貴族だった。きっとそこに、黒砂結社を法で裁き、奴らの野望を打ち砕くための『決定的な証拠』か何かが眠っているんだ)


それが具体的に何なのかは、温室育ちだった彼にはまだ分からない。しかし、結社が屋敷を焼き払い、家族を惨殺してまで隠滅したかったその「正義の重さ」だけは、肌で理解できた。


「……でも、そこへ至る航路は、いくつもの暗号に分割されている。父上は用心深く、結社から隠し通すために何重にも鍵をかけていたんだ。……最初の経由地は、東の『水上都市ヴェネト』。そこに、父の昔馴染みである協力者がいるはずだ」


ただ逃げ回るだけだった日々に、初めて「悪を討ち、父の正義を証明する」という明確な目的が示された瞬間だった。


ニコは、泥と血にまみれながらも真っ直ぐに前を見据える少年の顔を無言で見つめた。


つい数日前まで、自分の背中に隠れてキャンキャンと虚勢を張るだけだった温室育ちのガキ。だが今の彼は、恐怖に震えながらも自分の足で立ち、己の背負うべき重圧と正面から向き合おうとしている。


その無謀で必死な姿が、理不尽な悪に抗おうとして散っていった幼馴染たちの姿と、どうしても重なってしまった。


「……チッ。厄介な仕事の上に、とんでもなく重いお荷物を抱え込んじまったもんだ」


ニコはわざとらしく大きなため息をつき、血のついた口元を乱暴に拭うと、フッ、と悪びれたように笑った。


「水上都市ヴェネトか。上等じゃないか。これ以上コソコソ逃げ回って、パン代を削られるのはご免だ。その『正義のお宝』への道案内とやらを先回りして見つけちまえれば、追手どもも手出しできなくなる」


ニコは新しいタバコを取り出し、火を点ける。 「追われる側から、狩る側に回ってやるよ。……案内しな、鑑定士様」


ロレンツォは、泥と血に汚れた手で海図を握りしめ、力強く頷いた。 紺碧の海を切り裂き、小型艇は次なる経由地——水上都市ヴェネトへと、白波を蹴立てて進んでいった。

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