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砂埃と錆の匂いに満ちた山岳の要塞都市を後にし、小型艇は再び大河を下って海へと出た。
ガルドの工房で完璧に整備されたアルドの機関銃と、ロレンツォの腰に提げられた新しい実戦用の短剣。二人はそれらを携え、『沈黙の海峡』を越えるための確かな情報を求めて、中立海域に停泊する巨大な船へと向かった。
夜の闇に浮かび上がるその姿は、海に浮かぶ不夜城だった。
退廃的な熱気に満ちた、豪華客船を改装した巨大カジノ船。
「……いいかい。沈黙の海峡は、古い海図や羅針盤だけじゃ抜けられない。日々変化する潮流と、海賊どもの最新の網』の位置を知る必要があるんだ。ここには、その網の目を一番よく知る最低の情報屋がいる」 エントランスを潜った瞬間、ロレンツォの鼻腔をむせ返るような香水と、甘い葉巻、そして極彩色のカクテルの匂いが強烈に打ち据えた。
天井からは巨大なクリスタルのシャンデリアが眩い光を降り注ぎ、磨き上げられた大理石の床には、着飾った紳士淑女たちの靴音がワルツのように響いている。ルーレットの回る乾いた音と、嬌声が幾重にも反響するその空間は、過酷な外海とは完全に切り離された、狂騒の箱庭だった。
そんな絢爛豪華な世界の中で、煤けた革ジャケットを羽織り、背中に無骨な機関銃を背負ったニコの姿は、どう見ても致命的に場違いだった。
すれ違う貴族や豪商たちが、汚物を見るような、あるいは得体の知れない獣を警戒するような視線を向けて道を空ける。だが、ニコはそんな周囲の反応など一切意に介さず、口にくわえた湿気たタバコを揺らしながら、我が物顔でカジノの赤い絨毯を踏みしめていく。
ロレンツォは目深に被ったローブの下で、ガルドから授かった短剣の柄にそっと指を添えていた。
『右の死角は、僕が守る』
その誓い通り、彼はニコの右斜め後ろにピタリとつき、すれ違う人間たちの手元や視線を鋭く警戒していた。眩い光に目が眩みそうになるのを必死に堪え、学んだ足運びで気配を殺す。
「……おや。こんな華やかな場所に迷い込んだ野良猫がいると思ったら」
不意に、弦楽器の生演奏に紛れるようにして、滑らかな声がロレンツォの鼓膜を撫でた。
振り返るより早く、仕立ての良い白のスーツを着崩した男が、ニコの隣に並び立っていた。鼻を突くのは、柑橘系の高級なオーデコロン。
男——ヴィンセントは、軽薄な笑みを浮かべたまま、息をするように自然な動作で、ニコの華奢な肩に馴れ馴れしく腕を回した。
「相変わらずボロボロで可愛いねぇ、ニコ。今日は誰の首を狩りに来たんだい?」
ロレンツォの全身が、バネのように強張った。
ローブの下で短剣を引き抜こうと筋肉が軋む。鉄屑の街や闇市場であれば、ニコは自分に気安く触れようとする人間の喉笛を、瞬きする間に掻き切っていたはずだ。
だが。
「……気安く触るな、遊び人。その安っぽいコロンの匂いが移る」
ニコは酷く面倒くさそうに悪態をつき、ライターでタバコに火を点けただけだった。ナイフを抜くどころか、肩に回された腕を本気で振り払おうともしない。
カチッ、と弾けた火花の向こうで、ニコはヴィンセントと視線を交わした。
「海峡の潮目を知りたい。結社の犬どもがどこに網を張ってるのか、あんたなら知ってるだろ」
「つれないなぁ。情報料は君との甘い夜、ってわけにはいかないのかい?」
「私の銃弾なら、いつでも脳天にブチ込んでやるよ」
軽口を叩き合いながらも、二人の間には、ロレンツォには絶対に読み取れない「符丁」が飛び交っていた。タバコを持つ指の動き、視線の流し方、言葉の端々に隠された暗号。
ロレンツォは短剣の柄を握る手を、ゆっくりと緩めた。
彼女は、この男から裏社会の情報を引き出すために、あえてその不快な距離感を許容しているのだ。決して表の人間には入り込めない、血と泥を啜り合ってきた同類としての、ズブズブに深い関係性。自分がどれほど背伸びをして死角を守ると息巻いたところで、彼らの間にある暗くて濃密な空気には、指一本触れることができない。
その事実が、ロレンツォの胸の奥をチクリと刺した。
「本当、ニコったら相変わらず色気がないわねぇ」
不意に、ヴィンセントの背後からクスクスという艶やかな笑い声が鼓膜を打った。
濃厚な薔薇と麝香の香りが、カジノの空気を塗り替える。現れたのは、胸元が腰のあたりまで大きく開いた真紅のドレスを見に纏う美女、カルメンだった。
彼女が優雅に扇を揺らすたび、シャンデリアの光が滑らかな素肌を滑り落ちる。その放つむせ返るような大人の色香と、この場を完全に支配するような圧倒的な余裕に、ロレンツォは思わず息を呑んだ。
「あんな過去に縛られた男のことなんかさっさと忘れて、たまにはヴィンセントとでも遊べばいいのに。いつまで死んだ人間の幽霊と添い寝するつもり?」
カルメンの言葉に、ニコのタバコを持つ指先が、ほんの僅かに、ピクリと止まった。
しかし、ニコはすぐにふうっと長く紫煙を天井に吹き出し、嘲笑するように口角を上げた。
「冗談きついね。こいつの安い香水の匂いを嗅ぐくらいなら、機械油と硝煙の匂いを嗅いでる方がマシだ。それに、あんたのその毒々しい赤いドレス、血飛沫が目立たなくて実用的でいいじゃないか」
「あら、嬉しい。あなたにファッションを褒められる日が来るなんて」
女同士の、刃物を突き付け合うような皮肉の応酬。
ロレンツォは完全に蚊帳の外だった。大人たちの会話は滑らかで、それでいて一文字間違えれば殺し合いに発展しかねない綱渡りのような緊張感に満ちている。
ふと。
カルメンの切れ長な流し目が、ニコの背後で硬直しているロレンツォに向けられた。
「……あら?」
赤い唇が、弧を描く。
目深に被ったローブの隙間から覗く、天使のような、場違いに浮世離れした美貌。カルメンの瞳の奥に、極上の獲物を見つけた雌豹のような、危険で妖艶な光が宿った。
彼女は扇を閉じると、しなやかな足取りでニコの横をすり抜け、ロレンツォへと近づいてきた。
「随分と可愛いボディーガードを連れてるじゃない」
「な、なんだ……っ、僕に気安く近づく……な」
ロレンツォは精一杯の虚勢を張り、ローブの下で短剣の柄を握りしめた。ニコの死角を守る。その誓い通り、相手が誰であろうと退くわけにはいかない。
だが、刃を抜くより早く、カルメンの細く白い指先が、するりとローブの隙間に滑り込み、ロレンツォのアゴをそっとすくい上げた。
「ひっ……!?」
ひやりとした冷たい指の感触と、鼻先を掠めるむせ返るような甘い香り。
カルメンはロレンツォの顔を覗き込み、うっとりと目を細めた。
「強がっちゃって、可愛い。……数年後には、きっととびきりいい男になるわね」
「はな、離せ……っ!」
「ねえ坊や。大きくなったら、お姉さんと一緒に遊んでくれる? それとも……」
カルメンはアゴに触れた指をそのまま首筋へと滑らせ、耳元へと顔を近づけた。
豊かな真紅の胸元が、わざとらしくロレンツォの腕に押し付けられる。柔らかく、酷く生々しい感触。
「……今から『あんなことやこんなこと』、大人の秘密、教えてあげようか? うふふ」
「っ……!? ひ、ひゃあ……っ!?」
温室育ちの貴族であり、女性の免疫など皆無の14歳の少年の脳髄が、ショートした。
バルディ家で詰め込まれた高度な法学知識も、ガルドから授かった実戦用の短剣も、こんな規格外の大人の色香に対する防御力としては完全にゼロだった。
ロレンツォの顔は、一瞬にして茹でダコのように真っ赤に染まった。耳の裏まで沸騰し、頭から湯気が出そうだ。彼は声にならない悲鳴を上げ、短剣の柄から完全に手を離して、壁際まで無様に飛び退いてしまった。
ガンッ、と背中を壁に打ち付け、へたり込みそうになるロレンツォを見て、カルメンがコロコロと鈴を転がすように笑う。
「ふふっ、本当に純粋ねぇ。からかいがいがあるわ」
「……」
その時、二人の間に、灰の落ちかけたタバコを持つ手がスッと割り込んできた。
ニコだ。
彼女は呆れたように大きく紫煙を吐き出し、その煙の幕でカルメンとロレンツォを物理的に分断した。
「カルメン、私の雇い主を壊すなよ」
ニコは背中の機関銃のスリングを無造作に掴み直し、壁際で真っ赤になって固まっているロレンツォを完全に呆れ果てて子供扱いするように立ち塞がった。
「そいつはまだ、ミルクの匂いが抜けてないただのヒヨッ子なんだから。大人の毒を盛るのは十年早いよ」
「あら、残念。お姉さん、若いツバメを育てるのも嫌いじゃないのよ?」
「他所でやんな」
ニコの冷ややかな一瞥に、カルメンは肩をすくめ、ヴィンセントの腕へと戻った。
背中越しに、ニコの微かな舌打ちが聞こえる。
ロレンツォは、壁に背を預けたまま、心臓が爆発しそうなほど激しく脈打つのを感じていた。カルメンの色香に対する羞恥心と、結局はニコにただの子供として守られてしまった自分の不甲斐なさ。
彼女を守るどころか、手玉に取られてパニックを起こした自分が情けなくて、彼はローブの裾をギュッと強く握りしめることしかできなかった。
*
カジノ船の奥、分厚いベルベットのカーテンで仕切られたVIP用のバーカウンター。
表の喧騒は重い扉に遮られ、代わりにここは、立ちこめる紫煙と、アルコール度数の高い蒸留酒が放つ刺すような匂いに満ちている。
久しぶりの再会を果たした後、カウンターに並んで腰を下ろしたニコ、ヴィンセント、カルメンの三人の前には、氷がカランと乾いた音を立てる琥珀色のグラスが置かれている。
一方、その隅っこ——ニコのすぐ右隣の席に座らされたロレンツォの前には、バーテンダーが「お坊ちゃんにはこれがお似合いだ」と恭しく差し出した、色鮮やかで甘ったるい匂いのする果実水が置かれていた。
『いいか。お前は一言も喋るな。ただの荷物のふりをして、その果実水でも飲んでな』
席に着く直前、ニコから低い声でそう釘を刺されていたロレンツォは、結露したグラスを両手で力強く握りしめ、ただ黙って大人たちの背中を見つめていることしかできなかった。
「相変わらず、明日にも死にそうな危うい目をしてるね、ニコ。……そんな死に急ぐような真似、いい加減やめたらどうだい?」
ヴィンセントが琥珀色のグラスを傾けながら、ニコの肩に馴れ馴れしく腕を回す。
「あの堅物のジュリオが君を光の世界に引き上げてくれないなら、いっそ僕と泥の底まで堕ちてみるのも悪くないと思うけどね。……僕なら、君のその血生臭い重荷ごと、抱きしめてやれるぜ?」
「……冗談きついね」
ニコは鼻で笑ってヴィンセントの腕を軽く払い、咥えタバコから細く煙を吐き出した。
「あんたみたいな情報屋の『底なし沼』に沈むくらいなら、一人で泥水啜ってる方がよっぽどマシだ」
ニコは彼を突き飛ばすこともせず、咥えタバコから細く煙を吐き出すと、グラスの縁を指でなぞった。
「あんたの薄っぺらい夢なんぞ、絶対に遠慮願うよ」
そこに、カルメンが艶やかな唇をほころばせ、クスリと笑って加わった。
「ジーナがいた頃から、ニコはずっとジュリオ一筋だもんねぇ。あの素敵な奥さんから、可愛い妹分として扱われてた頃のおままごとが忘れられないんでしょ? あなた、ジーナのことも本当に好きだったものね。ずっと友情と恋愛の板挟み状態で、さぞ辛かったでしょうに」
カチッ、と。
ニコの指先がグラスに当たり、硬い音を立てた。
常に無感情なまでに冷ややかだった彼女の表情が、その一瞬だけ、刃物で胸を抉られたように痛切に歪む。
カルメンとヴィンセントが共有している、「ジーナが生きていた頃の過去」という強烈な文脈。隣で息を潜めているロレンツォは、ニコのその微かな、しかし決定的な心の揺らぎを見逃さなかった。
(……ジュリオ。ジーナ)
それは、ガルドから聞かされた彼女の過去の核心。しかし、ロレンツォにはその重みを知る由もなく、口を挟む権利など当然、微塵も持ち合わせてはいなかった。ただ、グラスを持つ自分の手が、ひどく無力なものに感じられただけだ。
ふと、ヴィンセントが顔から軽薄な笑みを消し、声のトーンを一段落とした。
「……冗談はさておき。最近、軍や新興商会の船の動きが妙に慌ただしくてね。海が酷くきな臭い」
「……ああ」
ニコも応じ、タバコの灰を落とす。
「イゾラ中の連中が、ある『極上の生肉』を血眼になって探してるらしいね」
ヴィンセントは、隣でジュースのグラスを握って固まっているロレンツォを、横目でチラリと流し見た。
それは明らかにロレンツォのこと——彼が持つ『海図』のことだった。彼らはあえて直接的な言葉を避け、裏社会の符丁を交えて情勢を語り始める。
黒砂結社が「古代の遺物」を狙って海底を漁り始めたこと。各地の「掃除屋」たちが不自然に徒党を組んでいること。
ロレンツォはバルディ家で叩き込まれた持ち前の頭脳をフル回転させ、彼らが発する隠語の羅列を必死に翻訳しようと試みた。
しかし、彼らが言葉の裏で交わしている視線の流し方や、僅かな空気の揺らぎ、グラスを置くタイミングといった、大人の泥沼のような駆け引きには、どうしても追いつくことができない。言葉の表面は理解できても、その奥に潜む真意が掴めず、ただ息苦しさだけが募っていく。
完全に蚊帳の外に置かれ、空気のように扱われる屈辱。
ロレンツォはたまらず、身を乗り出して口を開いた。
「……僕だって、足手まといの荷物にはならないと決めたんだ! 僕にも情報を……」
「ふふっ」
背伸びをして虚勢を張る少年の声は、甘い香水と共に席を立って近づいてきたカルメンの指先に、あっさりと塞がれた。
彼女はロレンツォの頬をそっと撫で、艶然と微笑む。
「坊やはお酒も飲めないのに、無理して大人ぶっちゃって。ここはね、命のやり取りをして、底辺でもがいてきた人間だけが座れる席なの」
「っ……!」
「こんなお荷物を抱え込んで、君も物好きだね」ヴィンセントも肩をすくめ、ニコに向かって笑いかけた。「いっそ僕に売り飛ばしてくれたら、一生遊んで暮らせる額の懸賞金を半分分けてあげるけど?」
冗談めかした言葉の奥に、本物の値踏みするような視線が光る。
その瞬間、ドンッ、と。
ニコがグラスを乱暴にテーブルに叩きつけた。
「……私はこいつの護衛だ」
ニコの漆黒の瞳が、凄絶な冷たさを帯びてヴィンセントを射抜く。
「手を出したら、喉笛を掻き切るよ」
その絶対的な凄みに、ヴィンセントとカルメンは顔を見合わせ、「怖い怖い」と肩をすくめて笑い合った。大人たちの間には、それで元の空気が戻る。
だが、ロレンツォの心境は激しく千々に乱れていた。
ニコは、自分を獲物として見た彼らから、真っ向から守ってくれた。しかしそれは、決して対等な師弟や相棒としての扱いではない。彼らが共有する泥にまみれた過去にも、血なまぐさい情報戦にも立ち入れない、ただの手のかかる子ども荷物扱いだ。
(なぜだ……! 僕だってナイフを握り、彼女の背中を守ると誓ったのに!)
ロレンツォは真っ赤に染まった顔を俯かせた。
なぜニコは、彼らといる時だけ、僕の知らない過去の顔をするんだ。なぜ僕は、覚悟を決めたというのに、一人の大人としてこの席に座れないんだ。いつまで僕は、甘い果実水を飲まされるだけの子どもなんだ……っ! 行き場のない強烈な嫉妬と、己の無力さへの苛立ち。
ロレンツォは、目の前に置かれた色鮮やかな果実水のグラスを、割れんばかりの力で睨みつけた。
(今はまだ、甘いジュースで子ども扱いされていればいい。……だが)
ロレンツォは、マメが潰れて血の滲む手で、ローブの下に隠し持った実戦用短剣の柄を、ギリッと音が鳴るほど力強く握りしめた。
(僕が18歳で成人した時。必ずこの席に戻ってきて、誰よりも強い蒸留酒を煽ってやる。カルメンの戯れも、ヴィンセントの軽口も実力でねじ伏せて、僕が隣に立てる対等の相棒だと、絶対にあんたたちに認めさせてやる……!)
苛立ちの中で芽生えたその暗く冷たい誓いの炎が、彼の胸の奥で、決して消えない熱を持って燃え上がった。
*
数刻後。
狂騒と欲望が渦巻くVIPバーを出ると、カジノ船の廊下は嘘のように静まり返っていた。
厚い絨毯が足音を吸い込み、窓の外には、暗く冷たい中立海域の波間が広がっている。
ニコは無言のまま、ロレンツォの数歩前を歩いていた。
ヴィンセントたちとのやり取りの疲労と、カルメンによって無遠慮に抉り出された過去のダメージ。それを誤魔化すように強い蒸留酒を煽りすぎたせいか、彼女の足取りは、いつもの警戒心に満ちた獣のようなそれとは違い、どこか覚束なかった。
ふらり、と。
船が僅かに波で揺れた瞬間、ニコの身体が斜めに傾き、壁に手をつこうとしてそのまま崩れ落ちそうになった。
「ニコ……っ!」
背後にピタリとついていたロレンツォが、慌てて両腕を伸ばし、彼女の細い身体を正面から抱きとめた。
ドン、と胸に重みがのしかかる。
その瞬間、ロレンツォは息を呑んだ。
鼻先を掠めたのは、いつも彼女に染み付いている強烈な火薬と機械油の匂いではない。微かなアルコールの甘い香りと、そして——今まで全く意識していなかった、無防備で柔らかい体温だった。
煤けた革ジャケットの下にある、細いが確かに丸みを帯びた女性としての骨格。抱きとめた腕に伝わる、柔らかな肉の感触。
(……っ!)
鉄屑の街でどれほど凄惨な返り血を浴びても表情一つ変えなかったバケモノが、今、確かな体温を持つ一人の女として自分の腕の中にいる。
ロレンツォの心臓が、これまで経験したことのない、狂ったような早鐘を打った。顔が一気に熱くなり、喉の奥がカラカラに乾く。彼の中の、未成熟な男としての本能が、突如として目を覚ました瞬間だった。
「……悪いね。ちょっと、酔った」
ニコは目を閉じたまま小さく息を吐き、ロレンツォの胸を軽く押し返して自力で立ち上がった。その声の掠れ具合すら、今のロレンツォにはひどく艶かしく聞こえてしまい、彼は真っ赤になった顔を誤魔化すように、無言で俯くことしかできなかった。
カジノ船の底層に取った、安く狭い船室。
窓の外から差し込む、海面を反射したネオンの安っぽい光が、天井でゆらゆらと波打っている。
部屋に入るなり、ニコはベッドに力なく倒れ込んだ。
普段なら、どんな安全な場所でも絶対にアルドの機関銃とナイフを手放さない彼女が、今は酔いと極度の疲労からか、重い銃を床にドンと置き、無造作に革ジャケットを脱ぎ捨てた。
薄いシャツ一枚になった彼女は、乱れた短い黒髪をシーツに押し付け、深く、ひどく無防備なため息をついた。
「……あーあ、疲れた」
それは、修羅場をくぐり抜ける凄腕の掃除屋ではなく、ただの年相応の娘が漏らすような、隙だらけの素顔。
ロレンツォは部屋の隅で硬直していた。ドギマギとして視線のやり場に困り、ベッドに横たわる彼女の細い腰や、シャツ越しに上下する胸の起伏から必死に目を逸らす。
「み、水……。水を、持ってくる」
動揺を隠すように早口で言い、ロレンツォが洗面台へ向かおうと身を翻した、その時だった。
その拍子に、無造作に放り出されていた彼女の革ポーチの口が緩み、コロン、と。 あの鉄屑の街で見た『黄色いレモン』が、シーツの上に転がり出る。
ロレンツォはふとそれに目を落とし、微かに息を呑んだ。
鉄屑の街で見た時、あれほど鮮やかで強い柑橘の香りを放っていたその果実は、過酷な潮風と硝煙に晒され続けたせいか、表面が少しだけ黒ずみ、しなびていたのだ。あの静かで穏やかな酒場の香りも、ひどく弱々しくなっている。
(……永遠に変わらないものなんて、ないのか)
彼女がどれほど強く過去の幻影にすがろうとも、その想いはこの泥臭い現実の中で少しずつ劣化し始めている。その残酷な時の流れを示すような果実に、ロレンツォが言い知れぬ痛ましさを覚えた、次の瞬間。
「……ジュリオ」
ニコの唇から、消え入るような、けれど痛切な響きを持ったうわ言がこぼれ落ちた。
「……もう、戻れないよ。……あんたの隣には……」
——ピシャリ、と。
ロレンツォの頭から、氷点下の冷水を浴びせられたような感覚が走った。
伸ばしかけた彼の手が、空中でピタリと凍りつく。
残酷な現実が、容赦なく14歳の少年の首を絞め上げた。
彼女が今見せている女としての脆さも、この切実な涙声も、決して自分に向けられたものではない。
あのバーでカルメンが語っていた、手の届かない過去にいる大人の男へ向けられたものだ。自分がどれほど背伸びをして死角を守ると息巻いたところで、彼女の魂はずっと、その『ジュリオ』という男の幻影に囚われたままなのだ。
ニコは、ロレンツォの袖を握っているのではない。自分を置いて光の射す場所へ行ってしまった男の幻影に、必死にしがみついているだけなのだ。
(……僕は)
今の自分は、大人たちの泥沼の会話に一言も入れず、甘ったるい果実水を飲まされて隅っこで固まっているだけの、無力な子ども。
彼女のこの痛切な過去の傷を癒やすことも、その重い十字架を代わりに背負ってやることもできない。カルメンにミルクの匂いが抜けてないとからかわれ、ニコに背中で庇われてしまうだけの、ただのヒヨッ子。
ドロドロとした、醜い感情が腹の底で沸騰した。
それは純粋な愛情などという綺麗なものではない。自分の無力さに対する悔しさからくる、傲慢で子どもっぽい執着だった。
僕は覚悟を決めて、すべてを捨ててナイフを握ったのに。なぜ誰も、僕を一人の男として認めてくれない。なぜお前は、すぐ隣の相棒じゃない、過去の男の夢を見て泣くんだ。
ロレンツォは、ギリッと奥歯を噛み砕きそうなほど強く噛み締めた。
(子ども扱いするなら、させておけばいい)
胸の中で、暗く冷たい炎が燃え上がる。
(いつか必ず、その見下した大人たちを——過去の男を——僕が実力でねじ伏せてやる。そして、僕がただの荷物じゃないってことを、絶対に、お前に認めさせてやる……っ!)
ロレンツォは、ニコの頬に触れようとしていた自分の手を、怒りに任せて強く引き戻した。
そして、自分の袖を握りしめている彼女の手を乱暴に、しかしどこか壊れ物を扱うようにそっと外し、シーツの中へとしまい込んだ。
ネオンの光が波打つ暗い船室の中。
ロレンツォはベッドに背を向けると、ローブの下に隠し持った実戦用短剣の柄を、マメが潰れた傷口から再び血が滲むほど、強く、強く握りしめた。




